02
本人が宣言したとおり、子爵はなにをするでもなく、ただのんびりと時間を過ごしていた。
二日後、出歩けるようになった奏音は、早速子爵を紹介された。
なにやら難しい印象のひとが来ると緊張して面会に臨んだものの、いざ紹介された人物は陽気で眩しい青年だった。王宮で顔を合わせたことがあるらしかったが、初対面のようなものだった。奏音の状況を理解してくれているのか、無礼な振る舞いも、根掘り葉掘りあれやこれやと詰問されることもなく、嫌な印象は感じなかった。
彼の明るい雰囲気は、奏音の気持ちを朗らかにしてくれた。
まっすぐな誠実さを見せるレミンとは違い、真夏の太陽のような子爵。彼の笑い声は聞いていて耳に心地よく、こげ茶色の瞳は思慮に溢れ、いつだってあたたかだった。
「……」
「どうした?」
サンルームで昼食後にくつろいでいた子爵は、複雑な顔でこちらを窺うレミンに気付く。
「イルキ。お前、いつまでここにいるつもりなんだ?」
イルキとは子爵の名前である。
子爵は少し考える素振りを見せた。
コイヴァリンナに来て既に一週間が過ぎていた。レミンたちのそばについている傍ら、それとなく使用人たちに探りを入れたり、書斎や図書室で書類を調べたりと、ちゃんと裏の任務も果たしている。
なんらかの形で報告ができる答えを得ていても、いい頃合いだった。
「そうだな……。もうそろそろとは思ってるんだが」
その眼差しが、歩きにくそうに雪の庭をゆく奏音の姿を捉える。番犬として飼っている三頭の犬が、供をするように彼女につき従っている。
「あ」
雪に足を取られたのか、奏音が豪快に転ぶ。両手を上げて見事に顔から突っ込んだ。犬たちが尾を振りながら奏音を囲む。ややしてのろのろと起き上がると、恥ずかしそうに犬たちに笑って見せた。
思わず浮いてしまった腰を椅子に戻し安堵の息をついたレミンは、子爵がこちらをじっと見ていたことに気付く。意味ありげなその眼差しに、慌てて紅茶を口に含んで目をそらした。
「妬いてるんだろ」
「……妬いてない」
「おれが世の女性の心を奪ってしまうのは、主が与えたもうた宿命なんだ。諦めろ」
「だから妬いてないって」
「さて、どうかな?」
子爵は思わせぶりな眼差しをレミンに向けている。それには答えず黙っていると、子爵はふいに表情を優しくさせた。
「おまえ、変わったな」
怪訝に見返すと、子爵は思いを馳せるように続ける。
「丸くなった、っていうのかな。前はもっと、こう……よそよそしくて粗削りな印象だった」
「粗野な田舎貴族ってのは、否定しないよ」
「そうじゃないよ」
穏やかに子爵は笑う。
「深みが出た、って言えばいいのかな。なんかこう、芯がどっしり安定してるっていうか、頼りがいがあるというか」
「……」
アーニキにも変わったと指摘されたが、しみじみと褒め言葉を並べられるのは気恥しい。
「―――カナデ殿の、おかげなのか?」
窓の外、硬く凍った池で奏音はスケート遊びを始めていた。決して上手ではないが、時間を見つけては滑っているだけあって、危なっかしくはあっても転ぶことはない。すぐそばで犬たちがはしゃいでいる。
サンルームから眺めているレミンたちに気付いた奏音が、手を振ってきた。
それに手を振り返しながら、レミンは自分に問い返す。
奏音と出逢い、自分は変わったのだろうか?
気持ちに幅が出た意識は確かにある。迷い子の雛を胸の内に抱えているような、守ってやりたいという思いが、自分を満たしている。
(迷い子の雛、か)
レミンの口元に、自嘲的な笑みが浮かぶ。迷い子の雛は、まさに奏音だ。
「ルヴァネリンナでは、親子のようだと言われているらしい」
「おれも聞いたぞ、それは」
おかしげに相槌を打ちながらも、子爵の眼は、レミンの答えを待っていた。
「―――そうかもしれない」
長い沈黙のあと、レミンはこぼす。
かつての自分と現在の自分は、違っている。
独りで時間を過ごしていた以前の日々には、もう戻れない。なんという薄っぺらな毎日だったかと、そう思えてしまう。
たったひとりの娘の存在で、こんなにも違ってくるとは思いもしなかった。
「お前、恋人は?」
カップの持ち手を指でもてあそびながら、おもむろに子爵は尋ねてきた。
「私生児を含めて、子供はいるのか?」
「―――なにが言いたい?」
レミンの声に、棘が混じる。
「あれから、本当に誰とも付き合っていないのか? もちろん遊びは除いて」
なんでもないような話しぶりだが、ひどく癇に障った。
子爵はレミンの怒りを見越していたのか、強い眼差しで睨まれても表情を変えなかった。
レミンはそこに、審問官としての子爵の姿を見た。
「どっちもいない」
沸き起こった怒りの行き先をもてあまし、苛々と吐き捨てる。
「そうか……」
子爵は黙り込んでしまう。
真冬の厳しい寒さの中訪れた、晴れ渡った一日である。
日の光の乏しいこの季節、母親のぬくもりを求めるように人々は太陽を恋う。コイヴァリンナの寒さにまだ慣れていない奏音も、今日のような天気を前にしては気持ちも疼くらしい。朗らかな顔をして庭に楽しみを探し出る。
子爵はそんな奏音を眩しげに眺めやっていたが、覚悟を決めた眼差しをレミンへと転じた。
「陛下は、気にしておいでだ」
なにを、と語られなくとも、それで意図は伝わる。
「いまだ王太子殿下どころか姫君すら……、いや、陛下の御子を懐妊なさった御夫人、令嬢もいらっしゃらない。王妃陛下も、畏れながらもうお若くはいらっしゃらない。このままでは、遠からず宮廷はふたつに分裂してしまう」
国王派と王弟派。
アーニキが気にしている争いは、想像以上に現実味を帯びだしているらしい。
国王ライコは気分屋で残虐な面を持つが、以前は決して愚かではなかった。宮廷人たちを惹きつけてやまない自身の魅力を知っていたし、政治面でも的確な判断を下していた。私生活は乱れていたが、閨で囁かれる睦言を政治に持ち出すことは決してしなかった。
ライコにとって一番大きな問題。それは、世継ぎが生まれないことだった。
国の長として諸外国や内政をうまく御せていたとしても、十四歳年の離れた王弟ミカが三十代半ばになろうとしている現在、私生児すらいないライコの立場は、先が細るように微妙に変化しつつある。
一部の貴族たちが、暫定的とはいえ次期国王の座にいるミカを持ち上げるようになってきたのだ。
ミカは、大輪の花のようなライコとは違い、堅苦しい印象の男である。寡黙で冷徹とも思える眼差しは常に事実と真実と自信に満ち溢れ、近付きがたい雰囲気すらある。だが、仲の良い側近と会話をしているときなどに時折見せる無防備なまでの笑顔は、さすがライコの実弟だけあって、宮廷人―――とくに御夫人方の甘い溜息を誘う。
ライコともう少し年が近ければ、修道院に入れられ、政治の表舞台に出ることはなかったのだろうが、現実はヴァンリンナ公爵として良き宰相であり、良き夫、良き父親であった。
昔こそふたりは互いを信頼し合い、政治もうまく機能していた。
しかしここ数年、ミカの息子が有能だと噂されるようになり、一方ライコにはいまだひとりの子もいない。
王といえども、焦燥感には抗えない。
ふたりの関係は次第にぎくしゃくし、ライコの私生活の乱れは箍が外れたようになり、いつしか国政に影響を与えるようになっていった。
奏音を手放してからは、ときに自暴自棄ともいえるような言動もあるという。フィザーン国政がもっているのは、現在ではミカによるところが大きい。
王都から遠く北に離れたコイヴァリンナには、あまり縁のない話だったが。
「陛下御自身が予見を否定なさったので誰も口にはしないが、カナデ殿への期待はあまりに大きい。大きすぎる。フィザーンにはもうカナデ殿しかいないんだよ、レミン」
背筋が薄ら寒くなるほど、子爵は真剣だった。
彼はこの一週間、奏音を〝王太子を産む女性〟としても見ていたのか。プライベートでは奔放な印象を持たれがちだが、処々の判断には決して公私を混同することのない子爵。王が彼を審問官に任命したのは、正解だったのかもしれない。
確かに、奏音が王太子を産めば、王弟派は瓦解する。フィザーンがふたつの派閥に分かれて争い合う事態は避けられる。
判ってはいるが、―――受け入れられない。
奏音の献上は、フィザーン貴族としての義務だ。
判ってはいる。
しかしライコのもとに再び奏音をやりたくはなかった。彼女は辺縁の姫君、主の姫宮だ。苦難の待ち受けるところへ、二度も送りだすべきではない。フィザーンの一方的な事情に、巻き込むべきではない。
たとえ相手が一国の主であっても、利用されていい存在ではない。
(いいや)
辺縁の姫君であるかないか以前に、ひととして、あの男のもとに差し出したくなかった。
奏音はまだ、自分の状況について判断すらできない。王によって落とされた暗い闇から、抜け出せていない。
あらゆる希望を奪われ、絶望の底でいまももがいている。その元凶が、あの男なのだ。
「カナは、おれの妻だ。政治に利用する気はない」
苦い声になった。
「だが予見は確かになされたんだ。誰の妻であろうと関係ない。本来いるべき場所に、戻して差し上げるんだ」
「おれたちを、カナを翻弄しないでくれ。やっとあそこまで心を開いてくれたんだ。それでもまだ、まだ深い傷を負ってる」
王のもとに再び上がらせるために見守っているわけではない。
まわりがどんな思惑で見ていようとも、断固としてそれは違う。
子爵は難しい顔を崩さない。
「―――お前には、辺縁の知識を独占するつもりだという疑いもかけられてる」
「辺縁の、知識?」
眉を曇らせるレミンに、子爵は苦いものを呑み込んだ顔で告げる。
「カナデ殿の秘める辺縁の知識は、途方もないはずだ。思わぬところで思わぬ収穫があるだろう。カナデ殿を独占するってことは、その叡智を独占することでもある」
レミンは言葉を失い、内心唇を噛む。
辺縁の知識を独占するつもりなど、まったくない。
第一、
「おれが辺縁の知識を独占しようと画策してたとしても、言葉を失くしたカナからどうやって得るんだ?」
子爵はじっとスケートに興じる奏音を眺めやり、重たく口を開く。
「辺縁の知識は、なにも言葉だけじゃない。ふとした仕草、無意識に出てしまう癖。辺縁で生まれ育った身体には、あちらのすべてが染みついている。言葉からの知識は既に王家と教会が得ているらしいが、そういう意味じゃ、カナデ殿の知識は無限だ。お前は王家と教会以外で、それを独占できる唯一の存在なんだよ。独占しようとしていると疑われるのも、判るだろう?」
「……」
絶句した。
奏音が王宮にいた約二年のうち、ほとんどは言葉を失くしての軟禁状態だったという。言葉を話せた僅かな間に、辺縁での十何年かを尋問されていたというのか。
あの小さな少女にとって、どれほどの苦しみだったことか。
それなのにまだ足りないと。現在も貪欲に辺縁の知識を欲していると?
「カナデ殿は、やっぱり辺縁の御方なんだよ。手元に置いておきたいと王家は望んでいる。フィザーンには必要な御方なんだ」
国王直属の審問官でありながら、子爵は〝陛下〟ではなく、〝王家〟という表現をした。
「レミン。カナデ殿を予見どおりの居場所に戻して差し上げろ。〝妻〟にこだわってどうする。領地は他の誰かに子供を産んでもらって譲ればいい。養子をもらうのも手だ。でも王家は―――。陛下は、お前に悪いようにはなさらないはずだ」
言下に、別の意味を含ませていた。
途方もないやりきれなさを、レミンは感じずにはいられなかった。




