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久遠の夜 千夜の果て  ―――辺縁の姫君  作者: トグサマリ
【第三章 コイヴァリンナ】
14/44

03

 王都や領都と違って、コイヴァリンナのような田舎ともなると、夜に外出するあては皆無にひとしい。村に酒場はあるにはあるが、領主のレミンがふらりと立ち寄るようなものはなかった。

 だから厩舎では、既に馬も馬丁たちも眠る準備に入っていた。

 そんなところへ突然、無蓋(むがい)馬車を用意するよう言われたので、にわかにあわただしくなる。雪がいつ降ってもおかしくないこの季節、無蓋馬車が指名されるとは夢にも思わなかったせいもある。

 馬丁たちは急いで、けれど慎重に馬車の用意をする。馬は眠りたいのだと目で訴えてきたが、声をかけ身体をブラシでといてやると、仕事が待っているのだと判ってくれた。

 馬車の点検を済ませ、埃と汚れを隅の隅まで丁寧に取り除く。そうして玄関前に着けた頃、玄関広間からの明かりを背に、当主夫妻が現れた。


「急なことで悪かったな」

 当主は無理なことを頼むと必ずそう声をかけてくれるので、使われる側も悪い気はしない。

 ふたりはこの季節にしては厚着と思われるいでたちだった。

 レミンは分厚い外套に帽子、厚手のマフラーを着込み、奏音はウサギの毛に縁取られたフードつきの外套を着ていた。

「頼むぞルゴット。夜の散歩に付き合ってくれな」

 レミンは馬の名を呼び、優しくその首筋を撫でた。真冬の厳しい寒さでも、雪の中、馬橇(ばそり)を引くに適した馬である。長く密集した毛に覆われた身体の上に、フェルト地の馬衣がかけられている。寒さの中を行くと伝えておいたからだ。

 ルゴットがぶるると軽く返事をしたのを確認し、レミンは奏音を座席に座らせた。

「お気をつけて行ってらっしゃいませ」

 レミンが奏音の隣に座ると、執事が頭を下げる。頷いたレミンが手を閃かせると、御者もいないまま馬車は動きだした。手綱は一応レミンが握ってはいるが、本当にただ持っているだけだった。

 馬車は庭の小径に出る前に浮かび上がる。身体が浮く感触に、奏音は恐怖を覚えた。

 膝掛けを握る手に硬く力がこもるのを見、レミンはそっと声をかける。

「大丈夫。どこかに連れ去ったり、怖い思いをすることはないよ。おれがついてる。寂しい思いも、これが最後かもしれない」

 うまくいけば、辺縁に帰れるのだから。

 力強さを秘めたレミンの声に、彼女は角燈の小さな明かりのもと、恐るおそる視線を上げた。

 痛いほど不安な目をしていた。以前魔術で空に馬車を走らせたことが、恐怖に繋がる経験として心に深く縫いとめられてしまっているのだろう。

 悔やまずにはいられない。

 予見があったとはいえ、奏音の心を傷付けたことに変わりはない。

 その予見もライコ自身が否定してしまった。

 奏音は何故フィザーンに落とされたのか。なんのために、なにを課されてここにいるのか。

 本当に、今後王太子を産むことになるのだろうか―――。

 いまだライコには子がいない。奏音がいつか言葉を取り戻したら、ライコに呼び寄せられ、再びその寵を得ることになるのだろうか? 奏音にとってそれは幸福なのだろうか。そうなってもいいのだろうか?

 奏音に頷きながら、あらためて思う。

 既に奏音はなにかを為したのかもしれない。

 神がなにを意図して奏音を遣わしたのかは判らない。だが、辺縁の姫君はやって来た。それだけでもうなにかの意味はあったのだ。既に知らないなにかが、誰も知らないなにかが、奏音が降り立ったことによって水面下で動きだしているかもしれない。

 ライコの言うように、あの予見が外れたのだとしたら。

 不謹慎とは判っている。判っていたが、外れていて欲しいと願う自分がいるのは否定できない。

 奏音に託された神の意思がすべて為されたのだとしたら。

 辺縁へ帰れるかもしれない。辺縁の姫君としての役目を終え、故郷に迎え入れられる―――。

 自分が魔術に興味を抱き学院に通ったのも、奏音が妻となったのも、すべては彼女を辺縁へ送り届けるそのためだった……。

 最初から、決まっていた―――?

「辺縁を目指して空を昇った姫君は、きっといままでいなかった。だから、辺縁には戻れないと言われてただけなのかもしれない。カナデは、戻れるかもしれない」

 希望と期待を帯びた眼差しでこちらを見つめるレミンに、奏音から恐怖が抜け落ちていく。

 すぐ隣にレミンがいて、優しく大きく見つめてくれている。それがどれほどの安心感を与えてくれているか。

 すがるような奏音の眼差しは、僅かずつ和らいでいく。

 レミンは重ねて頷いた。自分自身に言い聞かせるように。


 馬車は大きな螺旋を描きながら、上空へと昇っていた。

 厚く着込んではいるけれど、昇るにつれ次第に肌寒くなってくる。無蓋馬車だからなおさらだ。

 頭上の辺縁は、ゆっくり南へと動いていた。潮の満ち干のように、辺縁は移動を繰り返しながら季節ごと場所を変える。夜の時間は天の中ほどにまでやっては来るが、日中は地平線近くにまで沈んでしまう。辺縁を追い、馬車も南へ南へと進む。

 やがて、足元にあった邸の明かりが小さな点となり、見えなくなる。遠く右手に、幾つかの光の点が集まっていた。ハイカイネン領都、ルヴァネリンナの明かりだとレミンは教える。その明かりも、時間とともに少なくなったのか空高く昇りすぎて見えなくなったのか、捉えられなくなった。


 速くはないが、馬車は着実に空を昇り進む。

 奏音はただじっと、天上の辺縁を見つめていた。レミンも言葉をかけることもなく、同じように辺縁を目で追っていた。

 辺縁は馬車を置いて南へ去ろうとする。螺旋状に空を昇っていた馬車も、いまでは一直線に辺縁を目指し、南へと駆けていた。

 それでも距離は縮まらない。

 おもむろに奏音は立ち上がり、引き寄せられるように辺縁へと右腕を伸ばした。

「立たないで」

 揺れないよう、馬車には魔術が施してある。だが、天を駆ける無蓋馬車で立ち上がるのは危険だった。なにかあっても助けられる自信はあったが、なにかあったら、奏音の心はどんな傷を負うか。

 抱き寄せて座らせたくとも、奏音は異性に触れられることを怖れている。ふたりきり隣同士に慣れるのにも数ヵ月を要したのだ。

「まだ追いかけられるから。大丈夫だから。だから、座って。危ないから。な?」

 レミンの声が伝わったのか。辺縁を摑もうとする腕が、しなだれるように身体の横に下りた。辺縁に顔を向けたまま、力なく座席に腰が下ろされていく。

 ほっと息をつくレミン。

 追いかけられると奏音には言ったが、目指す辺縁は、空を昇り始めたときとまったく同じ姿で横たわっている。淡く白い帯は濃くもならず薄くもならず、大きくもならず細部が見えるようにもならず、人間など我関せずといった様子で、南へ動く以外、なんの変化も見せてくれない。


 ―――東の地平線が青い光を抱き始めた。

 辺縁の端が、夜明けの光に紛れだす。既に朝の時間は過ぎていた。

 奏音の手が、レミンの腕へと伸びた。

 これまでなにかの拍子に偶然手や身体が触れることはあった。そのたびに大なり小なり彼女が緊張するのを知っていたから、できる限り触れることのないよう気を遣っていた。

 だから彼女自ら触れてきたことに、レミンは目を瞠る。

「どうした?」

 奏音は、俯いたまま首を振った。

「寒いのか?」

 更に首を振る。―――涙ぐんでいる。

「カナデ?」

 奏音はレミンの腕に手をやったまま、迷い子のような顔をしていた。そうして、消え入るように小さく首を振った。

 レミンははっとする。

「でも、まだ追いかけられる。届くかもしれない」

 涙に濡れた奏音の顔は、もう角燈の明かりがなくても、まつげの先まではっきり判る。

「諦めちゃいけない。まだ、諦めるには」

 言い終わらぬうち、奏音が胸に飛び込んできた。小さな身体が、すっぽりと収まる。

 震えていた。レミンに身体をあずけ、声もなく泣いている。

 時折やるせなく左右に動く首の動きに、息が止まるほど彼女の思いを知らされた。

「―――本当に、いいのか?」

 問うのは、酷に思えた。

 奏音は答えるように、もう一度首を振った。

 このまま抱き締めてやりたい。そんな気持ちを押し込め、そっと奏音の頭を撫でた。

 彼女の嗚咽が白い息となって空気に流れていく。

 ああ、と身を切るような思いがこみ上がる。

 辺縁に、帰ることはできないのか。

 そこにあるというのに、魔術を使っても、手を伸ばしても、辺縁の端にかすりもしない。

 主の真意は、ここにはないのか。

 期待させてしまったぶん、奏音には残酷なことをしてしまった。

「―――ごめんな……」

 悔しかった。

 まるで役に立たない魔術師の自分。

 月の痛みを癒すことも、故国へ帰してあげることもできない。

 神の領域である辺縁はあまりにも大きく、果てしなく遠すぎた。

 自分はちっぽけで、情けないくらいなにもできない男だ。

「ごめん……」

 謝ることしかできない。

 奏音は泣き続けていた。

 その小さな肩に、そっと手を置いてやることが、レミンにできる精一杯のことだった。

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