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久遠の夜 千夜の果て  ―――辺縁の姫君  作者: トグサマリ
【第三章 コイヴァリンナ】
15/44

04

 辺縁を追いかけて空を駆けたあの夜から、数ヵ月が経った。

 あの日を境に、奏音は変わった。

 それまでは一緒にいても、物理的にも心情的にもどこかしら距離があったのだが、それがなくなっていた。

 いまだ言葉を取り戻せないではいるものの、レミンに全幅の信頼を寄せているのが仕草や眼差しから窺えた。

 言葉を取り戻すのもそう遠い日ではないだろう。

 そう思うようになった頃、ひとつの知らせが入ってきた。

 執事が持ってきた封書を開けたレミンは、状況が大きく動くのを予感した。

 書状の主はレミンの姉、サーリネン伯爵夫人アーニキだった。



「ずいぶんと、懐いているようね」

 書状が届いて数日後、アーニキは馬橇(ばそり)で雪深い道をやって来た。レミンは奏音とともに出迎え、暖炉で充分にあたためた居間へと招く。

 レミンとアーニキが顔を合わせたのは、あの結婚式以来だった。久しぶりに姉弟が語らう間、お茶菓子をつまみながら、なにをするでもなくじっとレミンの隣に座る奏音の様子に、アーニキは驚きを隠せなかった。

 暗い顔でぼんやり俯いている印象しかなかった。まっすぐに正面を見、表情のすっきりした奏音が意外でならない。

 なにより、レミンに対する警戒心が見事に消えていることに、驚きを通り越して感心してしまった。

「懐く、だなんて。犬や猫じゃないんだから」

「だって、そう見えるんだもの」

 アーニキはあけすけに言う。裏のない物言いなだけに、悪意は感じられない。

 奏音は、テーブルに置いてあるカップを指の背で軽く弾いた。もう一度、今度は指の腹でゆっくり触れると、持ち手に指を絡め口元へ持っていく。

「……なにかの、儀式?」

 こわごわと、紅茶をほんの少しだけ飲む奏音に、アーニキは怪訝な顔で訊く。

 その反応がおかしくて、レミンはつい笑ってしまう。

「なによ」

「いや、カナは猫舌でね。(ぬる)めに淹れても、毎回こうしないと舌が火傷しやしないか不安らしい」

 アーニキは目をぱちくりさせた。

 レミンが親しげに彼女のことを「カナ」と呼んで、穏やかに見つめていたからだ。

「熱くはないか? 姉上の前だからって我慢して飲んでるんじゃないだろうな?」

 返事がないとは判っていても、気になってつい訊いてしまうレミン。奏音は顔を上げ、にこりと笑む。

「ん。ゆっくり飲むといい」

「……。あなたのそんな顔、久しぶりに見るわね」

 あ然としていたアーニキは、懐かしむように眼差しを和ませた。

 どちらかといえば、アーニキの顔立ちは冷たいと評されている。裏表も忌憚もない物言いともあいまって、薄情な女と誤解されがちだが、いまのようなふとした表情は、だからこそ印象的に胸に残る。

「もうずっと、素を見せなくなってたじゃない。あれから……何年経ったのかしら……? どこか、斜に構えてたきらいがあったもの」

 レミンの顔に一瞬影が走る。奏音に気付かれる前に口元に笑みを浮かべ、なんとか誤魔化す。

「そんなことはないよ」

「自覚していないだけよ。いつも一歩も二歩も引いた場所で、我関せずの涼しい顔をしてたじゃない」

「まさか」

 そう答えてはみるものの、確かにこの十年近く、奏音に出逢う以前の記憶は堅苦しい。

 いついつになにがあったという事務的な事柄が時間に沿って並んでいるだけで、なにかを楽しんだり笑ったりといった心の動く経験はなにひとつ覚えていない。

 納得して通り過ぎたと思っていた過去に、気付かないまま囚われていたのか。

 それが奏音と出逢ったことで動きだしたのかもしれない。

 言われてみれば、彼女と結婚をしたことで、ゆとりのなかった毎日に安らぎさえ感じるようになっていた。

 諦めたように吐息を落とす。

「姉上には―――敵わない」

「当たり前」

「で。ここに来た理由は? なにかあるんだろう? まさか純粋に逢瀬のついでとか?」

 アーニキは、艶然とした笑みでレミンの厭味を流した。

「噂があるのよ」

「噂? 王都での?」

「ええ。あなたが公爵を独占しすぎてるって、噂」

「独占もなにも、おれの妻じゃないか」

「辺縁の姫君であることに変わりはないわ。いろいろ言われてるのよ。公爵を魔術で操って我物にしてるとか、懐妊を隠して陛下に献上をして陛下の御子だと偽る気だとか。フィザーンを乗っ取ろうと画策しているんだ、とかも」

「……」

 レミンは絶句し、瞬きすら忘れる。

 そんなこと思いもつかなかった。

 どうせ貴族どもの下世話な噂話だろう。よくも好き放題妄想を暴走させられるものだ。

「あなた、結婚してすぐこっちに引っ込んじゃったじゃない? 王都に出てくる気配が全然ないんだもの。なにか思惑があるって噂されても、しかたないわよ」

「しかたないって……」

 アーニキの目が、やや鋭い光を帯びる。

「非公式で審問官が派遣されるそうよ。あなたのもとに」

「ここ、に?」

 ぴりりと場の空気が緊張する。奏音は顔をこわばらせ、こくりと紅茶を喉に流し込む。あまり良くはない内容の話だと、空気が教えている。

「ええ。わたくしが王都を出る直前の話だから、もうその道中かもしれない」

 審問官の訪問の書状は届いていない。おそらくアーニキ同様、ルヴァネリンナに到着してから届けられるのだろう。

「無茶苦茶な言いがかりだな。なんなんだよ、好き勝手に噂で盛り上がったりして。それで、審問官? 大袈裟すぎる、莫迦にしてる。宮廷はそんなにも暇なのか。なにもないのに」

「宮廷は噂で動くのよ」

「このまま忘れてくれればいいんだ」

「無理に決まってるじゃない。あなたの奥方さまは、辺縁の姫君なんだもの。フィザーンの未来を背負ってる御方なんだから」

 溜息を禁じえない。

「―――それ。『辺縁の姫君』とか『公爵』っていうの。やめてもらいたい」

「え?」

「カナが嫌がる」

 視線を転じると、確かに奏音は硬い表情を浮かべている。

「公爵が公爵なのは事実でしょう? まさか、フィザーン中にそう頼み込むつもり?」

「そういうわけじゃないけど。いまは『ハイカイネン伯妃カナデ』だ」

 アーニキは呆気にとられた顔になって、弟とその妻を見つめた。

「……カナデさんが辺縁からおいでになったのは事実だし、国中の期待を背負ってるのも事実なのよ」

 あ然としつつも、アーニキは聞き入れてくれた。

「判ってる。―――判ってるけど、ここでは辺縁もなにも関係ない、カナデというひとりの人間として接してやりたいんだ」

「……。(あま)ぁい……」

 決して責めるものではなく、アーニキの声はむしろ呆れていた。

「いまのカナには、その甘さが必要なんだ」

 たった独りきりで、辛い日々を()えていたのだから。

「そんなだから、ルヴァネリンナのみんなに『伯爵は妻女の代わりに養女をもらった』ってからかわれるのよ」

「―――え?」

「あなたのカナデさんへの態度のこと。父親みたいだもの。からかわれてるんじゃなく、本当に養女と誤解されてるんじゃなくて?」

「そんなわけないだろ」

 と言い返してみたものの、コイヴァリンナへの道中、親子と間違えられた回数は一度や二度ではない。

「どうだか。―――ねぇ?」

 あてつけるように、奏音に同意を求めるアーニキ。肯定を求めているようなその顔に、奏音は迷いながらも笑みを返した。

「ほら。カナデさんもそう思ってるみたい」

「違うって。どうせ養女説も『ルヴァネリンナの恋人』から聞き出したんだろ?」

 ほのかに笑んだ目が答えだった。

「なんにしても」

 アーニキは紅茶をひとくち飲んだ。その仕草は息を呑むほど優雅で、奏音は一瞬、目を奪われる。

「カナデさんが元気そうで良かったわ。コイヴァリンナでも幽閉されているんだとか、実はもう亡くなってしまってて、だから表舞台に出てこれないんだ、とかも言われてたから」

「なんだよそれ」

「自分の立場をよく考えずに引きこもってるんだから、そのくらい言われるわよ。言われない程度には顔を見せるべきだったわね」

 自分の弟のことなのに、他人事のように言うアーニキ。カップをテーブルに置くと、彼女は思い出したかのように話を変えた。

「そういえば、ここへ来る途中、森の出口あたりに大きな穴が開いていたわ」

「どこの森?」

三本狐(さんぼんぎつね)(もり)のこちら側。道のすぐそばだから、気をつけないと(そり)がはまってしまうと思うの」

 三本狐の森は、館に一番近い森だ。誰が言い出したかは判らないが、子供の頃からそう呼んでいた。

「姉上の馬橇は大丈夫だったのか?」

「さあ」

 アーニキは小さく肩をすくめた。

 レミンは唇を引き結ぶと、奏音に向き直った。

「ちょっと姉上の馬橇と道を確認してくる。ああ、いいよ。外は寒いからカナはここにいて」

 奏音は心細そうな顔を返したが、レミンが安心させるように頷いたのを見て、浮かせた腰を再びソファに沈めなおした。

「姉上。一緒に来てもらえるか? 詳しい場所を教えてもらいたい」

「……カナデさんはあたたかい場所で待っていられるのに、わたくしには寒い場所なの?」

「場所を知ってるのは姉上なんだから」

「はいはい。じゃあ、少し失礼するわね」

 アーニキの笑みに、奏音も自然に笑みが浮かんだ。

 レミンの姉であるアーニキ。時に切り込むような口調にはなるが、不思議と怖くはなかった。

 力のある青色の目。白い頬に薄く切れ上がった唇。黄金色の髪はゆったりとその顔の横を流れ、肩に落ちている。レミンとはあまり似ていないが、かもしだす柔らかな雰囲気は共通している。

 ふたりに置いていかれ部屋にひとりきりにはなったが、レミンはちゃんと戻ってきてくれると、そう奏音は知っていた。

 だから、ひとりで待つのも怖くはなかった。

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