02
幾つもの季節が通り過ぎた。
奏音がコイヴァリンナで過ごすようになって、一年と数ヵ月が経った。
季節はぐるりと一周をし、深夜でも明るかった空が、昼には夕暮れる季節が再びやってきた。朝も、ずいぶん遅くならないと空は明けない。寒さも、日一日と厳しくなっていく。
夕食も済み、暖炉の脇でレミンは読書にふけっていた。奏音はそのそばで温くなった紅茶を飲みながら、なにをするでもなく暖炉に踊る炎を眺めていた。
ここしばらく、奏音は気持ちをもてあましてか、苛立ちを窺わせるようになっていた。熱い寒いといった些細ななにかを訴えたいのだろう。それを伝える術を失くし、表現のできない焦燥感で、気持ちを不安定にさせているようにも見えた。
レミンは奏音の表情や身振りからその思いを推し量っている。なにを言いたいのかいつも理解できるわけではなかったが、それでも、何度も何度も意思をすれ違わせながら、少しずつではあったが彼女のことが判るようになってきた。
猫舌で寒がりなこと。頑張り屋でまっすぐなこと。要領はあまりよくないこと。そして、底知れぬほど孤独を抱えているということ……。
静かな時が流れていた。部屋には暖炉の薪がはぜる音と、レミンのページを繰る音が時折響くくらいだった。
沈黙を破るように、炎に舐められた暖炉の薪がかたんと少し崩れた。
きっかけを待っていたわけではないのだろうが、奏音は椅子から立ちあがり、飲みかけのカップを手に窓辺の書棚へと歩み寄った。
レミンがそれとなく様子を窺っていると、題名を辿るように、一冊一冊を目に留めては次の書物に視線を移している。
そうして手を伸ばしたのは、上から二段目にある革張りの本だった。修復歴がある古い本だ。レミンは再び自分の手元に目を落とす。奏音が選ぶのはいつも同じ書物。レミンの曽祖父が知人から買い取ったという、古地図をまとめた本だ。
開けるのも、いつも同じページ。遥か東の国に存在していたという伝説の古王国を描いたものだ。レミンには、その島嶼の一部が日本列島に似ているなど、もちろんこの時点では知る由もない。
本は片手で持てるほど軽くはない。奏音は持っていたカップに気付き、そばの台に置く。
そのとき偶然、窓にかかるカーテンに袖口が当たった。ゆらりとカーテンは揺れ、向こう側を覗かせた。
奏音は、張りつめたように身を固くする。
本を取り出すことも忘れたのか、引き寄せられるようにカーテンの中に入っていった。
窓自体は腰辺りの高さまでしかないが、カーテンは厚く床につくほどに長い。その中にすっぽりと隠れて動かなくなった奏音。さすがにレミンも気になった。
「カナデ?」
驚かさないよう歩み寄り、そっとカーテンをめくってみると、彼女は切ない顔をして窓の向こうを見つめていた。なにかあるのかと視線を追うと、夜空に、辺縁の白い帯が静かに横たわっていた。
レミンは胸をつかれ、言葉を呑み込んだ。
奏音はあそこからやって来たのだと、出逢ったときに教えたことがある。
辺縁の帯は、冬にならないと天の中央を横切らない。夏の間は、地平線上にうっすらと顔を覗かせるだけなのだ。
奏音と出逢ったのは夏。天空に伸びやかに辺縁が流れる季節ではなかった。
ずっと王宮に閉じこもっていた奏音。こうして辺縁を見るのは、もしかすると初めてなのかもしれない。
彼女の眼差しは、遠い空の向こうにじっと留められている。見ているこちらが苦しくなるほど、深く恋う眼差しだった。
帰る場所―――故郷を失った奏音。
あの古地図を見つめるときの眼差しも、そういえばこんなふうだった。
レミンは自分の胸元までしかない奏音と、窓の向こうの辺縁を交互に見遣った。
ふと、気付く。
もしかすると、奏音は辺縁に帰ることができるのではないか。
王の呪縛から解放され、魔術師である自分のもとにやって来た奏音。それは、彼女が辺縁に帰るべき〝時〟がやってきたからなのでは? だから主は、そう仕向けたのでは? 魔術師貴族に辺縁の姫君が妻になるなど、たとえ王の気紛れであったとしても、おかしすぎる。
奏音を帰すために、自分は選ばれたのか。
(おれは……)
空を昇る魔術が使える。
辺縁への行き方など、もちろん知らない。
けれど、空を昇ればなにかがあるのかも、しれない。
だから奏音はここに。
(主の意図、なのか……?)
フィザーンの行方を握る奏音。自分の一存で帰すべきではないことは判っている。
けれど。
「―――行ってみるか?」
頭上から降ってきた突然の声に、奏音は怪訝に目を上げた。
「帰れる保証はできないけど、あそこまで空を昇ってみる価値は、あるかもしれない」
奏音の目が大きくなる。
主は、愛しい姫宮を取り戻そうとしているのかもしれない。
少し寂しさを覚えながらも、提案せずにはいられなかった。
「辺縁を、追いかけてみよう」




