04
強く絞られるような下腹部の痛みで、奏音は目を覚ました。
耳に入る音が、いつもと違う。
響き方はまろやかで、柔らかだ。
無意識に感じ取った違和感に、奏音は引っかかりを覚える。
痛みの波が治まるのを待ち、ゆっくりとまわりを見渡した。
さらりとした感触に包まれている。頬に触れる感触も、目の前に広がる色も知らないものだった。
奏音がいまいるのは、寝台の上だった。
天蓋つきの寝台。半分だけ下ろされた天蓋からのカーテンやその模様、そこから覗く薄暗い部屋の様子も、見たことのないものだ。
知らない場所。知らない空気。
ひとの気配は、ない。
ただただ透明な静寂だけに満たされていた。
こんな静寂、いままでなかったものだった。
誰もいない。たったひとり、放り込まれた光景。
急に、痛いほどの閉塞感に襲われる。
のしかかる不安に、全身が震えた。
なにがあったのか記憶を探ってはみるものの、情景の表面を滑るばかりで答えを見つけることができない。
「―――!」
治まったばかりの月の痛みが、再びやってきた。下腹部からくる、吐き気すら伴う強い痛み。
喉の奥から苦痛が息の形となって漏れ出でる。それで痛みが緩むわけではないけれど。
いつものように上掛けに丸くくるまりながら、痛みが去るのをひたすらに堪える。そうやって、意識が痛みに喰われ消えていくのを待つしかないのだ。そうすることしか、奏音はやり過ごすすべを知らなかったから。
痛みに何度か意識が戻るごと、目を覚ましたそこに無人の部屋や誰かの姿を見、ときにはその誰かに着替えさせてもらったり、あたたかななにかを飲ませてもらった。
窓からの明かりが暗くなり、再び明るくなる。ただひたすらに堪えるばかりだった月の痛みは、次第に訪れる間隔が長くなっていき、強さも少しずつ緩んでいく―――。
寝台でぼんやり虚ろになっていると、軽く扉がノックされる音がした。誰かが近付く気配のあと、年配の女性が天蓋のカーテンの隙間から顔を覗かせた。
「おかげんはいかがですか?」
ふんわりと優しい声をしていた。眼差しも柔らかく、包み込むようだった。
どこかで見たことがある。
不思議と安心感がわき起こる。
奏音ははっきりと覚えていなかったが、彼女は寝込んでいる間にいろいろと世話をしてくれた女性だった。
「お顔の色が、だいぶようございますわ。痛みは、まだございますか?」
「―――」
じっと見返すばかりの奏音に、しかし彼女は気にする様子を見せない。
「お食事の用意をさせますわ。力になるものをお召し上がりくださいませね」
彼女は奏音の意思をいちいち確かめようとしない。けれど、耳に心地よい声音だからなのか、押しつけがましい印象はまったくなかった。
彼女は侍女で、エレネと名乗った。名前よりも涼やかな声が、奏音の記憶に残されていく。
エレネはてきぱきと動き、気がつけば奏音はベッドに半身を起こし、食事を終わらせてしまっていた。
時折やってくる痛みの波にも、エレネは当たり前のように腰を撫でてくれた。
親身になってくれるエレネの存在は、もちろん彼女自身のひととなりもあるのだろうが、あたたかな眼差しが向けられることに縋りたいという本能的なものからか、不思議とすぐに奏音の警戒心を解かしていった。
「旦那さまがお会いになりたいとのことですが、どうなさいます?」
痛み止めの薬湯を飲み終えたとき、エレネはそう切りだした。
首をほんのり傾けて見つめ返す奏音に、エレネは微笑んでみせる。
「大丈夫ですよ。旦那さまは、奥さまを苛めたりなさるような方じゃありません。それにわたくし、おそばに控えておりますから、なにかあったら、この身を張ってでもお守りいたします」
お任せ下さい、と大袈裟に胸を張りながらも、「やはり明日以降になさいますか?」とも訊いてくれる。
エレネの表情の動きを見逃すまいと見つめていた奏音の視線が、やがて引かれるように部屋の扉へと流れた。まるでその向こうが見えているかのように、じっと視線を留める。
エレネはひとつ頷いた。
「では、旦那さまをお呼びしますね。お辛くなったら、すぐに追い出しますから」
エレネは奏音が言葉を手放していることを聞いている。だから奏音からの言葉ではなく、その眼差し、ふとした仕草を読み取り、彼女の意思を汲み取っていた。
エレネは廊下に控えていた使用人に奏音の意思を伝えると再び戻ってきた。奏音の背にあてがってあるクッションを直したり髪を整えたりなどしていると、扉にノックがあった。
エレネのいらえに応えるように、始めは薄く、そうして遠慮がちにゆっくりと扉は開いた。
現れた背の高い男の姿に、奏音は小さく息を呑み、身を固くさせた。
淡い金色の髪、精悍な顔立ち、穏やかな灰色の瞳。
レミンの姿は記憶に焼きついていた。彼女の脳裏に、結婚の儀式の光景がよみがえる。
「調子はどうだ?」
気さくな様子でレミンは問いかける。答えを待つでもなく、彼はエレネが用意した寝台脇の椅子に腰を下ろした。
ブラウスに上着をゆったりと羽織っただけの、くだけた格好だ。くだけているのに、凛とした上品さもある。
「だいぶ落ち着いてきたようだな」
奏音の顔色に、安堵の表情を彼は見せる。
聞き覚えのある声音。やや低めの、胸の内を震わせるような穏やかさを持つ声。
身じろぎひとつせず、警戒をはらませた眼差しで奏音はレミンを窺う。その視線を正面から受け止めていたレミンだったが、ややして眉根がじわりと寄せられ、根負けしたように大きく息を吐き出した。肩を落として、自分の膝に腕を投げ出す。
「そうだよな。許せないよな。―――本当に、申し訳ない」
言って、頭を下げた。
「こんなことになってしまって、その……、嫌だろうと思う。陛下の命令とはいえ、いきなりで。おれがあのとき、声をかけたせいで」
聞き耳を立てつつ奏音は、レミンの金の髪の流れを目で辿っていた。その頭が持ち上がる。
まっすぐに目を射られ、思わず視線をそらす奏音。
「でもおれは、これでよかったと思ってる。カナデ殿はあれ以上王宮にいちゃいけなかった」
カナデという音の連なりに、胸の奥が疼く。艶のある低い声が紡いだのは、自分の奥底を震わせ、摑んで離さない音だった。
奏音の目が揺れたその反応を逃さないよう、レミンは言葉を続けた。
「陛下からは、ただ『公爵』と呼ばれてたらしいが、おれは、あなたが教えてくれた『カナデ』と、そう呼びたいんだ。辺縁の姫君でもリュシアン公爵でもない、ハイカイネン伯妃、あなた自身に接していきたいから」
奏音の警戒心はまだ解けていない。けれど、レミンに対しての意識の広がりが、彼女から肩の力を抜けさせていく。
「もちろん、カナデ殿が得たのは伯妃としての身分だけだ。妻としてなにかをしなければならないこともないし、伯妃だからとなにかを強要するつもりもない。名目上の形だけのものだから、なにも心配はいらない」
妻としての義務を果たす必要はないと、レミンは断言をする。
自分の言葉がどれだけ伝わっているのか、レミンには判らなかった。黒い瞳でじっとこちらを見つめる奏音。彼女の様子を窺いながら、言い含めるようにゆっくりと語りかけることしかできない。ひとことひとことが彼女の胸に沁み込んでくれるのを、ただ願うしかなかった。
「それで―――」
レミンはいったん言葉を切った。ためらうように再び口を開く。
「領地に、戻ろうと思ってる。いや、もう手配はしてあるんだが」
問うように、奏音はごく僅か首を傾ける。
彼女は言葉自体ではなく、話者のまとう空気の色を読み取っているのかもしれないと、レミンは思う。
「オルボリンナからずっと北にハイカイネン領がある。領都から少し離れたコイヴァリンナ村に館があるんだ。馬車で十日ほどかかるんだが、ここよりはのんびりしてて、まぁ、はっきり言うと田舎だけど、きっと気に入る」
その地を思い浮かべているのか、レミンの顔がほころんだ。
奏音が自分の妻となったからだろう。彼の口調はこれまでよりずっと親しげだった。それでいっそう、堅苦しさが取り払われた観があった。
奏音は視界の隅に控えているエレネを窺う。エレネは、唇を笑みの形にして小さく頷く。
それでもためらいを見せている奏音に、レミンは表情を曇らせる。
「ああ、そうか。一方的な決定だよな。カナデ殿の意見も聞かずに決めるわけにはいかないんだよな」
強引すぎたかもと、気まずそうにするレミン。
「もちろん、カナデ殿の体調が良くなってから動くつもりだけど……。もうしばらくここで過ごしてみるか? それなりに華やかだし、女の子なわけだから興味を引く店もそりゃあるだろうし。まあ王宮にいたときほど豪勢な生活ができるわけじゃないんだけど。って、ああ、おれなに言ってるんだ」
奏音は現在二十歳だという。言葉を手放したせいか、どう見ても十三、四歳にしか見えない。どうやって接すればいいのか、レミンにはまったく見当もつかず判らなかった。最初に会ったときのほうが大人びていてもっと普通に接することができたのだが。
「ええとだな。つまり、この邸でしばらく過ごして、それからコイヴァリンナに戻るか、という提案なんだが……、あれ? これって結局はコイヴァリンナに戻ることが前提になってるよな」
自分で自分の話に囚われてこんがらがってしまっている。
混乱する様子がおかしかったのか、ふと目を遣ると、奏音は笑みを浮かべていた。
「わ……笑うこと、ないだろう?」
半分恥ずかしく、半分、嬉しかった。
王宮で見捨てられていた少女は、笑みを忘れてはいなかったのだ。
嬉しくて、レミンも笑顔になる。
「コイヴァリンナに、帰ろう。一緒に」
今度は、奏音もゆっくりと頷きを返したのだった。柔らかな笑みを浮かべたままで。




