03
その日、奏音は普段より早い時間に起こされた。
いつもと違う女官たちの様子に怪訝なものを表情に浮かべるも、言われるまま導かれるまま、重たい仕草で支度を始める。
珍しく早朝から湯を使い、身体を隅々まで念入りに磨きあげられる。
が、湯に入れる際、女官たちはそれに気付き、思わず顔を見合わせた。
月のものが始まっている―――。
どうりでこの数日、苦しげなはずだ。
しかし今日ばかりは、下腹部が痛いからといって伏せさせるわけにはいかない。
気休めにしかならないと判ってはいたが、痛みに効く薬湯を濃く淹れて飲ませる。
「公爵ご自身の婚礼の日ですから、我慢なさいませ」
女官が口にしたコンレイという意味の音が、奏音の意識に降りてくる。
まったく知らない音の並びではない。けれど、女官たちのどこか投げやりな表情から、この先に待ち構えている出来事は良くないものだと感じた。
女官たちによって華麗に飾られ、王宮の礼拝堂へと向かう馬車にほとんど無理やり乗せられる奏音。
礼拝堂の控えの間で待つ間に、下腹部に重い痛みが波のように押し寄せる。押し寄せるたび、どんどんひどくなる痛みに、呼吸は浅くなる。ぎゅっと目を閉じて我慢をしても、内側からの削られるような痛みは容赦がない。爪の先まで際限まで果てしなく喰いつくされそうだった。
―――どれくらいが経ったのか。
ソファにぐったり倒れ込む奏音を、女官が迎えに来た。
よろめきながら廊下を行き、曲がった先にある大きな扉の前で止められた。
ややあって、廊下の向こうからライコが現れる。
奏音同様、いつになく着飾っているライコ。
婚礼という音が、突然脳裏で弾けた。
ライコの顔、姿、声、醸し出す雰囲気。それらすべてが、奏音の恐怖心をかりたてた。
ここにライコがいるという、その意味。
意識のどこかに埋もれていた、コンレイという音の響き。息を詰まらせるほどのもどかしさの中、細く薄い輪郭でしか見えないコンレイと繋がるなにかの光景。
目の前にいる、ライコ。
奏音は色を失い、女官を薙ぎ倒すように後ずさった。顔をこわばらせ、懸命に逃げようと手で宙をかき、喘ぐ。
「公爵、おやめください」
女官は暴れる奏音を落ち着かせようと懸命に押しとどめるが、爪を立て、まなじりを吊り上げながら必死に抵抗する彼女に思いのほか手こずってしまう。
「!」
奏音の腕を、突然力強く摑む者があった。
ライコだった。鋼のような強さで奏音を捕え、離さない。
「お前はまた余に恥をかかせるつもりか」
底冷えのする声だった。
ぎろりと睨む上からの眼差しも、奏音を震え上がらせるには充分すぎた。その目が、にやりと底意地悪く歪む。
「違うな。恥をかくのは余ではない。ハイカイネン伯だ」
鼻で嗤うライコの言葉の中に、聞き覚えのある音があった。けれどそれがなにを指しているのか、―――なにかを指しているのかすら奏音には理解できない。
腕を摑む手を引き剥がそうと、奏音はライコの手に爪を立てた。
「っ!」
振り上げられた手に身をすくめる奏音。直後、見えない枷が身体を拘束する。
ライコはそばに控えていた男に眼差しで頷いた。国王付きの魔術師だ。魔術によって動きを封じられたのだ。
「莫迦が」
ライコは奏音の腕を引き寄せた。ひと呼吸ぶんのあと、おもむろに目の前の扉が両側に開いた。
扉の向こうは、礼拝堂の本堂だった。
ほのかな薄暗さをたたえた堂内は、先程脳裏に淡く浮かび上がったどこかで見た光景と似ていた。
深紅の絨毯が祭壇へと延び、両側の長椅子の列に、大勢の人々が待ち構えている。
頭上のパイプオルガンが、厳かな曲を奏で始めた。数人の子供たちがふたりの前に進み出で、手籠からの花びらを散らしながら、絨毯を歩みだす。
奏音の足は、操られるままライコとともに勝手に動きだした。
緩やかな歩調で絨毯を進むも、下腹部は何度も月の痛みに締め上げられる。悲鳴も喘ぎにしかならない強い痛みに、意識はちぎれそうだった。うずくまりたくとも、かけられた魔術によって前に進むことしかできない。
祭壇前に辿り着くと、ライコは脇に寄り、鷹揚に長椅子の最前列につく。
祭壇の正面では、白いコート姿の長身の男性が待っていた。
隣に奏音が並ぶと、彼―――レミンはちらりとその顔を窺い、目を瞠った。
彼女の大きな瞳から、涙がこぼれていた。
拭うこともせず、ただその頬を濡らしている。
心の隅に、苦いものをレミンは覚えた。
貴族同士の婚姻に、年齢差は関係ない。家柄が釣り合い、継嗣が授かればそれで構わないからだ。
だから三十歳を二年も超えた男との結婚をではなく、辺境の魔術師伯爵へと降嫁させられる己の運命を嘆いているのだと人々は思ったし、レミンもまた、その涙をそう解釈した。
〝降嫁〟とはいえ、神の姫宮が結婚する相手には、あまりにもふさわしくないのだから。
自覚は、している。
頭ではそう判ってはいたが、いざこうして蒼白になってまでの涙を見てしまうと、胸にぽかりと空虚な穴が穿たれた思いがした。
ふたりの前に立った教皇が婚礼の儀式を始める。聖書の一節が説かれ、賛美歌が歌われ……儀式は滞りなく進められていく。
「―――それでは、誓いのキスを」
老教皇が聖書を手にふたりを見遣る。
奏音に向き直るレミン。
このときになって、ようやく―――いまさらながら気がついた。
奏音は拘束魔術をかけられている、と。
術は巧妙で、そのあまりに自然な動きに、おそらく誰も気付いてはいない。気付けたのは、レミンに魔術の心得があったからだ。
国王付きの魔術師の仕業に違いない。
ちらりと視線だけを動かすと、王は平然と最前列でお気に入りのカルレリ嬢の手を握っている。
誤解、だった。自分はなにを勘違いしていたのか。
奏音はレミンとの婚姻に泣いていたのではない。身体の自由を奪われて、泣いていたのだ。
魔術師伯爵への降嫁を嘆けるほど、彼女に言葉の概念などないではないか。
レミンは俯きかげんの奏音の顎に軽く指を添え、上を向かせる。
ひどく怯えた顔をしていた。ここにいるのに、礼拝堂も目の前のレミンも見ていない。
言葉を失くしただけでなく、身体の自由すら奪われた奏音。煌びやかな衣装をまとっていても、初めて出会ったときのようなあの眩しさはない。
虚ろな瞳にはただレミンの顔が映り込むだけで、目の前に誰がいるのかすら認識していない。
奏音の中にあった結婚式の風景が、音のない映像の断片となって、彼女の記憶を揺さぶっていた。
フィザーンのコンレイの儀式は、どこか遠いところで得た大切な風景と酷似している。
目の前に立つ男性。手をかけられた顎。
奏音は意識の底で、自分の身に起こる出来事を予感した。
レミンは奏音の頬の涙を、指の腹でそっと拭う。くすんと、彼女の鼻が鳴った。そのまま、鉛を呑み込むような思いで、唇に唇を重ねた。
軽く、ついばむようなキスだった。
唇を離すと、目を開いたまま、奏音はひと筋の涙をこぼした。
「父と子と聖霊の名のもと、ふたりを夫婦と認める」
両手を広げる教皇の声に、礼拝堂内は祝福の音楽で満たされた。形式的な拍手が人々の間から起こり―――消えた。
ぐらりと膝から崩れ落ちる奏音。レミンは咄嗟にその身体を支える。
意識を、失っていた。
唇を合わせたとき、レミンが奏音の術を解いたのだ。さすがに他者の――しかも国王付き魔術師の――施した術を、神の見守る礼拝堂内で簡単に解くことはできない。
彼女の唇に、魔術を無力化する呪文を囁き込んだのである。
突然の出来事に礼拝堂内はどよめく。
だがライコは席を立ち、カルレリ嬢を連れてさっさと出て行ってしまった。もうこれで辺縁の姫君とは縁が切れたのだとばかりに。
縁が切れたのだから、奏音が倒れようがなんだろうが関係ないと言っているのも同然だった。
ライコに続いて、取り巻きたちもいそいそとその場をあとにしていく。王がいる場所こそが彼らの場所。ライコがこの場を立ち去ったということは、辺縁の姫君とレミンとの婚礼は既に過去に――とるにたりない過去に――なったことを意味していた。
取り巻きたちを追うように、他の貴族たちも席を立つ。
響いていた音楽も、いつしか鳴りやんでいた。
礼拝堂に残っているのは、レミンと意識を失ったままの奏音、そして姉であるアーニキだけとなった。そのアーニキも、申し訳なさそうにしながらも、礼拝堂から出て行った。
誰もいなくなった礼拝堂内に落ちた静寂は、奏音の立場を物語っていた。貴婦人のそばにつき従うはずの侍女の姿も、これまでずっと面倒を見ていたはずの女官の姿も、ただのひとりもいない。
ここは、美しい石で形作られた、礼拝堂という名の孤独な牢でしかなかった。
絨毯に撒かれた花びらを照らす薔薇窓からの光も、清らかだからこそかえって虚しさを際立たせている。
床に片膝をついて奏音を支えるレミンは、きつく寄せられた彼女の眉間のしわに、そっと指を這わせた。
まだ少女でしかないのに。
こんなにも小さいのに。
レミンは、奏音の身体の下に腕を差し入れ、抱き上げた。
彼女の身体は、驚くほどに軽かった。




