第9話 君に会う理由を探して
感染騒動が落ち着いてから、数日が過ぎた。
王宮の薬師室にも、ようやくいつもの日常が戻ってきた。患者の経過観察は続いているものの、新たな発熱者は出ていない。立ち入りが制限されていた区画も、順番に通常の業務へ戻り始めていた。
「今回の感染についてだが、調査結果が届いた」
朝の打ち合わせで、モーリッツが報告書を机に置いた。
「外部から持ち込まれた病が、配膳係を通じて複数の棟へ広がった可能性が高いそうだ」
「やっぱり、そうだったんですね」
リゼットが頷くと、モーリッツは続けた。
「ただし、最初の感染源まで特定できたわけじゃない。決めつけるなよ」
「はい」
「今後は体調不良を早めに報告できるよう、各部署の勤務体制も見直される。お前たちも無理はするな」
最後の言葉に、ニーナがリゼットをちらりと見た。
「特にリゼットね」
「えっ、私?」
「そうよ。自分が倒れたこと、もう忘れたの?」
「忘れてないよ!」
リゼットが慌てて答えると、デリックが笑った。
「まあ、元気になってよかったよ。お前がいない間、ニーナがずっと心配してたからな」
「先輩だって、毎日様子を聞いてたじゃないですか!」
「そりゃ、可愛い後輩が倒れたんだから当然だろ」
「もう!」
二人のやり取りに、リゼットは思わず笑ってしまった。
王宮へ来たばかりの頃は、知らない人ばかりで緊張していた。それなのに、今はこうして笑い合える仲間がいる。
病気になった時も、みんなが気にかけてくれた。
それが、とても嬉しかった。
「ほら、無駄話はそこまでだ」
モーリッツの声が飛ぶ。
「今日は薬の補充が多い。全員、持ち場につけ」
「はい!」
リゼットは元気よく返事をした。
◇
午前中、リゼットは薬草庫の整理を任されていた。
「えっと、月白草が十二束。乾燥した紫鈴花が八袋……」
帳面と棚を見比べながら、在庫を確認していく。
感染騒動では解熱用の薬草を大量に使ったため、補充が必要だった。仕入れの予定も確認し、足りないものを一覧にまとめる。
地味な作業だけれど、リゼットはこういう仕事も好きだった。棚に並ぶ薬草の名前を見るだけで、まだ知らない使い方を調べたくなる。
「……よしっ。これで全部!」
最後の項目に印をつけた時だった。
「リゼット」
入り口から声がした。
振り返ると、モーリッツが立っていた。
「はい!」
「午後から調合室に入れ」
「調合室ですか?」
「ああ。補充する薬が多い。お前にも一部を任せる」
「……私に?」
「嫌なら別の奴に頼む」
「やります!」
勢いよく答えると、モーリッツは呆れたように鼻を鳴らした。
「返事だけは一人前だな」
「仕事も一人前になれるように頑張ります!」
「なら、まずはその帳面を片づけろ」
「はい!」
リゼットは嬉しくなり、帳面を抱きしめた。
王宮へ来てから、少しずつ任せてもらえる仕事が増えている。
まだできないことも多いけれど、だからこそ学ぶのが楽しかった。
◇
昼前。
リゼットが薬草の入った木箱を調合室へ運んでいると、廊下の向こうから女性の声が聞こえた。
「フェリクス様、本日の夜会ですが……」
見ると、華やかなドレスを着た令嬢が、黒豹の青年に話しかけていた。
フェリクスだ。
漆黒の髪に淡い金色の瞳。今日も隙のない服装で、相変わらず目を引く容姿をしている。
令嬢は期待を込めた目で彼を見上げていた。
「よろしければ、会場までご一緒できませんか?」
「申し訳ないが、予定がある」
「では、会場で少しだけでも……」
「公務の予定次第になります」
「……そうですか」
令嬢は残念そうに頭を下げ、その場を離れていった。
リゼットは思わず足を止めた。
綺麗な方だったのに、残念そう。
フェリクス様って、本当に女性から人気があるのね。
「何を見ている」
突然声をかけられ、リゼットはびくりとした。
「ふぇ、フェリクス様!」
「……変な声が出たな」
「急に話しかけるからです!」
フェリクスは何事もなかったように近づいてきた。
「もう仕事に戻ったのか」
「はい! おかげさまで、すっかり元気になりました」
「そうか」
彼の視線が、リゼットの抱えている木箱へ向けられた。
「重くないか」
「大丈夫ですよ」
「……そうか」
短い返事。
けれど、なぜかフェリクスはその場を離れなかった。
「……フェリクス様?」
「何だ」
「何かご用ですか?」
「いや」
「そうですか」
リゼットは首を傾げた。
「では、私はお仕事に戻りますね」
「ああ」
歩き出そうとしたところで、フェリクスが再び口を開いた。
「体調は、本当に問題ないのか」
「はい。お医者様からも復帰の許可をいただきました」
「……そうか」
「あっ、そういえば!」
リゼットは顔を上げた。
「私が寝込んでいる間、何度も様子を確認してくださったそうですね」
「……誰から聞いた」
「ニーナです」
「そうか」
フェリクスは短く答えた。
「ありがとうございました。とても嬉しかったです!」
リゼットが笑うと、フェリクスは一瞬黙った。
「……無事でよかった」
「はい! フェリクス様も感染しなくてよかったです」
「ああ」
リゼットは木箱を抱え直した。
「それじゃあ、今度こそ失礼しますね」
すると、フェリクスが手を伸ばした。
「貸せ」
「え?」
「その箱だ」
「でも、そんなに重くありませんよ?」
「調合室へ運ぶんだろう」
「はい」
「俺もそちらへ行く」
そう言って、フェリクスは木箱を受け取った。
「あっ、フェリクス様!」
「何だ」
「本当に大丈夫ですよ?」
「分かっている」
「じゃあ、どうして……」
「ついでだ」
それだけ言って、彼は歩き始めた。
リゼットは慌てて後を追った。
王太子の側近が薬草の木箱を運んでいる。
なんだか、不思議な光景だった。
◇
「……何をしている」
調合室へ入るなり、モーリッツが眉を寄せた。
フェリクスは木箱を作業台に置いた。
「荷物を運んだ」
「見れば分かる」
「なら聞くな」
「王太子の側近が薬草運びか?」
モーリッツの声には、呆れが混じっていた。
「たまたま通りかかったんです!」
リゼットが慌てて説明した。
「私が運んでいたら、フェリクス様が手伝ってくださって……」
「……そうか」
モーリッツはフェリクスを見た。
「お前、そんなに暇だったか?」
「仕事は済ませてある」
「そうかよ」
それ以上は何も言わなかった。
けれど、どこか面白そうな顔をしている。
「ありがとうございます、フェリクス様」
「ああ」
フェリクスはリゼットへ視線を向けた。
「午後もここにいるのか」
「はい。今日は調合を任せていただけるんです!」
「そうか」
「まだ薬師長の確認が必要ですけど、頑張ります」
「……無理はするな」
「はい!」
嬉しそうに答えるリゼットを見て、フェリクスは一度頷いた。
そして、調合室を出ていった。
その背中を見送りながら、モーリッツがぽつりと呟いた。
「……珍しいこともあるもんだ」
「何がですか?」
「いや、こっちの話だ」
モーリッツは作業台を指さした。
「ほら、仕事だ」
「はい!」
リゼットは慌てて袖をまくった。
◇
薬師室から戻ったフェリクスは、王太子の執務室にいた。
ハーラルトは書類に目を通しながら、何気ない口調で声をかけた。
「フェリクス」
「何だ」
「さっき、薬師室にいたそうだね」
「ああ」
「薬を取りに?」
「いや」
「じゃあ、何をしに行ったんだい?」
フェリクスは書類をめくりながら答えた。
「荷物を運んだ」
「……荷物?」
ハーラルトの手が止まった。
「誰の?」
「リゼットの」
「……へえ」
ハーラルトはゆっくり笑った。
「君が?」
「ああ」
「自分から?」
「そうだ」
ハーラルトは書類を机へ置いた。
「フェリクス。最近、よく薬師室へ行くね」
「必要があるからだ」
「今日は?」
「……廊下で会った」
「なるほど。偶然?」
「ああ」
ハーラルトは何か言いたそうにしたが、すぐに笑みを浮かべた。
「それで、荷物を運んであげたんだ?」
「重そうだった」
「ほかの令嬢が重そうな荷物を持っていたら?」
「侍従を呼ぶ」
「リゼット嬢には?」
「俺が運んだ」
ハーラルトはとうとう笑い出した。
「ははっ! 君は本当にわかりやすいね」
「何がだ」
「いや、気にしないでくれ」
フェリクスは不機嫌そうに眉を寄せた。
けれど、ハーラルトは気にした様子もない。
「それで? 彼女は元気だった?」
「ああ。今日は調合を任されたと喜んでいた」
「……ずいぶん詳しいね」
「本人が話した」
「そうか」
ハーラルトは楽しそうに頬杖をついた。
「フェリクス」
「何だ」
「リゼット嬢のこと、気に入っているんじゃないか?」
「……仕事熱心な女性だと思う」
「それだけ?」
「話していて退屈しない」
「ほう」
「……よく笑う」
「へえ」
ハーラルトの笑みが深くなった。
「君が女性についてそんなに話すの、初めて聞いたよ」
「そうか?」
「ああ」
フェリクスはしばらく黙った。
それから、何事もなかったように書類へ視線を戻した。
「……別に、特別なことじゃない」
「そういうことにしておこう」
ハーラルトは楽しそうに笑い、再び仕事へ戻った。
◇
午後。
リゼットは調合室で、モーリッツの指導を受けていた。
今日任されたのは、胃の不調を和らげる薬だった。故郷でも扱ったことのある薬だが、王宮では調合する量が多い。リゼットは慎重に材料を量り、教えられた手順を確認した。
「分量は合っているか」
「はい。三回確認しました」
「なら始めろ」
リゼットは薬草を乳鉢へ入れ、丁寧に砕いていった。
乾燥した葉の香りが、ふわりと広がる。
「……いい香り」
思わず呟くと、モーリッツが横から覗き込んだ。
「手が止まってるぞ」
「あっ、すみません!」
「好きなのは分かるが、仕事中だ」
「はい!」
リゼットは慌てて作業を再開した。
しばらくして、無事に調合が終わる。
モーリッツが薬を確認した。
「……悪くない」
「本当ですか?」
「ああ。分量も問題ない」
「やった!」
思わず声を上げると、モーリッツが眉を上げた。
「まだ完成じゃないぞ」
「はい!」
「次は容器に詰めろ」
「分かりました!」
リゼットは嬉しそうに返事をした。
故郷にいた頃も、薬草を扱うのは楽しかった。
けれど王宮では、新しいことを学ぶたびに、もっと知りたいという気持ちが強くなる。
自分には、まだできないことがたくさんある。
その分だけ、これから覚えられることもたくさんあるのだ。
◇
夕方。
リゼットが薬師室を出ると、廊下の窓から橙色の光が差し込んでいた。
「……今日も頑張ったなあ」
小さく呟き、肩を回す。
その時だった。
「リゼット」
聞き覚えのある声に振り返る。
フェリクスが立っていた。
「あれ、フェリクス様!」
「ああ」
「どうされたんですか?」
「仕事が終わった」
「そうなんですね。お疲れさまです!」
リゼットはにこりと笑った。
「君も終わりか」
「はい。今日は薬師長に調合を任せていただいたんです!」
「そうか」
「悪くないって褒めていただけました」
「それはよかったな」
フェリクスは頷いた。
それから、廊下の先へ視線を向けた。
「帰るのか」
「はい」
「なら、途中まで一緒に行こう」
「……え?」
リゼットは目を丸くした。
「フェリクス様も、そちらへ?」
「ああ」
「そうなんですね!」
リゼットは嬉しそうに歩き出した。
二人は並んで廊下を進む。
フェリクスは相変わらず口数が少なかった。
けれど、リゼットが話しかければ必ず答えてくれる。
「フェリクス様は、普段どんなお仕事をされているんですか?」
「殿下の政務補佐だ。ほかにも警護や各部署との調整を任されている」
「大変そうですね」
「慣れている」
「でも、ちゃんと休んでくださいね」
「……またそれか」
「大事ですから!」
フェリクスは小さく息を吐いた。
その横顔を見て、リゼットは思わず笑った。
「フェリクス様って、最初は怖い方なのかなって思いました」
「……そうか」
「でも、違いましたね」
「どこが?」
「優しい方です」
フェリクスの足が、ほんの一瞬止まった。
「……俺が?」
「はい!」
リゼットは不思議そうに首を傾げた。
「薬草を運んでくださいましたし、感染騒動の時も必要な物資を手配してくださったでしょう? それに、私が倒れた時も心配してくださったそうですし」
フェリクスは何も言わなかった。
「だから、ありがとうございます」
リゼットは笑顔で続けた。
「私、とても嬉しかったです」
夕日の中で、蜂蜜色の髪が柔らかく光っていた。
フェリクスはその笑顔を見つめ、やがて視線を逸らした。
「……大したことはしていない」
「そうですか? 私は助かりましたよ」
何気ない一言だった。
けれどフェリクスは、しばらく返事をしなかった。
宿舎へ続く通路の前で、二人は足を止めた。
「ここで失礼しますね」
「ああ」
「今日はありがとうございました」
「……礼を言われるほどのことじゃない」
「ふふっ。フェリクス様って、いつもそうおっしゃいますね」
「そうか?」
「はい!」
リゼットは楽しそうに笑った。
「それでは、またお会いした時に!」
「……ああ」
フェリクスは、歩き去る彼女の背中を見送った。
今日は偶然、廊下で会った。
それから荷物を運び、夕方にも顔を合わせた。
ほんの短い会話だったのに、不思議と気分がよかった。
フェリクスはしばらくその場に立ってから、執務室へ戻っていった。
◇
その夜。
フェリクスは自室で書類を確認していた。
仕事はすでに終わっている。
けれど、昼間のハーラルトの言葉が頭に残っていた。
『リゼット嬢のこと、気に入っているんじゃないか?』
フェリクスは椅子の背にもたれた。
確かに、最近よく薬師室へ行く。
用事がある時もあれば、急ぎの用事がない時もある。
リゼットが何をしているのか、気になる。
顔を見れば、自然と声をかけてしまう。
今日も夕方、彼女が仕事を終える頃に、薬師室の近くを通った。
……偶然ではなかった。
フェリクスは自分の行動を振り返り、思わず苦笑した。
「……俺らしくもない」
誰かと話すために、自分から時間を作ることなど、今までほとんどなかった。
それなのに、リゼットと話すのは退屈しない。何を言い出すのか分からないところも、思ったことを素直に口にするところも。そして、あのよく笑う顔も。
ふと、夕方の彼女の言葉を思い出した。
『優しい方です』
そんなふうに言われたのは、いつ以来だろう。
フェリクスは窓の外へ視線を向けた。
夜空には、月が浮かんでいる。
明日も、彼女は薬師室にいるのだろうか。
……いや、いるはずだ。
仕事に復帰したばかりなのだから。
問題は、自分が薬師室へ行く用事があるかどうかだった。
フェリクスは机の上の書類へ目を落とした。
王太子の薬は、昨日受け取ったばかりだ。
物資の確認も済んでいる。
薬師長との打ち合わせも、今のところ予定にない。
「……用事がないな」
思わず呟いてから、自分でもおかしくなった。
どうして、わざわざ用事を探しているのだろう。
会いたいなら、会いに行けばいいだけなのに。
けれど、理由もなく薬師室へ顔を出すのは、何となく落ち着かない。
フェリクスは小さく息を吐いた。
「……明日、考えるか」
そう呟き、書類を閉じた。
一方、その頃。
リゼットは宿舎の部屋で、今日学んだ調合法を帳面に書き写していた。
「明日は、もう少し手際よくできるようになりたいな」
そう言って、満足そうに頷く。
今日も楽しい一日だった。
フェリクスが二度も声をかけてくれたことも、親切な人だなと思うだけで、深く考えてはいなかった。
無愛想な黒豹の青年が、明日も自分に会うための理由を探していることなど、知るはずもなかった。




