第8話 君が倒れた日
王宮で感染騒動が始まってから、数日が過ぎた。
新たな発熱者は少しずつ減り、最初に体調を崩した使用人たちも回復に向かっていた。各部署で勤務体制が見直され、医師や薬師たちの懸命な働きによって、ようやく事態が落ち着き始めている。
「リゼット、昨日の記録は?」
「こちらです!」
リゼットは帳面をモーリッツへ差し出した。
「新しい発熱者は?」
「今日はまだ報告がありません。回復された方も増えています」
「そうか。だが、まだ油断はするなよ」
「はい!」
モーリッツは記録を確認し、短く頷いた。
リゼットもほっと胸を撫で下ろす。ここ数日は、ニーナやデリックと協力しながら、薬の調合補助や患者の経過記録に追われていた。慣れない仕事ばかりだったけれど、少しでも役に立てたことが嬉しかった。
「リゼット、こっちも終わったわよ!」
ニーナが白い兎耳を弾ませ、帳面を抱えてやってきた。
「ありがとう、ニーナ!」
「ようやく落ち着いてきたわね」
「うん。患者さんたちが元気になって、本当によかった」
「でも、リゼットもちゃんと休みなさいよ? 昨日も遅かったでしょう」
「大丈夫! 今日こそ早く帰るつもりだから」
そう答えると、ニーナは安心したように笑った。
けれど、その日の夕方。
リゼット自身に、異変が起きた。
◇
「……あれ?」
記録を書き終えて立ち上がろうとした瞬間、目の前が揺れた。
慌てて机に手をつく。身体が妙に重く、頭もぼんやりしていた。疲れがたまっているのだろうか。そう思ったけれど、喉にも違和感がある。
「リゼット?」
隣にいたニーナが顔を覗き込んだ。
「どうしたの? 顔が赤いわよ」
「そうかな……ちょっと、ふらついただけ」
「ちょっと待って。もしかして、熱があるんじゃない?」
その言葉に、リゼットは息を呑んだ。
まさか。
「薬師長を呼んでくる!」
ニーナはすぐに駆け出した。
ほどなくしてモーリッツが現れ、リゼットの様子を確認した。
「いつからだ?」
「……今、少しふらついて。喉も痛くて……」
「ほかには?」
「身体が重いです」
「分かった。すぐ医師に診てもらえ」
リゼットは力なく頷いた。
診察の結果、今回広がっている感染症にかかった可能性が高いと判断された。
そのまま隔離用の病室へ移され、治療と休養が始まった。
「……すみません、薬師長」
寝台に横になったリゼットが呟くと、モーリッツが眉を寄せた。
「何を謝っている」
「こんな忙しい時に、私まで……」
「病気になったことを謝るな」
「でも……」
「いいから寝ろ。今のお前の仕事は治すことだ」
ぶっきらぼうな声だった。
けれど、その言葉がありがたかった。
「……はい」
リゼットは毛布を引き寄せた。
一人になると、急に心細くなった。
故郷なら、母がそばにいてくれただろう。ヨーゼフも様子を見に来てくれたかもしれない。
「……お母様」
小さく呟いて、目を閉じた。
◇
その夜。
フェリクスは王太子の執務室で、感染騒動の報告書を確認していた。
「ようやく落ち着いてきたようだね」
ハーラルトが書類を置いた。
「ああ。新たな発熱者も減っている。隔離区画の運営にも問題はない」
「医師も薬師たちも、よく頑張ってくれた」
「そうだな」
フェリクスは次の書類へ目を通した。
回復者の人数、新たな患者、各部署の対応状況。
いつものように確認していた手が、途中で止まった。
――リゼット・ベルクマン。
「……リゼット?」
思わず名前が口をついた。
「どうした?」
ハーラルトが顔を上げる。
「薬師見習いが感染したそうだ」
「……リゼット嬢が?」
フェリクスは報告書を読み直した。
発熱、咳、強い倦怠感。
医師の診察を受け、隔離病室で療養中。
書かれている内容は、ほかの患者と大きく変わらない。
それなのに、胸がざわついた。
「容体は?」
フェリクスは報告を届けた職員に尋ねた。
「夕方から熱が上がっているそうです。詳しい経過は、まだ届いておりません」
「医務担当に確認してくれ」
「かしこまりました」
職員が退出すると、フェリクスは報告書を机へ置いた。
「……心配かい?」
ハーラルトが尋ねる。
「感染者の容体を確認するのは当然だ」
「それはそうだね」
ハーラルトはそれ以上追及しなかった。
フェリクスも再び仕事に戻った。
けれど、先ほどまで問題なく読めていた書類が、なかなか頭に入ってこない。
つい数日前まで、彼女は元気に笑っていた。
『一人ではできないことも、みんなで協力すればできるんですね』
仕事に真剣で、患者の回復を誰よりも喜んでいた。
そんな彼女が、今は病室で苦しんでいる。
フェリクスは無意識に拳を握った。
◇
翌朝。
リゼットの熱は、さらに上がっていた。
「……うぅ……」
寝台の上で身じろぎすると、額に置かれた布がずれた。
身体が熱い。喉が痛く、頭も重い。医師が定期的に診察し、薬師たちも交代で様子を見に来てくれている。
それでも、つらいものはつらかった。
「リゼット、聞こえる?」
防護具を身につけたニーナの声がした。
「……ニーナ?」
「そうよ。お水、少し飲めそう?」
「……うん」
ニーナは担当の薬師とともに、水を飲むのを手伝ってくれた。
「みんな……大丈夫?」
「大丈夫よ。あなたが整理してくれた記録も、ちゃんと引き継いでるから」
「……よかった」
「もう、こんな時まで仕事の心配しなくていいの!」
ニーナの声が少し震えた。
「早く元気になってよね。私、一人じゃお昼がつまらないんだから」
「……ふふ」
リゼットは笑おうとしたけれど、咳き込んでしまった。
「ほら、無理しないで。今はゆっくり休んで」
ニーナが毛布を掛け直してくれる。
その温かさに、リゼットは目を閉じた。
◇
「リゼットの容体は?」
同じ頃、薬師室を訪れたフェリクスは、モーリッツに尋ねた。
「まだ熱が高い。医師がついているがな」
「危険な状態なのか?」
「今すぐ命に関わる状態ではない。だが、高熱が続いている。慎重に経過を見る必要がある」
「……そうか」
フェリクスは黙った。
モーリッツが彼を見上げる。
「何か用か?」
「医務担当からの報告が遅れていた」
「患者が多いんだ。多少は遅れる」
「分かっている」
フェリクスは一度頷いた。
「必要な薬や物資は足りているか?」
「ああ。今のところ問題ない」
「不足があれば、すぐに連絡してくれ」
「分かった」
それで話は終わった。
フェリクスは薬師室を出たものの、廊下で足を止めた。
高熱が続いている。
その言葉が、頭から離れなかった。
医師がついている。必要な治療も受けている。自分が病室へ行ったところで、できることは何もない。むしろ、感染対策の妨げになるだけだ。
頭では、すべて分かっている。
それでも、落ち着かなかった。
「……早く治ればいいが」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
◇
さらに一日が過ぎた。
フェリクスが王太子の執務室で書類を確認していると、医務担当から新しい報告が届いた。
「……リゼット・ベルクマンの熱が下がり始めたそうです」
その言葉に、フェリクスは顔を上げた。
「本当か?」
「はい。医師によれば、回復に向かっているとのことです」
「……そうか」
フェリクスは報告書を受け取った。
そこには、リゼットの容体が改善していることが記されていた。
まだ休養は必要だが、食事も少しずつ取れるようになっているらしい。
「……よかった」
思わず漏れた声に、ハーラルトが顔を上げた。
「フェリクス?」
「……何だ」
「いや、今、ずいぶん安心した顔をしていたから」
「そうか?」
「うん」
ハーラルトは楽しそうに笑った。
「リゼット嬢が回復して、よかったね」
「……ああ」
フェリクスは短く答えた。
否定する気にはならなかった。
ここ数日、何度も彼女の容体を確認した。ほかにも多くの患者がいたのに、なぜかリゼットのことばかり気になっていた。
その理由は、自分でも分からない。
ただ、彼女が無事だと分かって、心から安堵していた。
◇
それから数日後。
リゼットはようやく、病室の寝台から起き上がれるようになった。
「……ああ、よく寝たぁ」
窓の外には、明るい日差しが差し込んでいる。
まだ身体は少しだるいけれど、あの高熱が嘘のように楽になっていた。医師からは、もうしばらく休養を取るように言われている。
「リゼット!」
防護具を身につけたニーナが顔を覗かせた。
「具合はどう?」
「だいぶよくなったよ!」
「もう、本当に心配したんだから!」
ニーナは泣きそうな顔で笑った。
「デリック先輩も、毎日様子を聞いていたのよ」
「そうなの?」
「薬師長なんて、何度も医師に確認してたんだから」
「……薬師長が?」
リゼットは目を丸くした。
「でも、本人に言ったら怒られそうだから、内緒ね」
「ふふっ。分かった」
ニーナは椅子へ腰を下ろした。
「そういえば、フェリクス様も心配してくださっていたみたいよ」
「……フェリクス様が?」
「うん。何度か薬師長に容体を確認していたんですって」
リゼットは驚いた。
あの無愛想な黒豹の青年が、自分のことを気にかけてくれていたなんて。
「……そうだったんだ」
「意外でしょう?」
「うん。でも、フェリクス様って責任感の強い方だから。きっと職員のことを心配してくださったんだと思う」
「……まあ、そうかもしれないわね」
ニーナは少し考えてから頷いた。
リゼットは窓の外へ目を向けた。
今回の騒動では、たくさんの人が協力していた。医師も薬師も、騎士も使用人も。それぞれが自分にできることを考え、患者たちを支えていた。
そして、自分が倒れた時も、みんなが助けてくれた。
「……ありがたいね」
「そうよ。だから、今はちゃんと休むこと!」
「はーい!」
二人は顔を見合わせて笑った。
◇
その日の夕方。
フェリクスは王太子の執務室で、最後の報告を終えたところだった。
「今回の騒動も、ようやく落ち着きそうだね」
ハーラルトが書類を閉じた。
「ああ。引き続き経過観察は必要だが、感染の拡大は抑えられている」
「医師も薬師たちも、よく頑張ってくれた」
「そうだな」
フェリクスは頷いた。
ハーラルトは少し考えるように彼を見つめた。
「そういえば、リゼット嬢も回復したそうだね」
「……ああ」
「君があんなに気にかけるのは珍しかったよ」
「……そうか?」
「うん。何度も容体を確認していただろう?」
フェリクスは眉を寄せた。
「仕事に支障が出ないか確認していただけだ」
「そういうことにしておこうか」
ハーラルトは楽しそうに笑った。
フェリクスはそれ以上何も言わず、書類をまとめた。
「報告は以上だ。俺は戻る」
「ああ。お疲れさま」
執務室を出て、廊下を歩く。
リゼットは回復した。
もう心配する必要はない。
それなのに、ふと考えてしまった。
彼女が仕事に戻るのは、いつ頃だろう。
次に薬師室へ行った時には、またあの明るい声が聞こえるだろうか。
『フェリクス様!』
名前を呼ぶ声が、妙にはっきりと思い浮かんだ。
フェリクスは足を止めた。
なぜ、こんなことを考えているのだろう。
あの薬師見習いとは、まだ数えるほどしか話していない。
仕事熱心で、少々お節介な女性。
それだけのはずだった。
「……妙だな」
フェリクスは小さく呟いた。
彼女が無事だと分かって、心から安堵した。
そして今は、もう一度あの元気な姿を見たいと思っている。
その理由は、まだ分からなかった。




