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あなたが番だと気づいた頃には、私はもうあなたを待っていません  作者: 黒猫と珈琲


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第7話 一人ではできないことも

 王宮での生活にも、少しずつ慣れてきた。


 朝は薬草庫の確認から始まり、午前は調合、午後は薬の受け渡しや記録整理。まだ分からないことは多いけれど、最初の頃のように廊下で迷うことは減った。モーリッツに叱られる回数も、ほんの少しだけ減った気がする。


「リゼット、こっちは終わった?」


 昼前、薬師室で帳面を整理していると、ニーナが顔を覗かせた。


「あと三枚!」

「じゃあ、終わったら一緒にお昼にしましょう」

「うん!」


 ニーナは嬉しそうに白い兎耳をぴんと立て、黄緑色の短い髪を揺らしながら隣の机へ腰を下ろした。


「それにしても、リゼットって本当に真面目よね」

「そうかな?」

「そうよ。昨日も遅くまで帳面を読んでいたでしょう?」

「だって、知らないことがたくさんあるんだもの」

「私は仕事が終わったら、できるだけ薬草のことは考えたくないわ」

「ふふっ。ニーナらしいね」


 二人が笑っていると、奥からデリックが顔を出した。


「おーい、そこの二人。モーリッツ薬師長に見つかる前に仕事を終わらせろよ」

「先輩こそ、さっきからお茶ばっかり飲んでません?」

「これは休憩じゃない。水分補給だ」

「便利な言い訳ですね」

「先輩をもう少し敬えよ」


 リゼットは思わず吹き出した。


 デリックもニーナも、仕事では頼れる先輩だ。けれど休憩時間になると、こんなふうに気軽に話してくれる。故郷を離れたばかりのリゼットにとって、二人の存在はありがたかった。


「リゼット」


 その時、聞き慣れた声がした。


 振り返ると、薬師室の入り口にアマーリエが立っていた。


「こんにちは、アマーリエ様!」

「こんにちは。今日も忙しそうね」

「少しだけ」

「少し、という顔じゃないわよ」


 アマーリエは笑いながら机の上を覗き込んだ。


「これ、全部今日の分?」

「はい。午後までに確認する予定です」

「大変ね」

「でも、楽しいです!」

「ふふ。そう言えるなら大丈夫そうね」


 アマーリエは相変わらず気さくだった。


 高位貴族の令嬢なのだろうとは思っている。けれど、詳しい身分を尋ねる機会はなかった。王宮へ来て間もないリゼットにとって、アマーリエは仕事以外の話もできる、大切な相談相手になっていた。


「アマーリエ」


 その時、廊下の向こうから男性の声がした。


 アマーリエが振り返る。


「ハーラルト様」


 現れたのは、淡い銀金色の髪をした青年だった。


 灰青色の瞳に、穏やかな笑み。柔らかな物腰ながら、自然と人目を引く気品がある。近くにいた侍女や使用人たちが、一斉に頭を下げた。


 リゼットも慌てて立ち上がる。


「王太子殿下!」

「そんなに固くならなくていいよ」


 ハーラルトは人当たりのよい笑みを浮かべた。


「君がリゼットだね?」

「はい! リゼット・ベルクマンと申します」

「フェリクスから話は聞いているよ」

「……フェリクス様から?」


 何を聞いたのだろう。


 リゼットが首を傾げると、ハーラルトは楽しそうに笑った。


「怪我を見つけて、手当てをしてくれたそうだね」

「あ、はい。小さな傷でしたけど」

「フェリクスは、ずいぶん強引な見習いだったと言っていたよ」

「ええっ!? そ、そんなに強引でしたか?」


 ハーラルトが声を上げて笑った。


「ははっ! 君は面白いね」

「ハーラルト様」


 アマーリエが呆れたように口を挟む。


「また、フェリクス様をからかっていらっしゃるの?」

「本人がいないから大丈夫だろう?」

「そういう問題ではありません」

「手厳しいなあ」


 二人のやり取りは、思っていたよりずっと気安い。


 リゼットが不思議に思っていると、後ろから侍女がやってきた。


「殿下。アマーリエ公爵令嬢との次のご予定のお時間です」

「ああ、もうそんな時間か」


 リゼットの動きが止まった。


 公爵令嬢。


 しかも、王太子殿下と一緒に予定がある。


 まさか。


「……アマーリエ様」

「なあに?」

「もしかして、ハーラルト殿下の……」

「婚約者よ」

「……ええっ!?」


 思わず大きな声が出てしまった。


 ハーラルトが吹き出し、アマーリエも楽しそうに笑った。


「あら、言ってなかったかしら」

「聞いてません!」

「そうだった?」

「そうです!」

「でも、わざわざ最初に言うことでもないでしょう?」

「あります!」


 勢いよく言い返してから、リゼットは我に返った。


 目の前にいるのは公爵令嬢で、しかも王太子の婚約者なのだ。


「……も、申し訳ありません!」

「どうして謝るの?」

「いえ、その……」

「今まで通りでいいのよ」


 アマーリエは平然としている。


「でも……」

「あなたが気軽に話してくれるの、私は嬉しいの。もちろん、人前では少し気をつけてもらわないといけないけれどね」

「……はい!」


 リゼットが頷くと、アマーリエは優しく微笑んだ。


「それじゃあ、またお話ししましょうね」

「はい。ありがとうございます!」


 リゼットが頭を下げると、アマーリエはハーラルトとともに廊下の向こうへ歩いていった。


 公爵令嬢であっても、王太子の婚約者であっても、アマーリエの優しさは変わらない。


 リゼットはそのことが、何より嬉しかった。


     ◇


 その日の午後。


 薬師室の空気が一変した。


「モーリッツ!」


 一人の騎士が駆け込んできた。


「西棟で発熱者が増えている!」


 モーリッツの表情が険しくなる。


「何人だ」

「今のところ七人。使用人が中心です」

「症状は?」

「発熱、咳、強い倦怠感です。何人かは吐き気も訴えています」

「医師には連絡したか?」

「すでに診察が始まっています」

「分かった」


 モーリッツはすぐに周囲へ指示を飛ばした。


「デリック、医師と連絡を取れ。患者の人数と症状をまとめろ」

「はい!」

「ニーナ、調合室の準備だ。処方が届き次第、対応できるようにしろ」

「分かりました!」

「リゼット、お前は記録の整理と調合補助だ」

「はい!」


 薬師たちが一斉に動き始める。


「それと全員、よく聞け」


 モーリッツの低い声が響いた。


「感染症の可能性がある。患者のいる区画へ入る者は、医師の指示に従って防護具を着けろ。許可なく立ち入るな」

「はい!」


 リゼットは背筋を伸ばした。


 怖くないと言えば、嘘になる。けれど、今は自分にできることをしよう。ヨーゼフから何度も教えられた、急いでいる時こそ丁寧にという言葉を思い出し、リゼットも仕事に取りかかった。


     ◇


 夕方には、発熱者は十人を超えていた。


 王宮内の一部区画は立ち入りが制限され、患者たちは医師の判断で隔離された。薬師室には次々と依頼が届き、リゼットもデリックやニーナと協力して薬の準備を進めていた。


「リゼット、こっちの記録を確認してくれ」

「はい、デリック先輩!」


 渡された帳面を開き、患者ごとの症状と処方を照らし合わせる。


 その時、リゼットの手が止まった。


「……あれ?」

「どうした?」

「この三人、同じ日に発熱しているんです」

「ああ、そうだな」

「でも、勤務場所は違いますよね?」


 デリックも帳面を覗き込んだ。


「西棟と東側の使用人棟か」

「はい。それなのに、前日は同じ場所へ行っているみたいです」

「……共同食堂だな」


 リゼットはほかの記録にも目を通した。


「ほかの患者さんも、共同食堂を利用していた方が多いみたいです」

「なるほど。共通点があるのか」

「もちろん、食堂が原因とは限りませんけど……」

「ああ。でも、調べる手がかりにはなる」


 デリックは帳面を受け取った。


「薬師長に報告してくるよ」

「お願いします!」


 報告を受けたモーリッツは、すぐに医師と王宮の管理責任者へ連絡を取った。共同食堂の利用者や勤務状況を確認することになったが、感染経路はまだ分からない。


「リゼット」

「はい!」

「記録をよく見ていたな」

「……ありがとうございます」

「だが、推測と事実は分けて書けよ」

「はい!」

「悪くない。続けろ」


 それだけ言って、モーリッツは次の指示へ移った。


 リゼットは嬉しくなった。


 まだ見習いだけれど、自分の気づきが少しでも役に立ったのだ。


     ◇


 夜になっても、薬師室の仕事は続いていた。


 リゼットは医師の指示を受け、担当の薬師とともに患者のいる区画へ薬を届けた。防護具を身につけて病室へ入ると、使用人や厨房で働く者たちが、熱や咳に苦しんでいた。


「お薬をお持ちしました」

「……ありがとう」

「お水、飲めますか?」

「少しなら……」

「では、ゆっくりで大丈夫ですよ」


 リゼットは担当の薬師と処方を確認し、薬を渡した。


 まだ見習いだから、できることは限られている。けれど、目の前の人を少しでも楽にするために、できることはある。


「……すみません、何度も」


 若い使用人が申し訳なさそうに言った。


「どうして謝るんですか?」

「皆さん、お忙しいのに……」

「具合が悪い時は、お互い様ですよ」


 リゼットは明るく答えた。


「今はゆっくり休んでください。元気になったら、またお仕事を頑張ればいいんですから」

「……はい」


 使用人はほっとしたように目を閉じた。


 リゼットは毛布を整えると、次の患者のもとへ向かった。


     ◇


 病室を出て、防護具を決められた手順で外したあと。


 廊下の向こうに、一人の黒豹獣人が立っていることに気づいた。


「……フェリクス様?」


 漆黒の髪に、淡い金色の瞳。


 王太子ハーラルトの側近、フェリクスだった。


 彼は数名の騎士と話していたが、リゼットに気づくと視線を向けた。


「薬師見習いか」

「はい。リゼットです」

「覚えている」


 短い返事だった。


「あ、そうでしたね。先日はお怪我の手当てをしましたものね」

「ああ」


 フェリクスはそれ以上、何も言わなかった。


 相変わらず無愛想な人だ。


 リゼットは少しだけ笑いそうになったけれど、今は仕事中だと思い直した。


「フェリクス様も、お仕事ですか?」

「殿下の命で、隔離区画の警備と物資の搬入を調整している」

「そうなんですね」

「君は患者の世話を?」

「はい。薬を届けていました」

「そうか」


 フェリクスは廊下の奥へ目を向けた。


「患者の容体は?」

「熱が高い方もいますが、医師の先生方が診てくださっています。今のところ、重篤な方はいないと聞いています」

「分かった」


 彼は隣の騎士に指示を出した。


「隔離区画の担当者を交代させろ。長時間の勤務は避けるように」

「はっ!」


 騎士が立ち去ると、フェリクスは再びリゼットを見た。


「君も休憩を取れ」

「はい。次の仕事が終わったら」

「今の勤務は何時間目だ」

「ええと……」

「把握していないのか」

「……すみません」


 リゼットが苦笑すると、フェリクスは眉を寄せた。


「無理をすれば、かえって周囲の負担になる」

「……はい」


 リゼットは素直に頷いた。


 その時、近くの職員が声をかけてきた。


「フェリクス様、隔離区画の寝具と清潔な布が不足しています」

「必要な数は?」

「寝具が六組、布が十枚ほどです」

「分かった。すぐに手配する」


 フェリクスは手際よく指示を出した。


 リゼットはその様子を見て、感心した。


 余計なことは話さないけれど、必要な判断は早い。王太子の側近として、たくさんの人の仕事を支えているのだ。


「フェリクス様」

「何だ」

「ありがとうございます。助かります」

「仕事だ」

「それでも、ありがたいです」


 リゼットは笑顔で頭を下げた。


「一人ではできないことも、みんなで協力すればできるんですね」


 フェリクスは一瞬、彼女を見つめた。


「……そうだな」


 短い返事だった。


 けれど、その後に続いた言葉は少し意外だった。


「君の報告も役に立っていると聞いた」

「……え?」

「共同食堂の利用記録だ」

「あっ、はい!」

「よく気づいたな」

「ありがとうございます。でも、まだ原因が分かったわけではありませんから」

「ああ。だからこそ、慎重に調べる必要がある」


 フェリクスは淡々と答えた。


「引き続き、薬師長の指示に従ってくれ」

「はい!」


 リゼットが元気よく返事をすると、彼は頷き、再び仕事へ戻っていった。


 相変わらず愛想はない。


 けれど、仕事に対して誠実な人なのだと、リゼットは思った。


     ◇


 夜も更けた頃。


 リゼットはようやく薬師室へ戻った。


 手洗いを済ませ、使用した防護具を決められた場所へ片づけてから、椅子に腰を下ろす。


「……疲れたぁ」


 思わず声が漏れた。


「リゼット、大丈夫?」


 ニーナが白い兎耳を心配そうに垂らし、顔を覗き込んできた。


「うん。ちょっと疲れただけ」

「ちょっと、って顔じゃないわよ。私なんて足が棒みたい」

「ふふっ。私も」

「笑い事じゃないってば!」


 そこへデリックが温かい飲み物を持ってきた。


「二人とも、お疲れ。ほら、これ飲んで」

「ありがとうございます!」

「先輩、珍しく優しいですね」

「おい、ニーナ。俺はいつも優しいだろ」

「そうでしたっけ?」

「ひどい後輩だなあ」


 リゼットは笑いながら杯を受け取った。


 温かい飲み物が、疲れた身体に染み渡る。


 そこへモーリッツがやってきた。


「お前ら、まだいたのか」

「はい。記録が少し残っているので」

「それは明日の担当に引き継げ。今日はもう帰れ」

「でも……」

「無理して間違えられる方が困ると言っただろ」

「……はい」


 リゼットは素直に頷いた。


「薬師長、患者さんたちは大丈夫でしょうか?」

「今のところ、重篤な患者はいない。ただし、油断はできん」

「……はい」

「医師も薬師も交代で対応している。お前一人が頑張ったところで、全部解決するわけじゃない」


 リゼットは顔を上げた。


「だから、休む時は休め。明日も仕事はある」

「……分かりました!」


 モーリッツは頷き、再び奥へ戻っていった。


 リゼットは温かい飲み物をもう一口飲んだ。


 今日は、たくさんの人が力を合わせていた。


 医師も薬師も、騎士も使用人も。


 それぞれが自分にできることを考え、目の前の仕事に取り組んでいる。


 自分一人では、到底できなかっただろう。


「……一人ではできないことも、か」


 リゼットは小さく呟いた。


 故郷にいた頃は、いつもミハイルのことばかり考えていた。


 けれど今は、自分の知らなかった世界で、いろいろな人と出会っている。


 その一つ一つが、嬉しかった。


「リゼット、帰りましょう!」


 ニーナが声をかけてきた。


「うん!」


 リゼットは立ち上がり、帳面を閉じた。


 感染騒動は、まだ終わっていない。


 明日も忙しくなるだろう。


 それでも、できることを一つずつ頑張ろう。


 リゼットはニーナと並び、薬師室をあとにした。

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