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あなたが番だと気づいた頃には、私はもうあなたを待っていません  作者: 黒猫と珈琲


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第6話 無愛想な黒豹様との出会い

 王宮で働き始めてから、十日ほどが過ぎた。


 最初の数日は、覚えることだけで精いっぱいだった。薬草庫の配置に調合器具の扱い、薬師ごとの担当、王宮内で薬を届ける場所。故郷では見たことのない薬もあり、そのたびにリゼットは帳面へ書き込んだ。


「遅い」

「すみません!」

「謝る前に手を動かせ」

「はい!」


 王宮薬師長のモーリッツは、今日も容赦がない。


 けれど、分からないことを聞けば必ず教えてくれた。間違えた時も、ただ叱るのではなく、どこが悪かったのかまで説明してくれる。話し方は正反対だけれど、教える時に決して手を抜かないところは、故郷のヨーゼフに似ていた。


「おい、リゼット」

「はい!」

「いつまでそれをやってる」

「あと少しで終わります!」

「もう昼だ。休憩しろ」

「でも……」

「無理して間違えられる方が困る。飯を食ってこい」

「……はい!」


 リゼットは慌てて道具を片づけた。


 王宮での仕事は忙しい。それでも、毎日新しいことを学べるのが楽しかった。昨日は分からなかったことが、今日は分かるようになる。少しずつ仕事を任せてもらえるようになったことも、嬉しかった。


「リゼット、そろそろお昼?」


 背後から明るい声がした。


 振り返ると、黄緑色の短い髪を揺らした少女が立っていた。髪の間から伸びる白く長い兎耳に、琥珀色の瞳。人懐っこい笑顔が印象的な、兎族の女性だ。


「ニーナ! ちょうど休憩に入るところなの」

「よかった! 一緒に食べましょう」

「うん!」


 ニーナ・クラウゼは、リゼットより一つ年上の十九歳。王宮薬師室で一年先に働き始めた見習いで、リゼットにとっては頼れる先輩であり、初めてできた同年代の友人でもあった。


 明るく物怖じしない性格で、感情が耳に出やすい。今も嬉しそうに白い兎耳をぴんと立てている。


「それにしても、リゼットって本当に薬草が好きよね」

「うん! 知らないことがたくさんあって、毎日楽しいの」

「私は毎日、覚えることが増えて大変なんだけど」

「でも、ニーナは調合が上手でしょう?」

「ふふん。それはまあね!」


 ニーナが得意げに胸を張る。


 その様子がおかしくて、リゼットは笑った。


「おーい、二人とも。昼なら俺も混ぜてくれよ」


 今度は、作業机の向こうから男性が顔を出した。


 アッシュブラウンの短髪に茶色の瞳。親しみやすい笑顔を浮かべた青年は、デリック・ヴェーバー。二十一歳の人間で、王宮薬師として三年目を迎える先輩だ。


「デリック先輩、またお昼を買い忘れたんですか?」

「またって何だよ。今日はちゃんと持ってるぞ」

「昨日は私のパンを半分食べましたよね?」

「あれはお前がくれたんだろ」

「余っていたからです!」

「ほら、優しい後輩じゃないか」


 デリックが笑うと、ニーナは呆れたように肩をすくめた。


 リゼットはそんな二人のやり取りが好きだった。


 故郷を離れる時は不安もあったけれど、今では休憩時間が楽しみになっている。仕事で失敗すれば励ましてくれるし、分からないことがあれば丁寧に教えてくれる。二人のおかげで、慣れない王宮での生活にも少しずつ馴染めていた。


     ◇


 昼食を終え、リゼットが薬師室へ戻った時だった。


「モーリッツはいるか」


 扉のほうから、低く落ち着いた声がした。


 顔を上げると、見知らぬ青年が立っていた。


 漆黒の髪に、淡い金色の瞳。背が高く、引き締まった体格をしている。整った顔立ちにはほとんど表情がなく、黒髪の間からは黒豹の耳が覗いていた。


 黒豹獣人だ。


 リゼットが見つめていると、青年の視線がこちらへ向けられた。


「モーリッツは?」

「あ、はい! 薬師長なら奥にいらっしゃいます」

「そうか」


 青年はそれだけ言って、奥へ向かおうとした。


 けれど、その右手を見た瞬間、リゼットは思わず声を上げた。


「あっ、待ってください!」


 青年が足を止める。


「何だ」

「手を怪我されていますよね?」

「……手?」


 彼は自分の右手を見下ろした。


 手の甲には細い傷があり、わずかに血が滲んでいる。


「これか」

「はい。よろしければ手当てをします」

「必要ない」

「でも、血が出ていますよ?」

「浅い傷だ」

「浅くても、汚れが入ると困りますから」

「問題ない」


 青年は短く答えた。


 どうやら、あまり会話をするつもりがないらしい。


 けれどリゼットは、目の前の傷が気になった。


「すぐに終わりますから、少しだけお時間をいただけませんか?」


 青年は無言でリゼットを見つめた。


 淡い金色の瞳は冷ややかで、何を考えているのか分からない。怒っているわけではなさそうだけれど、少々近寄りがたい雰囲気だった。


「……好きにしろ」

「ありがとうございます!」


 リゼットはほっとして、近くの椅子を示した。


「では、こちらへどうぞ」

「立ったままでいい」

「分かりました。お手を失礼しますね」


 青年は黙って右手を差し出した。


 リゼットは傷の状態を確認した。


 幸い、深い傷ではなかった。出血もほとんど止まっている。近くで見ると、青年の手には古い傷跡もいくつかあった。剣を扱う人なのかもしれない。


「少し沁みますよ」

「構わない」


 リゼットは傷を洗い、丁寧に手当てをした。


 青年は顔色一つ変えず、黙っている。


「……痛くありませんか?」

「問題ない」

「そうですか。もう少しで終わりますからね」

「ああ」


 それきり会話は途切れた。


 リゼットは手元へ意識を戻した。薬を塗り、清潔な布で傷を保護する。傷が浅かったおかげで、手当てはすぐに終わった。


「はい、これで大丈夫です!」

「……ありがとう」

「どういたしまして。しばらくは汚さないように気をつけてくださいね」

「分かった」


 青年は右手を一度確かめると、奥へ向かおうとした。


「あの、お名前を伺ってもよろしいですか?」


 リゼットが声をかけると、彼は振り返った。


「フェリクスだ」

「フェリクス様ですね。私はリゼット・ベルクマンと申します」

「……そうか」

「最近、こちらで働き始めたばかりなんです」

「見れば分かる」

「えっ?」

「今まで見たことがない」


 それだけ言って、フェリクスは奥へ歩いていった。


 リゼットはしばらく、その背中を見送っていた。


「……ずいぶん無愛想な方ね」


 思わず呟いてしまう。


 顔立ちは驚くほど整っているのに、ほとんど表情が変わらなかった。怒っているわけではないのだろうけれど、話しかけるには少し勇気がいる相手だ。


 ただ、手当てを断り続けることもなく、お礼もきちんと言ってくれた。


 きっと、必要以上に話すのが好きではないのだろう。


「……いろんな方がいるのね」


 リゼットは小さく頷き、途中だった仕事に戻った。


     ◇


「フェリクス、遅かったな」


 奥の部屋では、モーリッツが薬の入った小箱を用意していた。


「入口で捕まった」

「何?」

「新人に手当てをされた」

「……ああ、リゼットか」


 モーリッツはフェリクスの右手を見た。


「また怪我したのか」

「かすり傷だ」

「だったら最初から見せろ。化膿してから来られても困る」

「分かった」


 フェリクスは淡々と答えた。


 モーリッツは小箱を差し出す。


「殿下の薬だ。用法はいつも通り」

「ああ」

「それと、次からは使いを寄越せ。お前が毎回来る必要はないだろう」

「今日は近くに用があった」

「そうか」


 フェリクスは小箱を受け取った。


 それ以上話すこともなく、部屋を出る。


 廊下へ向かう途中、先ほどの薬師見習いが机に向かっているのが見えた。何やら帳面と格闘しているらしく、真剣な表情で文字を書き込んでいる。


 フェリクスは特に声をかけず、そのまま薬師室をあとにした。


 王宮には大勢の職員がいる。


 新しい薬師見習いが一人増えたところで、特別なことではない。


 手当てをしてくれたことには感謝しているが、それ以上でも以下でもなかった。


     ◇


「リゼット!」


 午後の作業が一段落した頃、ニーナが駆け寄ってきた。


「聞いたわよ! フェリクス様の怪我を手当てしたんですって!?」

「え? うん。ちょっとした傷だったけど」

「ちょっと待って。普通にお話ししたの?」

「普通に……って?」

「怖くなかった!?」


 ニーナは目を丸くした。


「怖い?」

「だって、あのフェリクス様よ!」

「……有名な方なの?」

「有名も何も! 王太子殿下の側近で、伯爵家の嫡男よ!」


 リゼットは瞬きをした。


「……えっ?」

「知らなかったの!?」

「うん……」


 ニーナは額に手を当てた。


「リゼット、あなたって本当に……」

「えっ、何?」

「いいえ。知らなかったなら仕方ないけど」


 そこへデリックが戻ってきた。


「何を騒いでるんだ?」

「先輩、聞いてください! リゼットがフェリクス様の手当てをしたんですって!」

「ああ、聞いたよ」

「しかも、お立場を知らなかったそうです!」

「そうなのか?」


 デリックはリゼットに目を向けた。


「はい。普通に怪我をされた方だと思っていました」

「まあ、間違ってはいないな」

「そうですけど!」


 ニーナが勢いよく振り返った。


「フェリクス様って、王宮でも有名なくらい無愛想なんですよ?」

「……確かに、あまりお話しされない方でした」

「でしょう!? 私なんて、廊下ですれ違うだけでも緊張するのに!」

「でも、きちんとお礼は言ってくださいましたよ?」

「お礼!?」

「うん。ありがとうって」

「……それは、普通じゃない?」


 ニーナが首を傾げる。


 デリックは楽しそうに笑った。


「フェリクス様は、必要な礼儀はきちんとされる方だよ。ただ、余計な会話をしないだけで」

「それが怖いんですってば!」

「仕事には厳しいけど、理不尽な方じゃないらしいぞ」

「先輩は平気なんですか?」

「俺は薬師室からあまり出ないからな。ほとんど話したことがない」


 リゼットは二人の話を聞きながら、先ほどの青年を思い出した。


 確かに無愛想だったけれど、特別怖いとは思わなかった。


「でも、ずいぶん綺麗な方でしたね」


 何気なく言うと、ニーナが勢いよく頷いた。


「そうなのよ! あんなに素敵な方なのに、女性にはほとんど関心がないらしくて」

「そうなんだ」

「お茶に誘われても、全部お断りするんですって」

「お忙しいんじゃない?」

「それもあるだろうけど……もう、リゼットってば!」


 ニーナは呆れたように笑った。


 リゼットは不思議そうに首を傾げる。


 確かに整った顔立ちの男性だったけれど、特別に親しくなりたいと思ったわけではない。そもそも、王太子の側近と薬師見習いでは、仕事で顔を合わせる機会も少ないだろう。


 それより今は、覚えなければならないことが山ほどある。


「そういえば、ニーナ。さっきの調合記録なんだけど……」

「えっ、もう仕事の話?」

「うん! ちょっと教えてほしいところがあって」

「……本当に薬草が好きねえ」


 ニーナが肩をすくめる。


 デリックも笑いながら帳面を覗き込んだ。


「どこが分からないんだ? 俺も一緒に見るよ」

「ありがとうございます!」


 リゼットは嬉しそうに帳面を開いた。


     ◇


 その日の夕方。


 薬師室の片づけを終えたリゼットは、モーリッツに挨拶をした。


「薬師長、今日はありがとうございました!」

「ああ。明日も遅れるなよ」

「はい!」

「それと、休憩はちゃんと取れ」

「……薬師長、お母様みたいですね」

「何だと?」

「い、いえ! 何でもありません!」


 リゼットが慌てると、モーリッツは呆れたように鼻を鳴らした。


「さっさと帰れ」

「はい! お疲れさまでした!」


 元気よく頭を下げ、薬師室をあとにする。


 王宮での生活は、まだ始まったばかりだった。


 けれど、毎日が新鮮で楽しかった。厳しいけれど面倒見のよい薬師長。明るくて頼りになるニーナとデリック。仕事の合間に声をかけてくれるアマーリエ。


 故郷を離れた時は、こんなに早く新しい生活に馴染めるとは思っていなかった。


 もちろん、ミハイルのことを思い出さないわけではない。


 ふとした瞬間に、昔の出来事が浮かぶこともある。


 けれど、あの頃のように彼が何をしているのか気になって仕方がない、ということはなくなっていた。


 今は自分のことで精いっぱいなのだ。


「……明日は、何を教えてもらえるのかな」


 リゼットは楽しそうに呟いた。


 今日出会った黒豹の青年のことも、すでに頭の隅へ追いやられている。


 少し無愛想で、近寄りがたい人。


 それが、リゼットにとってのフェリクスの第一印象だった。


 一方のフェリクスも、彼女を特別に意識したわけではない。


 王宮で働く、大勢の職員の一人。


 ただ、それだけだった。


 少なくとも、今はまだ。

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