第5話 さようなら、昨日までの私
三日後。
リゼットは朝早くから、旅立ちの準備をしていた。
大きな鞄は一つ。衣類と、薬草について書きためたノート。ヨーゼフからもらった紹介状。それから、子どもの頃から愛用している小さな薬草鋏。必要なものを並べてみると、思っていたよりも少なかった。
「本当に、これだけでいいの?」
母が心配そうに鞄を覗き込んだ。
「向こうで必要なものは買えるから」
「でも、王都よ?」
「王都だからこそ、お店もたくさんあると思うの」
「それもそうだけど……」
母はまだ何か言いたそうだったが、最後には小さく笑った。
「無理はしないでね」
「うん!」
「ちゃんと食べるのよ」
「分かってる」
「手紙も忘れずに。毎週ね」
「毎週!? それは多いよ、お母様」
「じゃあ、十日に一度」
「……分かった」
そんなやり取りをしているうちに、リゼットの緊張もほぐれてきた。
父は部屋の入り口に立ち、そんな二人を見守っていた。
「準備はできたか?」
「はい!」
「なら、そろそろ出よう」
リゼットは鞄を持ち上げた。
生まれ育った家を離れるのは、やはり寂しい。けれど、それ以上に新しい生活が楽しみだった。王宮には、どんな薬師がいるのだろう。今まで知らなかった薬草や調合方法も学べるかもしれない。
そんなことを考えながら階段を下りていると、玄関のほうから慌ただしい足音が聞こえてきた。
◇
「リゼット!」
聞き慣れた声に振り返ると、ミハイルが立っていた。
急いで来たらしく、少し息が上がっている。黒灰色の狼耳も落ち着きなく動いていた。
「……ミハイル」
「本当に行くのか?」
「うん」
「王都に?」
「そうよ」
「こんなに急に?」
「王宮から採用のお返事をいただいたから。できるだけ早く来てほしいんですって」
「いや、そういうことじゃなくて……」
ミハイルは言葉に詰まった。
リゼットは不思議そうに首を傾げる。以前なら、自分のために慌てて来てくれただけで嬉しくなっていただろう。けれど今は、何を言いに来たのだろうと思うばかりだった。
「王宮の薬師室って、本当なのか?」
「うん。ヨーゼフ先生が紹介してくださったの」
「お前が王宮で働くのか?」
「……何、その言い方」
「いや、悪い意味じゃないって!」
「そう聞こえたけど?」
「ただ、そんな話があったなんて知らなかったから」
ミハイルは困ったように髪をかき上げた。
「それで、すぐ行くって決めたのか?」
「うん」
「なんで俺に相談しなかったんだよ」
「……どうして?」
「どうしてって、今までなら話してくれただろ?」
その言葉に、リゼットは少し驚いた。
確かに、今までは何かを決める前に、必ずミハイルに話していた。新しい薬草の勉強を始めた時も、町で気になる店を見つけた時も。彼が退屈そうにしていても、つい聞いてほしくなったものだった。
けれど今回は違う。
自分で考えて、自分で決めた。
「ミハイルには、話す必要がないと思ったの」
「……え?」
「私がやりたいことだから」
ミハイルは戸惑ったように瞬きをした。
「少し時間が経てば、落ち着くと思ってた」
「落ち着くって?」
「だから、その……番のこと」
「私が?」
「俺も、お前も」
ミハイルは困ったように眉を寄せた。
「しばらくしたら、また普通に戻れると思ってたんだ」
普通。
その言葉を聞いて、リゼットは首を横に振った。
「私は、前と同じには戻らないよ」
「……なんで?」
「だって、もうお互いの気持ちを知ってしまったでしょう?」
ミハイルは何も言わなかった。
「でも、別に絶縁するわけじゃないから、安心して」
「じゃあ……」
「ただ、これからは自分のことを考えて生きてみたいの」
リゼットは穏やかに答えた。
ミハイルが嫌いになったわけではない。幼い頃から積み重ねてきた思い出まで、なかったことにしたいわけでもない。
けれど、彼の気持ちを確かめながら生きるのは、もうやめたかった。
「王都には、どのくらいいるつもりなんだ?」
「まだ分からない」
「半年くらい?」
「もっと長くなるかもしれないよ」
「そんなに?」
「王宮の薬師見習いなんだから、半年で全部覚えられるわけじゃないもの」
「まあ、そうだけど……」
ミハイルはまた黙り込んだ。
それから、いつものように笑った。
「でも、お前ならすぐ帰ってきそうだな」
「どうして?」
「だって、ずっとこの領地にいたんだぞ? 王都での暮らしなんて、すぐ嫌になるんじゃないか?」
軽い冗談のつもりだったのだろう。
昔ならリゼットも笑って、「そんなことないよ」と返していたかもしれない。
けれど今は、少し違った。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないね」
「……え?」
「王都が気に入ったら、そのまま暮らすかもしれないもの」
リゼットはにこりと笑った。
「だから、まだ何も決めてないの」
ミハイルの笑顔が止まった。
「……ずっと向こうにいるつもりなのか?」
「それも、これから考えることだよ」
以前なら、ミハイルのいるこの領地を離れるなんて、考えもしなかった。
けれど今は、どこで暮らすかも、何をするかも、自分で選びたいと思っている。
そんなリゼットを、ミハイルはしばらく見つめていた。
「……お前、何か変わったな」
「そうかな?」
「ああ。前はもっと……」
そこで言葉が途切れた。
「もっと?」
「……いや、何でもない」
リゼットはそれ以上聞かなかった。
ちょうどその時、父が玄関から顔を出した。
「リゼット、そろそろ出発の時間だ」
「あ、はい!」
リゼットは元気よく返事をした。
「じゃあ、行くね。ミハイル」
「……ああ」
彼の返事は、どこか歯切れが悪かった。
◇
屋敷の前には、王都へ向かう馬車が用意されていた。
両親とヨーゼフが、見送りに来てくれている。
「紹介状は?」
「持ってます!」
「薬草のノートは?」
「それも持ってます」
「忘れ物はありませんか?」
「先生、お母様みたいですね」
リゼットが笑うと、ヨーゼフは涼しい顔で答えた。
「それは困りますね」
「どうしてですか?」
「私は毎週手紙を書けとは言いませんから」
母がすかさず口を挟んだ。
「十日に一度です」
「十分多いですね」
「先生!」
リゼットは思わず吹き出した。
父もそのやり取りを見て、口元を緩めている。
ヨーゼフは懐から小さな包みを取り出した。
「これを持っていってください」
「何ですか?」
「胃薬です」
「……先生?」
「緊張すると、食事が喉を通らなくなるでしょう?」
図星だった。
リゼットは苦笑しながら包みを受け取った。
「ありがとうございます」
「向こうで困ったことがあれば、モーリッツを頼ってください」
「王宮の薬師長の?」
「ええ」
「やっぱり怖い方なんですか?」
「少々」
「少々?」
「顔が」
「先生!」
ヨーゼフは穏やかに微笑んだ。
「ですが、腕は確かです。仕事には厳しい方ですが、理不尽な人ではありませんよ」
「……はい。頑張ります!」
リゼットは包みを大切に鞄へしまった。
「リゼット様」
「はい」
「あなたは昔から、何かを学ぶ時が一番楽しそうでした」
ヨーゼフが優しく目を細める。
「王都でも、その気持ちを忘れないでくださいね」
「……はい!」
リゼットの狼耳が嬉しそうに立った。
「行ってらっしゃい、リゼット様」
「行ってきます、先生!」
リゼットは深く頭を下げた。
ヨーゼフは、薬草の名前もろくに知らなかった頃から、ずっと自分を見守ってくれた人だ。先生がいなければ、王宮で働くという夢を持つこともなかっただろう。
その恩に報いるためにも、精いっぱい頑張りたかった。
次に両親へ向き直ると、母が両手を広げた。
「リゼット、身体には気をつけるのよ」
「うん」
「食事を抜いたら駄目だからね」
「分かってるってば」
「それから……」
母の声が震えた。
「……寂しくなったら、いつでも帰ってきていいんだからね」
「お母様……」
リゼットは母に抱きついた。
小さな頃から何度も抱きしめてもらった、温かい腕。離れるのは寂しいけれど、離れたからといって家族でなくなるわけではない。
「……ありがとう。私、頑張るね」
「ええ。応援しているわ」
父もリゼットの頭を撫でた。
「無理はするなよ」
「はい」
「仕事は大切だが、身体のほうがもっと大切だ」
「……うん。ありがとう、お父様」
リゼットは二人に笑顔を向け、馬車へ乗り込んだ。
窓の外には両親とヨーゼフ。
そして、少し離れたところにミハイルが立っていた。
彼もこちらへ手を上げる。
「気をつけろよ」
「うん」
「手紙くらい書けよ」
リゼットは少し考えてから、笑った。
「気が向いたらね」
「なんだよ、それ」
ミハイルも笑った。
いつもと同じ、見慣れた笑顔だった。
リゼットはその笑顔が好きだった。今でも、見れば懐かしい気持ちになる。
けれど、もうその笑顔に自分の未来を重ねることはしなかった。
馬車がゆっくりと動き出す。
見慣れた屋敷も、庭も、両親の姿も、少しずつ遠ざかっていった。
リゼットは窓から大きく手を振った。
「行ってきます!」
春の風が、蜂蜜色の髪を揺らす。
やがて屋敷が見えなくなると、リゼットは座席に深く腰を下ろした。
生まれ育った領地を離れるのだから、寂しくないわけではない。けれど、その寂しさの中には、これから始まる生活への期待もあった。
リゼットは鞄から薬草のノートを取り出した。
これまで書きためてきた、大切な一冊。
「……頑張ろう」
誰に聞かせるでもなく呟いて、最初のページを開いた。
◇
王都までは二日かかった。
最初の夜は宿場町で一泊し、翌日の夕方、ようやく王都の城壁が見えてきた。
「……大きい!」
リゼットは思わず窓に顔を近づけた。
王都には何度か来たことがある。けれど、これからここで暮らすと思うと、景色がまるで違って見えた。高い城壁に、石畳の大通り。商人たちの威勢のいい声が響き、色とりどりの看板が並んでいる。
人間も、狼獣人も、豹獣人も、狐獣人も、兎獣人も。
さまざまな種族の人々が行き交い、故郷とは比べものにならないほど賑やかだった。
この国では、人間も獣人も対等な立場で、互いに助け合いながら暮らしている。
それでも、これほど多くの種族が一堂に集まる光景は、リゼットにとって初めてだった。
「あっ……あれ、薬草屋さんかしら?」
通りの一角に、見慣れない看板を見つけた。
店先には珍しい薬草がいくつも吊るされている。故郷では見たことのない種類もあり、リゼットは思わず身を乗り出した。
「……あとで見に来ようっと」
知らない場所に来たという不安はある。
けれど、それ以上に知りたいことがたくさんあった。
王都には、どんな薬草があるのだろう。
王宮では、どんな調合をするのだろう。
そんなことを考えているうちに、馬車は王宮に近い宿泊施設へ到着した。
リゼットは案内された部屋に荷物を置き、窓を開けた。
夕日に照らされた王都の向こうには、王宮の尖塔が見える。
あそこが、明日から自分の働く場所になるのだ。
「……楽しみだなあ」
リゼットはしばらく景色を眺めていた。
そして、明日のために早めに休むことにした。
◇
翌朝。
リゼットは王宮の薬師室を訪れた。
受付で紹介状を渡すと、しばらくして奥の部屋へ通された。
扉を開けた瞬間、薬草の香りが鼻をくすぐる。大きな作業机に、壁一面の棚。整然と並ぶ薬瓶や調合器具は、ヨーゼフの店よりもずっと種類が多かった。見慣れない器具もいくつかあり、リゼットは思わず足を止めた。
「わあ……!」
感嘆の声を漏らした、その時だった。
「おい。そこの新人」
奥から低い声がした。
はっと顔を上げる。
部屋の中央に、一人の男性が立っていた。
五十代前半ほど。濃い茶色の髪には白髪が混じり、深緑色の瞳は鋭い。装飾の少ない濃紺の長衣をまとい、分厚い帳面を片手に持っている。
「リゼット・ベルクマン?」
「はい!」
「モーリッツだ」
それだけだった。
リゼットは少し面食らいながらも、慌てて頭を下げた。
「本日からお世話になります。リゼット・ベルクマンと申します!」
「紹介状は読んだ」
「はい」
「ヨーゼフが弟子を寄越すなんて珍しいな」
モーリッツは机の上に紹介状を置いた。
「ずいぶん褒めてたぞ」
「え?」
「薬草の基礎は十分。調合も問題なし。真面目で、患者を放っておけない性格だとさ」
「先生が、そんなことを……?」
リゼットは驚いた。
ヨーゼフはいつも穏やかだったが、褒め言葉を並べるような人ではない。そんなふうに評価してもらえていたなんて、知らなかった。
「ただし」
モーリッツが続ける。
「王宮は領地の薬師小屋とは違う」
「はい!」
「覚えることも多い。失敗もする」
「はい」
「だが、分からないことを勝手に判断するな。特に薬はな」
「……はい!」
リゼットは背筋を伸ばした。
モーリッツは棚から一冊の帳面を取り出す。
「まずは薬草庫と調合室の場所を覚えろ。仕事の手順は先輩に教わるといい」
「分かりました!」
「それと」
「はい」
「そんなに緊張するな」
リゼットは目を瞬いた。
「顔に出てますか?」
「かなり」
「……すみません」
「謝る前に、手を動かせ」
モーリッツは帳面を差し出した。
「新人なんて、最初はそんなもんだ。分からなければ聞け」
「……はい!」
怖そうな人だと思った。
けれど、案外面倒見のよい人なのかもしれない。
リゼットは帳面を受け取り、もう一度頭を下げた。
「よろしくお願いします、薬師長!」
「ああ。しっかり働けよ」
「はい!」
リゼットは元気よく返事をした。
◇
昼過ぎ。
薬師室の廊下を歩いていると、前から一人の女性がやってきた。
長い栗色の髪に、深緑色の瞳。年齢はリゼットより少し上だろう。上品なドレスを身にまとい、落ち着いた雰囲気を漂わせている。
一目で高位貴族の令嬢だと分かった。
リゼットは慌てて廊下の端へ寄り、頭を下げた。
女性はそのまま通り過ぎるかと思ったが、ふと足を止めた。
「あなた、新しく入った薬師見習い?」
「はい!」
「やっぱり」
女性は柔らかく微笑んだ。
「緊張している顔ね」
「……そんなに分かりますか?」
「少しね」
さっきも似たようなことを言われた。
リゼットが苦笑すると、女性も楽しそうに笑った。
「私はアマーリエよ」
「リゼット・ベルクマンと申します」
「よろしくね、リゼット」
「……はい! よろしくお願いいたします」
アマーリエは自然な口調で話してくれた。
高位貴族らしい気品があるのに、偉そうなところがない。リゼットが緊張していることに気づいたのか、少しくだけた調子で話しかけてくれる。
「王宮で働くのは初めて?」
「はい。今日が初日なんです」
「それなら、きっと迷うわね」
「……やっぱり、迷いますか?」
「ええ。廊下も似たようなところが多いし。私なんて、今でもたまに迷うもの」
「本当ですか?」
「本当よ」
アマーリエが笑うと、リゼットもつられて笑った。
「困ったことがあったら、遠慮なく声をかけてね」
「ありがとうございます!」
「ふふ。そんなに緊張しなくていいのよ」
アマーリエは優しく目を細めた。
「それじゃあ、またね」
「はい。失礼いたします!」
リゼットは丁寧に頭を下げ、彼女を見送った。
知らない場所。
知らない人たち。
最初は不安だったけれど、思っていたよりも温かい人が多いのかもしれない。
リゼットは手にした帳面を抱え直した。
薬草庫の場所を覚えたら、次は調合室。
今日中に覚えたいことが、まだまだたくさんある。
「よしっ!」
小さく気合いを入れ、薬師室へ向かって歩き出した。
昨日までの自分なら、きっと今頃、ミハイルのことを考えていただろう。
今日は何をしているのだろう。
誰と会っているのだろう。
そんなことばかり気にしていたはずだ。
けれど今、リゼットの頭は新しい仕事のことでいっぱいだった。
もちろん、ミハイルを忘れたわけではない。
今でも思い出せば、切なくなる。
それでも、もう彼の帰りを待つ必要はないのだ。
自分には、自分の人生がある。
「……頑張ろう!」
リゼットは笑顔で歩き出した。
さようなら、昨日までの私。
そして、今日からは。
自分で選んだ、この道を歩いていこう。




