第4話 私の人生を、私のために
翌朝。
目を覚ましたリゼットは、しばらく天井を見つめていた。
まぶたが重い。昨夜は泣きすぎたせいで、目の周りも腫れている。昨日までなら、こんな顔をミハイルに見られたくないと思っただろう。けれど今日は、そんなことよりも考えたいことがあった。
――これから、どうしよう。
昨夜、自分で決めたのだ。
もう、ミハイルを待たないと。
だからといって、すぐに気持ちを切り替えられるわけではない。それでも、いつまでも寝台に潜っているのは嫌だった。
「……よし!」
リゼットは頬を軽く叩き、寝台から起き上がった。
◇
「リゼット?」
朝食の席についた途端、母が心配そうに顔を覗き込んできた。
「その目……どうしたの?」
「ちょっと、寝不足で」
「寝不足でそんなに腫れないでしょう」
父も新聞から顔を上げた。
「何かあったのか?」
リゼットは口を閉ざした。
隠そうと思えば、まだ隠せたかもしれない。けれど、もう一人で抱えている必要はないのだと思った。両親には、これからのことも相談したかった。
「……お父様、お母様。話したいことがあるの」
それだけで、母の表情が変わった。父も新聞を畳み、娘へ向き直る。
「昨日、ミハイルと話したの」
「ミハイル様と?」
「うん。実はね……私たち、番だったの」
母が息を呑んだ。
「まあ……!」
「でも、ミハイルは喜んでくれなかったの」
リゼットは、二人が番だと分かった時のことから順番に話した。ミハイルがまだ自由でいたいと言ったこと。いろいろな女性と付き合いたいと思っていること。そして、自分の隣にはもっと華やかな女性が似合うと言われたこと。
母は途中から何も言わなくなった。
父も険しい顔で聞いていた。
「それでね……」
リゼットは二人を見つめた。
「私、もうミハイルを待つのはやめようと思う」
自分では落ち着いて言えたつもりだった。けれど、口にした途端、また涙が滲んでしまった。
「……ずっと、好きだったけど」
母がすぐに席を立ち、リゼットを抱きしめた。
「知っていたわ」
「お母様……」
「あなたがずっとミハイル様を好きだったことくらい、知っていたわよ」
その言葉に、リゼットは母の胸元へ顔を埋めた。
「番だって分かった時、私……嬉しかったの」
「ええ」
「やっと、私のことを見てくれるかもしれないって。でも……違ったみたい」
母の腕に力がこもった。
「……彼を責めないでね」
リゼットが小さく言うと、母は一瞬黙った。
「ミハイルも、番だからって人生を決められるのが嫌だったんだと思う」
「だからといって、あなたを傷つけていい理由にはならないわ」
「……うん」
リゼットは涙を拭った。
「それは、私も分かってる」
ミハイルが結婚を望まないことは、尊重したい。
けれど、自分が傷ついたことまで、なかったことにはしたくなかった。
父が静かに口を開いた。
「リゼット」
「はい」
「お前は、これからどうしたい?」
「……私?」
「ああ。ミハイル君がどう思うかではなく、お前自身がどうしたいかだ」
リゼットは父を見つめた。
今まで、自分の未来を考える時には、いつもミハイルがいた。いつか彼と結婚して、同じ家で暮らして、できれば薬師の勉強も続けられたら。そんな未来ばかり思い描いていた。
けれど、それだけが自分の人生ではない。
「……まだ、ちゃんとは分からないの」
リゼットは正直に答えた。
「でも、薬師の勉強は続けたい。もっと、いろんなことを知りたいの」
「そうか」
「だから、今日はヨーゼフ先生に相談してみようと思う」
「ええ。それがいいわ」
母が微笑んだ。
父も穏やかに頷く。
「急いで答えを出す必要はない。これからのことは、ゆっくり考えればいい」
「……うん。ありがとう、お父様」
リゼットは涙を拭い、ようやく朝食に手を伸ばした。
◇
その日の午後。
リゼットは、領地の外れにある薬師の家を訪ねた。
扉を開けると、乾燥した薬草の香りが鼻をくすぐった。壁一面には棚が並び、瓶や薬草の束が整然と収められている。子どもの頃から何度も通った、リゼットの大好きな場所だった。
「こんにちは、先生!」
「こんにちは、リゼット様」
奥から現れたヨーゼフは、リゼットの顔を見るなり足を止めた。
「……ずいぶん泣かれたようですね」
「先生、もう少し言い方があると思います」
「これは失礼しました。ですが、目が腫れていますよ」
「……はい。いっぱい泣きました」
素直に認めると、ヨーゼフは穏やかに頷いた。
「そうでしたか。では、まずはお茶にしましょう」
「ありがとうございます」
ヨーゼフは温かいお茶を淹れ、リゼットの前へ置いてくれた。
何があったのか、無理に聞こうとはしない。リゼットが話し始めるまで、待ってくれる。昔からそういう人だった。
「……先生」
「はい」
「番への反応を弱める薬って、ありますよね」
湯呑みを置くヨーゼフの手が止まった。
「……あります」
「私にも使えますか?」
「使用することは可能です。ただし、簡単にお勧めできる薬ではありません」
「……はい」
ヨーゼフは向かいの椅子に腰を下ろした。
「一度服用すると、番への反応が完全には元に戻らない可能性があります」
「完全には?」
「相手の匂いが分からなくなるわけではありません。ですが、番に強く惹かれたり、そばにいるだけで安心したりする感覚が、大きく弱まります」
リゼットは真剣に耳を傾けた。
「時間が経てば、ごくかすかに反応が戻る場合もあります。ただし、服用前と同じ状態に戻れる保証はありません」
「……そうなんですね」
「それに、この薬は記憶や恋愛感情を消すものではありません。相手への想いが残ることもありますよ」
リゼットは膝の上で手を重ねた。
薬を飲めば、ミハイルを忘れられるわけではない。
そんなことは、分かっていた。
「先生。この薬を飲まなければ、私はこれからもミハイルに強く惹かれ続けるのでしょうか?」
「本能は引かれると思います。ただ、それに従わなければならないわけではありませんよ」
ヨーゼフは優しく言葉を続けた。
「番は特別な存在ですが、番と出会うことが必ずしも幸せな結婚につながるわけではありません」
「……はい」
「そもそも、今では番に出会える獣人のほうが少ないのです。昔はもう少し多かったそうですが、なぜ減ってしまったのかは、今でも分かっていません」
ヨーゼフは湯呑みを手に取った。
「多くの獣人が、番ではない相手と恋をして、家庭を築いています。大切なのは、本能ではなく、お互いがどう生きたいかではないでしょうか」
リゼットはゆっくり頷いた。
その通りだと思った。
自分だって、ミハイルが番だから好きになったわけではない。
ずっと前から、彼が好きだったのだ。
「……先生。実は、私の番はミハイルだったんです」
「……ミハイル様が?」
ヨーゼフは驚いたように目を見開いた。
「はい。でも、ミハイルは私と結婚したくないそうです」
リゼットは、これまでのことを話した。
十二歳の頃の約束も、ずっと待っていたことも、番だと分かって嬉しかったことも。そして、ミハイルに拒絶されたことも。
ヨーゼフは最後まで口を挟まずに聞いてくれた。
「……そうでしたか」
話し終えると、彼は静かに息を吐いた。
「つらかったですね、リゼット様」
「……はい。でも、もう大丈夫です」
そう答えてから、リゼットは少し考えた。
「……いえ。まだ、大丈夫じゃないかもしれません」
ヨーゼフの目元が和らいだ。
「それでよいのですよ」
「え?」
「つらい時は、無理に大丈夫だと言わなくてもよいのです」
「……はい」
リゼットは小さく笑った。
「でも、前を向きたいんです」
昨夜、もう待たないと決めた。
それなのに、今朝になってもミハイルのことばかり考えてしまった。彼の匂いを思い出すだけで、そばにいたいという気持ちが湧いてくる。
このままでは、また期待してしまいそうだった。
「……私、この薬を飲みたいです」
ヨーゼフはすぐには答えなかった。
「リゼット様。今すぐ決める必要はありませんよ」
「……はい」
「番への反応が戻らなくなるかもしれないのです。後悔する可能性もあります」
「分かっています」
リゼットは顔を上げた。
「でも、私はもう、ミハイルが振り向いてくれるのを待ちたくないんです」
「……そうですか」
「彼を忘れたいわけじゃありません。好きだったことも、楽しかった思い出も、消したくないです」
リゼットは一度言葉を切った。
「ただ、これからは、自分の気持ちで前に進みたいんです」
ヨーゼフはしばらくリゼットを見つめていた。
「……それなら、最後にもう一度だけ伺います」
「はい」
「もし将来、ミハイル様の気持ちが変わったとしても、薬の効果が元に戻るとは限りません。それでも、よろしいですか?」
リゼットは目を伏せた。
もし、いつかミハイルが自分を好きになってくれたら。
もし、あの時は間違っていたと言われたら。
そんな未来を考えてしまう自分が、まだいる。
けれど、その日が来るかどうかも分からない。
来なかった時、自分は何年待ち続けるのだろう。
「……はい」
リゼットは顔を上げた。
「私、もう決めたんです」
ヨーゼフは静かに頷いた。
「分かりました。では、用意しましょう」
◇
ヨーゼフが用意した薬は、思っていたよりも普通の形をしていた。
掌に乗る、小さな錠剤。
特別な光を放つわけでもなく、見た目は普段扱っている薬と変わらない。
「服用後、すぐにすべての反応が消えるわけではありません。しばらくは体調にも気をつけてください」
「はい」
「それから、気持ちが落ち着くまで、無理をしないことです」
「分かりました」
リゼットは掌の薬を見つめた。
幼い頃から、ずっと好きだった。
十二歳の秋、いつかお嫁さんにしてくれると言ってくれた。
そんなミハイルを、これからも大切な思い出として覚えているだろう。
けれど、もう彼を待つために生きるのはやめたい。
「……いただきます」
リゼットは薬を口に入れ、水で流し込んだ。
苦くもない。
痛くもない。
拍子抜けするほど、あっけなかった。
「……飲めました」
「ええ。よく決断されましたね」
ヨーゼフは穏やかに頷いた。
何かが劇的に変わったわけではない。ミハイルへの想いも、今すぐ消えるわけではないだろう。
けれど、これは自分で選んだことだった。
誰かのためではなく、自分のために。
そのことが、今は大切だった。
◇
「そういえば、リゼット様」
ヨーゼフが棚を探しながら、何でもないことのように言った。
「王都へ行く気はありませんか?」
「……王都?」
「はい」
ヨーゼフは一通の書類を取り出した。
「王宮の薬師室で、見習いを募集しているそうです」
「えっ、王宮ですか!?」
リゼットの耳が勢いよく立った。
「どうして先生がそんなお話を?」
「昔の知り合いがいるんですよ」
「初めて聞きました!」
「今、初めてお話ししましたから」
「先生!」
思わず声を上げると、ヨーゼフは涼しい顔でお茶を飲んだ。
「リゼット様なら、紹介できますよ」
「で、でも私、まだ勉強中ですし……」
「十分学んでいます」
「王宮ですよ?」
「ええ」
「もっと驚くところじゃないですか?」
「驚いていますよ」
「全然見えません!」
「顔に出ないだけです」
リゼットは思わず笑ってしまった。
こんな時なのに、ヨーゼフと話していると、いつもの自分に戻れる気がする。
「もちろん、紹介したからといって採用が決まるわけではありません。王宮には優秀な薬師が大勢いますから、学ぶことも多いでしょう」
「……はい」
「それでも、挑戦してみたいと思いますか?」
リゼットは差し出された書類を見つめた。
王宮。
薬師見習い。
今まで、自分とは遠い世界だと思っていた。
王都へ行けば、ミハイルとは簡単に会えなくなる。領地を離れれば、彼の近くにはいられない。
そんな理由で、最初から考えもしなかった選択肢だった。
けれど、今は違う。
「……行きたいです」
言葉が自然に出た。
ヨーゼフの目元が和らぐ。
「そうですか」
「はい! 私、もっと勉強したいです。先生に教えてもらったことも、もっと多くの人の役に立てたい」
リゼットは書類を両手で受け取った。
「それに……私、自分の力でどこまでできるのか、試してみたいんです」
ヨーゼフは満足そうに頷いた。
「それなら、紹介状を書きましょう」
「本当に?」
「ええ。昔からの知人が王宮の薬師長を務めています。腕は確かですが、少々口が悪い方です」
「……怖い方なんですか?」
「そうですね。愛想は期待しないほうがよいでしょう」
ヨーゼフは穏やかに微笑んだ。
「ですが、人を見る目はありますよ」
「……私、頑張ります!」
「その意気です」
リゼットは深く頭を下げた。
「先生、本当にありがとうございます!」
「お礼は、王都でしっかり学んでからにしてください」
「厳しいですね」
「今さらでしょう?」
二人は顔を見合わせて笑った。
久しぶりに、心から笑えた気がした。
◇
夕方。
家へ戻ったリゼットは、両親に王都の話をした。
母は驚き、父はしばらく黙って話を聞いていた。
「本当にそれでいいのか?」
やがて父が尋ねた。
「はい」
「ミハイル君から逃げるためではないか?」
リゼットは少し考えた。
「……少しは、そうかもしれない。でも、それだけじゃないの」
正直に答える。
「私、変わりたいの。ずっとここで、誰かを待っているだけじゃなくて」
薬草が好きだった。
薬を作ることも、人の役に立つことも。
ヨーゼフから教わった知識は、今のリゼットにとって何よりの財産だった。
「もっと勉強して、いろんな人の役に立ちたい。それに、自分の力でどこまでできるのか知りたいの」
父は長く娘を見つめた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「なら、挑戦しておいで」
「……お父様」
「もちろん、王宮で採用してもらえたらの話だがな」
「もう、お父様ったら!」
リゼットが頬を膨らませると、父は楽しそうに笑った。
「自分で決めたなら、それでいい。父さんは応援するよ」
母も涙ぐみながら微笑んだ。
「寂しくなるわね」
「私も……」
「でも、あなたがやりたいことなら、応援するわ」
母はリゼットの手を握った。
「どこへ行っても、あなたは私たちの大切な娘よ。それだけは忘れないでね」
「……うん。ありがとう、お母様」
リゼットは笑った。
まだ、ミハイルを好きだった。
明日になったら急に忘れられるわけではない。王都へ行ってからも、きっと何度か思い出すだろう。
けれど、もう待たない。
彼が振り向く日を。
自分を選んでくれる日を。
これからは、自分のために歩いていこう。
◇
それから数日後。
ヨーゼフの紹介状を添えて送った応募書類に、王宮から返事が届いた。
薬師見習いとして受け入れてもらえることになったのだ。
「……本当に?」
何度読み返しても、書かれている内容は変わらない。
王宮薬師室への採用。
リゼットは嬉しくて、その場で飛び跳ねてしまった。
「やったあ!」
母が驚いて部屋を覗き込む。
「リゼット、どうしたの?」
「お母様! 採用されたの!」
「まあ、本当に!?」
「うん! 王宮で働けるんだって!」
リゼットは手紙を胸に抱きしめた。
不安がないわけではなかった。
初めての王都。知らない人たちに囲まれての仕事。自分の知識がどこまで通用するのかも分からない。
それでも、楽しみだった。
これから新しいことを学べる。
今まで知らなかった世界を、自分の目で見られる。
そんな期待で、胸がいっぱいになった。
旅立ちは三日後に決まった。
リゼットは早速荷造りを始め、机の上にヨーゼフから受け取った紹介状の控えを置いた。
「……楽しみだな」
自然と笑みがこぼれる。
窓の外には、春の青空が広がっていた。
ずっとミハイルの隣にあると思っていた、自分の未来。
けれど、そこだけが世界のすべてではなかった。
まだ見ぬ王都で、どんな人たちと出会うのだろう。
どんな毎日が待っているのだろう。
リゼットは紹介状を大切に鞄へしまった。
――私の人生は、私のために。
新しい一歩を踏み出す準備は、もうできていた。




