第3話 あなたを待つ、最後の夜
翌朝、目を覚ましても、リゼットの気持ちは晴れなかった。
それでもいつも通りに起きて、身支度を整えた。鏡の前で蜂蜜色の髪をまとめ、淡い青のリボンを結ぶ。昨夜は泣き疲れて眠ったせいか、灰青色の瞳が少し腫れていた。冷たい水で顔を洗ってみたけれど、鏡に映る自分はいつもより元気がない。
まだ、何も終わっていない。
ミハイルは、今すぐ結婚したくないと言っただけだ。
そう自分に言い聞かせていた。
けれど昼を過ぎた頃、侯爵家から使いが来た。
ミハイルが、もう一度話したいと言っているらしい。
リゼットはしばらく迷った末、屋敷を出ることにした。
◇
侯爵家の庭は、春の花でいっぱいだった。
子どもの頃から何度も訪れた場所。その奥にある小さな東屋で、ミハイルは一人で待っていた。昨日よりも険しい顔をしていて、リゼットが近づくと落ち着かない様子で立ち上がった。
「悪いな、呼び出して」
「ううん。大丈夫だよ」
「座ってくれ」
「……うん」
向かい合って腰を下ろす。
風が吹くたびに花の香りが漂う。けれどリゼットには、その中に混じるミハイルの香りが何よりも強く感じられた。番だと分かってしまったからだろう。そばにいるだけで安心するはずなのに、今はその心地よささえ悲しかった。
「昨日のこと、考えた」
ミハイルが先に口を開いた。
「うん」
「やっぱり俺、すぐには受け入れられない」
「……そっか」
「リゼットが悪いわけじゃないんだ」
「うん。分かってるよ」
改めて告げられると、わずかに残っていた期待がしぼんでいく。
「俺はまだ、いろいろ見たいんだよ。王都にも行きたいし、社交界にも出たい。もっといろんな女性とも付き合ってみたい」
「……そうね」
ミハイルは一度視線を落とし、言いにくそうに口を開いた。
「それに、正直に言うとさ」
「うん?」
「俺、自分の隣にいるのは、もっと華やかな女性だと思ってた」
リゼットは瞬きをした。
「……華やかな、女性?」
「ああ。夜会でも目を引くような、そういう人」
「……そっか」
言葉の意味は分かった。けれど、すぐには受け止められなかった。
「誤解するなよ。お前が悪いとか、そういう意味じゃない」
ミハイルは慌てたように言葉を重ねた。
「リゼットはいい子だよ。優しいし、昔から俺のことも分かってる。でも……」
「もっと綺麗で、社交的な人が似合うと思ってた?」
「……まあ、そういう憧れはあるけど」
「そっか。そうだったんだね」
ミハイルは何か言いたそうにしたが、結局口を閉ざした。
リゼットは膝の上で手を握りしめた。ずっと分かっていた気もする。ミハイルが夜会で目を向けるのは、いつも華やかな令嬢たちだった。美しく着飾り、誰とでも楽しそうに話せる女性たち。薬草籠を抱えて森を歩く自分とは、まるで違う。
それでも、ミハイルだけは自分の良いところを知ってくれていると思っていた。
「……私じゃ、違うのね」
「そういう言い方するなよ」
「でも、違うんでしょう?」
ミハイルが困ったように眉を寄せた。
「俺はただ、まだ決めたくないんだ」
「……うん」
「誰か一人を選ぶには早いと思ってる。番だからって、それで全部決まるなんて嫌なんだよ」
ミハイルは番という仕組みに縛られたくない。その気持ちは理解できる。リゼットだって、番だからという理由だけで愛してほしいわけではなかった。
ただ、好きだった。
番だと知るずっと前から、ミハイルが好きだったのだ。
「……ねえ、ミハイル」
「何?」
「もし、私が番じゃなかったら」
「え?」
「いつか、私を好きになってくれた?」
聞かないほうがよかった。
そう思った時には、もう遅かった。
ミハイルはすぐに答えなかった。しばらく考え込んだあと、困ったように眉を寄せる。
「それは……分からない」
「……そう」
「でも、お前は大事だよ」
「うん」
「それは本当だ」
「……分かってる」
きっと、嘘ではないのだろう。
ミハイルは昔から、思ったことをそのまま口にする人だった。子どもの頃は、その素直さが好きだった。けれど今は、彼の言葉を聞くたびに、二人の気持ちの違いを思い知らされる。
◇
「……ミハイル」
リゼットはゆっくりと顔を上げた。
「私、昔の約束を覚えてるの」
「昔の約束?」
「十二歳の収穫祭。二人で丘へ登ったでしょう?」
「ああ……うん」
「あの時、言ってくれたの。大きくなったら、私をお嫁さんにしてくれるって」
ミハイルは目を見開き、気まずそうに視線を逸らした。
「……そんなこと、言ったっけ?」
「うん。言ったよ」
「いや、それは……」
彼は髪をかき上げ、困ったように笑った。
「そんなの、子どもの頃の話だろ」
「……うん」
「まさか、本気にしてたのか?」
「……うん。ずっと覚えてた」
リゼットは膝の上で指を重ねた。
「嬉しかったの。ミハイルとずっと一緒にいられるんだって思って」
「リゼット……」
「でも、そうよね。子どもの頃の約束だもの」
あの頃のミハイルは、嘘をついたわけではなかったのだと思う。きっと、本当にそう思ってくれていた。けれど、子どもの頃の気持ちが大人になっても続くとは限らない。
それは、分かっている。
分かっているのに、どうしてこんなに悲しいのだろう。
「……人の気持ちって、変わるんだね」
「え?」
「ううん。何でもない」
リゼットは首を横に振った。
子どもの頃のミハイルは、優しかった。今の彼も、意地悪をしようとしているわけではないのだろう。ただ、自分とは違う未来を見ている。
「リゼット、俺は……」
「ミハイルが私を選びたくないなら、無理に選ばなくていいよ」
ミハイルが言葉を止めた。
「番だからって、必ず好きになれるわけじゃないものね」
「俺は、別にお前を嫌いなわけじゃ……」
「うん。分かってる」
嫌われているわけではない。
だからこそ、いつか気持ちが変わるのではないかと期待してしまう。
けれど、その期待を抱え続けることが、もう苦しかった。
「……こんな仕組み、最初からなければよかったのに」
思わず、そんな言葉がこぼれた。
ミハイルが驚いたように目を見開く。
番だと分からなければ、今まで通り、こっそり好きでいられたのだろうか。少なくとも、好きな人にこれほどはっきりと拒まれることはなかったかもしれない。
「……ごめん」
ミハイルが低い声で言った。
「傷つけるつもりじゃなかった」
「……うん」
「リゼット」
「分かってるよ」
リゼットはどうにか微笑んだ。
傷つけるつもりがなかったことは分かっている。
けれど、傷つかなかったことにはならない。
リゼットはゆっくりと立ち上がった。
「……少し、一人になりたい」
「送るよ」
「大丈夫」
「でも」
「お願い、ミハイル」
リゼットは顔を上げた。
「今日は、一人で帰らせて」
ミハイルは何か言いかけたが、最後には頷いた。
「……分かった」
「ありがとう。じゃあね」
「ああ。またな」
子どもの頃から、何度も交わした別れの言葉。
いつもなら「また明日ね」と笑って返していた。
けれど今日は、その言葉が出てこなかった。
◇
屋敷へ戻るまで、リゼットは泣かなかった。
母に会えば、きっと気づかれてしまう。だから玄関を入るなり、「少し疲れたから休むね」とだけ告げ、自分の部屋へ向かった。扉を閉め、誰もいないことを確かめる。
そこまでして、ようやく。
「……っ」
喉の奥から声が漏れた。
両手で口元を押さえても、涙が止まらなかった。
「……やだ……」
華やかな女性のほうが似合うと言われたこと。
大切にしてきた約束を、子どもの頃の話だと片づけられたこと。
何より、こんなに悲しいのに、まだミハイルを好きな自分が苦しかった。
リゼットは寝台へ座り込み、顔を伏せた。幼い頃の思い出が、次々と浮かぶ。森で手を引いてくれたこと。薬草の話を退屈そうに聞きながら、それでも最後まで付き合ってくれたこと。収穫祭で一緒に焼き菓子を食べたこと。
そして、丘の上で交わした未来の約束。
「ずっと……好きだったのに……」
声にした途端、涙がまたあふれた。
枕へ顔を埋めても、嗚咽は止まらない。
番だと分かった、あの瞬間。
本当に幸せになれると思ってしまった。
ずっと待ってきたことが、ようやく報われるのだと。
けれど、違った。
運命が味方をしてくれたわけではなかった。
ただ、今まで見ないふりをしてきた現実を、はっきり見せられただけだった。
「……もう、嫌……」
リゼットは枕を抱きしめた。
待つことも、期待することも。
優しくされるたびに、もしかしたらと思ってしまうことも。
もう、疲れてしまった。
ミハイルがほかの女性を選ぶたび、リゼットは自分に言い聞かせてきた。まだ結婚する年齢ではないから。今は自由でいたいだけだから。いつかきっと、自分のところへ戻ってきてくれるから。
けれど、いつまで待てばいいのだろう。
一年後?
三年後?
それとも、もっと先?
考えても、答えは出なかった。
ミハイルは一度だって、待っていてほしいとは言わなかったのだから。
「……そっか」
涙に濡れた顔を上げた。
待つと決めていたのは、自分だけだった。
ミハイルは自由に恋をして、好きなように生きている。なのに自分は、彼がいつか振り返ることばかり考えていた。
薬草の勉強も、友達との時間も、楽しいことはたくさんあった。それでも心のどこかで、いつもミハイルを待っていた。
そんな自分が、急に寂しくなった。
「……もう、待つのはやめよう」
声は震えていた。
けれど、今度は最後まで言えた。
すぐに忘れられなくてもいい。
好きな気持ちが残っていても、構わない。
ただ、彼が振り返ってくれる日を待つのは、もうやめよう。
そう決めた途端、また涙がこぼれた。
今夜くらい、思いきり泣いてもいい。
リゼットはもう一度枕に顔を埋め、声を上げて泣いた。
◇
夜が更ける頃には、涙もようやく落ち着いていた。
リゼットは顔を洗い、鏡の前に立った。灰青色の瞳は赤く腫れ、蜂蜜色の髪も乱れている。ひどい顔だったけれど、誰に見せるわけでもない。
「……明日は、もっと腫れちゃうかな」
そう呟くと、少しだけ笑えた。
明日になれば、また朝が来る。
いつものように髪を整えて、朝食を食べて。
ヨーゼフ先生のところへ行こう。
まだ覚えていない薬草も、勉強したいことも、たくさんある。いつか先生のように、人の役に立てる薬師になりたい。そんな夢を、ずっと抱いていた。
ミハイルのことばかり考えていたけれど、自分には好きなことがちゃんとあるのだ。
「……私、頑張るから」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
これからどうすればいいのか、まだ分からない。
ただ、何かを変えたかった。
このまま同じ場所で、同じ人を待ち続けるのではなく。
自分のために、何かを始めたい。
リゼットは窓を開け、夜風を吸い込んだ。
遠くに侯爵家の屋敷が見える。幼い頃から、何度も訪れた場所。大好きなミハイルが暮らす場所。
あの丘で交わした約束も、森でつないだ手の温かさも、忘れることはできないだろう。
けれど、思い出まで嫌いになる必要はない。
あの頃、幸せだったことは本当なのだから。
「……ありがとう、ミハイル」
届かないと分かっていても、そう言いたかった。
そして、もう一つ。
「……さようなら」
それは、ミハイルへの別れというより、彼を待ち続けていた自分への言葉だった。
リゼットはしばらく夜空を眺めてから、窓を閉めた。
明日からは、自分のために歩いていこう。
たとえ、まだ好きな気持ちが残っていても。
もう、彼を待つ人生は選ばない。
それが、リゼットがミハイルを待っていた、最後の夜だった。




