第2話 私だけが、嬉しかった
目の前のミハイルは、笑っていなかった。
さっきまでいつも通りだった顔から、すっかり表情が消えている。
リゼットには、もう分かっていた。ミハイルから漂う香りは、今までとはまるで違う。初めて嗅ぐはずなのに、どうしようもなく懐かしくて、そばにいるだけで心が満たされる。もっと近づきたいと、本能が訴えかけてくる。
狼獣人にとって、生涯に一度出会えるかどうかも分からない特別な相手。
――番。
「……ミハイル」
「待ってくれ」
名前を呼んだ瞬間、遮られた。
「俺、ちょっと……」
ミハイルは額に手を当て、困惑したように視線を逸らした。黒灰色の耳が落ち着きなく動いている。混乱しているのは分かった。突然、番が現れたのだから無理もない。けれど、リゼットだって同じだった。
ずっと好きだった人が、自分の番だった。
本当なら驚いて、戸惑って、それでも嬉しいと笑い合いたかった。
「……いや、何かの間違いだろ」
その言葉に、リゼットは息を呑んだ。
「ミハイル……」
「だって、お前が?」
「……え?」
「リゼットが、俺の番?」
彼は信じられないものを見るようにリゼットを見つめた。
「……そう、みたいね」
「何で……」
ミハイルは髪をかき上げ、深いため息をついた。
その仕草を見て、リゼットは笑おうとした。大丈夫だよ、と。いつものように、彼を安心させてあげたかった。
けれど、うまく笑えなかった。
本当は、嬉しいと言いたかった。
ずっと好きだった、と。
十二歳の秋に交わした約束を、今でも覚えているのだと。
けれど今、それを口にしたら、もっと悲しい思いをする気がした。
◇
二人はそのまま森を出た。
いつもなら並んで歩く帰り道なのに、その日は少し距離があった。ミハイルが前を歩き、リゼットが後ろをついていく。彼は何度か振り返ったものの、何も言わなかった。
幼い頃、森では必ず手をつないでくれた。
『ほら。転んだら痛いだろ』
そんな声が、ふいに蘇る。
今はもう、差し出される手もない。
侯爵家と子爵家へ戻る道が分かれる場所まで来たところで、ようやくミハイルが立ち止まった。
「リゼット」
「うん」
「少し話せるか」
「……うん」
二人は近くの小さな東屋へ入った。
春の花が咲き、柔らかな風が吹き抜けている。子どもの頃には、ここで何度も休憩した。ミハイルと焼き菓子を分け合ったこともある。
そんな懐かしい場所で、彼は重い口を開いた。
「俺さ、まだ結婚とか考えてないんだ」
「……うん」
「番だっていうのは分かった。でも、それとこれとは別だろ?」
「そうね」
「俺、まだ十八だし。これから王都にも行きたいし、いろんな人にも会いたい」
リゼットは黙って聞いていた。ミハイルが自由でいたいと思っていることは、前から知っている。王都の夜会や、華やかな令嬢たちとの交流を楽しみにしていることも。何度も聞いてきた話だった。
「もっと、いろんな女性とも付き合ってみたいんだ」
それでも、直接そう言われると悲しかった。
「……そう」
「お前が嫌いってわけじゃないんだ」
ミハイルは慌てたように言葉を続けた。
「むしろ大事だよ。昔からずっと一緒だったし」
「……大事?」
「ああ。お前とは何でも話せるし、気を遣わなくていいし」
リゼットは膝の上で両手を重ねた。
気を遣わなくていい。
その言葉に、十六歳の秋を思い出す。ずっと楽しみにしていた収穫祭。ミハイルは別の令嬢たちとの予定を優先し、あっさりと約束を破った。
『お前とはいつでも会えるんだからさ』
あの時も、そう言って笑っていた。
「俺にとって、お前は……」
「幼馴染?」
リゼットが先に言うと、ミハイルは一瞬黙ってから頷いた。
「ああ」
「……そっか」
分かっていたはずなのに、改めて言葉にされるとつらかった。
「リゼット」
「うん。分かったよ」
「いや、ちゃんと聞いてほしいんだ」
ミハイルは真剣な顔で続けた。
「番だからって、そのまま結婚するのは違うと思うんだ」
「……うん」
「俺、自分の人生を勝手に決められたみたいで嫌なんだよ」
「……そう」
「番だって分かった途端、結婚しなきゃいけないなんて、正直息苦しいだろ?」
その気持ちは、理解できなくもなかった。
今の時代、番と出会える獣人はごくわずかだ。番に出会わなくても、自分の意思で愛する人を選び、結婚することが当たり前になっている。だからこそ、番と出会ったからといって、必ず結婚しなければならないわけではない。
誰だって、自分の人生は自分で決めたい。
リゼットだって、番だからという理由だけでミハイルと結婚したいわけではなかった。
ずっと好きだったから。
優しかった彼も、笑った顔も、少し意地っ張りなところも。全部ひっくるめて好きだったから、いつか一緒になれたらと願っていた。
けれど、ミハイルにとっては違うのだろう。
「リゼットは……どう思ってる?」
「私?」
「ああ。番だって分かって……嬉しかった?」
突然の問いかけに、リゼットは息を詰めた。
嬉しかった。
もちろん、嬉しかった。
ミハイルが別の女性を見ているたびに、何度も諦めようとした。けれど、二人きりになると昔のように笑ってくれるから、どうしても好きでいることをやめられなかった。
そんな相手が、自分の番だったのだ。
ほんの一瞬、運命が自分の味方をしてくれたと思った。
「……嬉しかったよ」
嘘はつけなかった。
「私、ミハイルが番で……嬉しかった」
ミハイルの顔が曇った。
その表情を見て、リゼットは慌てて笑おうとした。
「でも、気にしないで」
「気にするだろ」
「大丈夫よ」
「大丈夫じゃないだろ」
「……ミハイルが嫌なら、仕方ないもの」
ミハイルが口を閉ざした。
リゼットは膝の上で握っていた手を、ゆっくりとほどいた。
「私は、番だからってミハイルに結婚してほしいなんて言わないよ」
「……本当に?」
「うん。無理に一緒にいてもらっても、嬉しくないもの」
好きな人に、自分を選ぶよう強要したくはなかった。番だから。本能だから。そんな理由でそばにいてもらっても、きっと望んでいた幸せとは違う。
「だから、安心して」
できるだけ明るく微笑んだ。
するとミハイルは、ほっとしたように息を吐いた。
「……よかった。お前なら分かってくれると思ってた」
「……うん」
「やっぱり、リゼットは話が早くて助かるよ」
そう言って、ミハイルはようやく笑った。
いつもの、見慣れた笑顔だった。
けれどリゼットは、うまく笑い返せなかった。
ああ。
本当に嫌だったんだ。
自分と結ばれるかもしれないことが。
◇
「でもさ」
ミハイルは東屋の柱にもたれ、少し考えるように首を傾げた。
「番って、別に今すぐどうこうしなきゃいけないわけじゃないんだろ?」
「……そうだと思う」
「だったら、今まで通りでいいよな」
リゼットは顔を上げた。
「今まで通り?」
「ああ。俺たちは幼馴染なんだし、何も変わらなくていいだろ」
何も変わらない。
その言葉が、ひどく遠く感じられた。
「……ミハイルは、それでいいの?」
「もちろん。俺はまだ自由でいたいし、お前だって薬草の勉強があるだろ?」
ミハイルは軽く笑った。
「それに、今すぐ何か決めなくたっていいじゃないか。俺たち、まだ若いんだし」
「……そうね」
「そのうち、俺だって落ち着くかもしれないしさ」
リゼットは思わず顔を上げた。
「……そのうち?」
「ああ。何年かしたら結婚を考えるだろうし。今から焦る必要はないってこと」
ミハイルは何でもないことのように言った。
けれど、その言葉はリゼットの心に残った。
今は、まだ結婚したくないだけなのだ。
いつか気持ちが変わるかもしれない。
いつか、自分のことを幼馴染以上に見てくれる日が来るかもしれない。
そう考えると、ほんのわずかに希望が生まれた。
「それじゃ、そろそろ帰るか」
ミハイルが立ち上がる。リゼットも続いて腰を上げた。
「リゼット」
「何?」
「今日のこと、しばらく誰にも言わないでくれるか?」
「……番のこと?」
「ああ。変に騒がれるのも面倒だし、母上に知られたら結婚の話を進められそうだからさ」
ミハイルは困ったように笑った。
「頼むよ。お前なら分かるだろ?」
「……うん。分かった」
その返事を聞いて、彼は満足そうに頷いた。
「ありがとう。助かる」
リゼットは視線を落とした。
自分にとっては、誰かに話したくなるほど嬉しかった出来事。
けれどミハイルにとっては、知られたくない秘密なのだ。
「じゃあ、またな」
「……うん。またね」
ミハイルは片手を上げ、侯爵家へ続く道を歩き出した。
リゼットはその背中を見送った。少し前まで、あんなにも心を満たしてくれた香りが、離れていくにつれて薄れていく。追いかけたい。もう少しだけ、そばにいたい。そんな衝動が湧き上がったけれど、リゼットは動かなかった。
ミハイルは、一度も振り返らなかった。
◇
その日の夜。
リゼットは食事をほとんど喉へ通せなかった。
両親にはまだ何も話していない。食卓で母が何度か心配そうに見ていたけれど、「少し疲れただけ」と笑ってごまかした。ミハイルに、番のことは秘密にしてほしいと頼まれている。だから、誰にも相談できなかった。
部屋へ戻ると、窓辺の椅子に腰を下ろした。
侯爵家の屋敷は、ここから少し離れた場所にある。子どもの頃は何度も互いの家を行き来した。朝から夕方まで一緒にいても飽きなかったし、別れる時にはいつも、また明日と手を振り合った。
ミハイルが風邪をひけば、ヨーゼフに教わった薬草を持っていった。怪我をすれば手当てをした。夜会へ行くと言えば、似合う色を一緒に考えた。
ミハイルの好きなお菓子も、苦手な食べ物も、機嫌が悪い時の癖も知っている。
ずっと見てきた。
ずっと、好きだった。
「……馬鹿だなあ、私」
小さく呟いた。
自分でも驚くほど、声が震えた。
番だと分かった瞬間、思ってしまったのだ。これで、ミハイルが自分を見てくれるかもしれないと。華やかな令嬢たちではなく、ずっと隣にいた自分を。十二歳の秋に交わした約束が、本当になるかもしれないと。
けれど、ミハイルが最初に口にしたのは、
『……嘘だろ』
だった。
「……そんなに、嫌だったのかな」
ぽつりと漏らした言葉に、返事はない。
リゼットは膝を抱え、額を押しつけた。
泣きたかった。
けれど、涙はまだ出てこなかった。
代わりに、東屋で聞いた言葉が何度も頭を巡る。
『お前が嫌いってわけじゃないんだ』
『俺にとって、お前は……』
『お前なら分かってくれると思ってた』
分かっていた。ミハイルが自分を嫌っているわけではないことも、まだ自由でいたいことも。
ただ、彼は今まで通りでいたいのだ。
リゼットは幼馴染で、いつでも会えて、何でも話せる相手。
きっと、そう思っている。
「……私も、そうできたらいいのに」
番だと知らなければ、今まで通りに笑えただろうか。何も期待せず、ただの幼馴染でいられただろうか。
分からなかった。
それでも、ミハイルは自分を嫌いだと言ったわけではない。
まだ自由でいたいだけ。
結婚を考えるには、早すぎると思っているだけ。
それに、彼は言っていた。
『そのうち、俺だって落ち着くかもしれないしさ』
その言葉を思い出すと、どうしても期待してしまう。
いつか、ミハイルが自分を選んでくれるかもしれない。
今までも、ずっと待ってきたのだから。
「……大丈夫」
リゼットは自分に言い聞かせるように呟いた。
「いつか、きっと……」
言い終える前に、声が途切れた。
窓の外では、春の月が輝いている。
あの日、丘の上で交わした約束を、リゼットは今でも覚えていた。ミハイルはもう忘れてしまったのかもしれない。それでも、もう少しだけ信じていたかった。
いつか彼が、振り返ってくれる日を。
リゼットは窓を閉め、寝台へ向かった。
枕に顔を埋めた途端、我慢していた涙が一粒こぼれた。
「……嬉しかったのになあ」
ずっと好きだった人が、自分の番だった。
奇跡みたいな出来事だったのに。
嬉しかったのは、私だけだった。




