第1話 ずっと、あなたを待っていた
リゼットがミハイルを好きになったのは、いつからだったのだろう。
本人にも、もうよく分からない。
物心ついた頃には、彼はいつもそばにいた。同じ領地で育ち、家同士の付き合いも長かった。森へ遊びに行く時も、収穫祭の日も、何か嬉しいことがあった時も。思い出を辿れば、そこにはいつもミハイルがいる。
だから、きっと。
彼を好きになることも、ごく自然なことだったのだと思う。
◇
「リゼット、遅い!」
「ミハイル、待って!」
十歳の頃。ミハイルは森の入り口で振り返り、大きく手を振っていた。黒灰色の髪に琥珀色の瞳。その髪の間から覗く狼の耳が、楽しそうにぴんと立っている。同じ狼獣人でも、リゼットの耳は蜂蜜色の髪になじむ柔らかな色で、彼のものより少し小さかった。
「そんなに走ったら転ぶよ!」
「転ばないって」
「この前も転んだでしょ」
「あれは木の根が悪い」
「木の根のせいにしないの!」
ようやく追いついたリゼットに、ミハイルは当然のように手を差し出した。
「ほら」
「何?」
「ここから足場が悪いから」
「一人で歩けるよ?」
「いいから。転んだら痛いだろ」
そう言って、ミハイルはリゼットの手を握った。少し大きくて、温かい手。森ではいつもこうだった。彼は先に進んでも必ず振り返り、リゼットが遅れると待っていてくれる。転びそうになれば支えてくれるし、疲れたと言えば一緒に木陰で休んでくれた。口では文句を言っても、決して一人で帰ったりはしない。
リゼットは、そんなミハイルが大好きだった。
「ねえ、ミハイル」
「何?」
「今日も一緒に来てくれてありがとう!」
「別に。俺も暇だったし」
そっぽを向いたミハイルの耳が、照れくさそうに揺れた。その横顔を見て、リゼットは嬉しくなった。
◇
森へ行く目的は、たいていリゼットの薬草探しだった。
幼い頃から、リゼットは花や草を見るのが好きだった。同じように見える葉でも、香りや使い道が違う。そんな植物の不思議を教えてくれたのが、領地で薬師をしているヨーゼフだった。六十代半ばの細身の男性で、灰白色の短い髪と淡い茶色の瞳を持つ、穏やかな先生だ。
「リゼット様、こちらの二枚を見比べてください」
ヨーゼフは摘んだ葉を並べて見せた。
「どこが違うと思いますか?」
「うーん……こっちのほうが葉脈が細かい?」
「正解です。あとは香りも違いますよ」
渡された葉を指で軽く擦ると、青臭さの中にほのかな甘い香りがした。
「あ、本当だ!」
「よく似ていますが、片方は薬になり、もう片方は腹痛を起こします。間違えないようにしてくださいね」
「はい!」
リゼットが元気よく頷くと、隣でしゃがんでいたミハイルが大きなあくびをした。
「まだやるの?」
「まだ始めたばっかりだよ」
「俺、もう全部同じ草に見える」
「全然違うじゃない!」
「同じだって」
ミハイルの耳が退屈そうに横へ倒れる。それを見たヨーゼフが笑った。
「ミハイル様は、薬師には向いていなさそうですね」
「俺もそう思う」
「もう、ミハイルったら」
「リゼットが向いてるなら、それでいいだろ」
何気なく言われた言葉だった。けれど、自分の好きなことを認めてもらえた気がして、リゼットは嬉しくなった。
「……うん!」
するとミハイルは、近くに生えていた草を一本摘んだ。
「じゃあ、これは?」
「それはただの雑草」
「なんだよ。せっかく見つけたのに!」
「ふふっ、残念でした!」
薬草には興味がないくせに、ミハイルはいつも付き合ってくれた。リゼットが夢中になっている間、木の枝を拾ったり、小川で石を投げたりして時間を潰している。そして帰る頃になると、決まって彼女の籠を持ってくれた。
「重いだろ。貸せよ」
「大丈夫だよ」
「いいから。俺のほうが力あるし」
「……ありがとう、ミハイル!」
そんな優しさが、当たり前のようにそこにあった。
◇
十二歳の秋。
二人は領地の収穫祭へ出かけた。
広場には色とりどりの屋台が並び、焼き菓子の甘い香りが漂っていた。リゼットはお気に入りの青いリボンを髪に結び、ミハイルと並んで歩いていた。毎年楽しみにしているお祭りだったけれど、今年は少しだけ特別だった。二人だけで出かける約束をしていたからだ。
「あっ、あれ食べたい!」
「また甘いもの?」
「だって、おいしそうなんだもの!」
「さっきも食べただろ」
「さっきのとは違うもん」
ミハイルは呆れながらも、焼き菓子を二つ買ってくれた。
「ほら」
「ありがとう!」
「半分くれよ」
「えっ、自分のがあるでしょ?」
「そっちの味も食べたい」
「もう、しょうがないなあ」
リゼットが焼き菓子を差し出すと、ミハイルは嬉しそうにかじりついた。
夕暮れが近づく頃、二人は広場の外れにある丘へ向かった。そこからは祭りの明かりがよく見え、遠くから楽しげな音楽が聞こえてくる。リゼットは隣に座るミハイルを見上げた。
「ねえ、来年も一緒に来ようね」
「いいよ」
「再来年も?」
「いいって」
「その次も?」
「何回聞くんだよ」
ミハイルは笑って、リゼットの頭をくしゃりと撫でた。
「大きくなっても、一緒に来ればいいだろ」
「……本当?」
「本当」
そして、まるで明日の予定でも話すような気軽さで言った。
「大きくなったら、リゼットをお嫁さんにしてやるし」
「……えっ?」
リゼットは目を丸くした。
「お、お嫁さん?」
「そう。そしたら、ずっと一緒にいられるだろ」
ミハイルは何でもないことのように笑っている。けれど、リゼットの頬はみるみる熱くなった。大好きなミハイルのお嫁さんになる。そんなこと、考えただけで嬉しくてたまらない。
「……約束だよ?」
「分かったって」
「絶対だからね?」
「はいはい。約束」
その時のミハイルは、きっと深く考えていなかったのだろう。子ども同士の、他愛もない約束だったのかもしれない。
けれど、リゼットにとっては宝物のような言葉だった。
いつか大人になったら、ミハイルのお嫁さんになる。
そんな未来を、疑いもせずに信じていた。
◇
年齢を重ねても、リゼットはヨーゼフのもとへ通い続けた。
薬草の見分け方から乾燥のさせ方、簡単な調合まで、教わることは年々増えていった。最初はただ好きだった薬草が、いつしか誰かの役に立つ大切な知識へと変わっていた。ヨーゼフも、そんなリゼットの成長を喜んでくれた。
「リゼット様は、本当に薬草がお好きなのですね」
「はい!」
「ご令嬢がここまで続けられるとは思いませんでした」
「最初はどう思っていたんですか?」
「半年ほどで飽きられるかと」
「ひどいです、先生!」
「失礼しました」
そう言いながら、ヨーゼフは楽しそうに笑った。
「ですが、夢中になれるものがあるのは良いことですよ」
「そうですか?」
「ええ。何が将来につながるかは、後にならないと分からないこともありますから」
ヨーゼフは乾燥させた薬草を束ね、棚へ並べた。
「いつか、リゼット様の知識が多くの方を助ける日が来るかもしれませんね」
「そんな。私なんて、まだまだです」
「焦る必要はありません。学ぶことに終わりはありませんから」
リゼットは笑顔で頷いた。誰かの役に立てるなら、こんなに嬉しいことはない。いつか自分もヨーゼフのような薬師になれたら。そんな夢が、少しずつ育ち始めていた。
◇
十五歳を過ぎる頃には、ミハイルは随分と目立つようになった。
もともと整った顔立ちだったが、背が伸び、肩幅も広くなった。黒灰色の髪に琥珀色の瞳がよく映え、笑うと少年らしい人懐っこさが残る。侯爵家の跡取りという立場もあり、領地の令嬢たちから人気を集めていた。
「また誘われてたね」
ある日、町からの帰り道でリゼットが言った。
「何が?」
「さっきの女の子。今度、一緒にお祭りに行きませんかって」
「ああ、あれか」
「……行くの?」
「たぶん。せっかく誘ってくれたし」
「そっか」
リゼットは前を向いた。心のどこかが、ちくりと痛む。けれど、二人は幼馴染であって恋人ではない。誰と出かけるのかを決めるのは、ミハイル自身だ。
「リゼットは?」
「何が?」
「祭り」
「家族と行くと思う」
「じゃあ、途中で見かけたら声かける」
「……うん!」
その程度の言葉でも、嬉しかった。
昔はいつも一緒だったのに、いつからだろう。ミハイルの隣に、自分以外の女の子がいることが増えたのは。
それから、彼が誰かと出かけるという話を聞く機会は、ますます増えていった。
隣の領地の令嬢。裕福な商家の娘。夜会で知り合った女性。誰もが華やかで、人目を引く人ばかりだった。
リゼットは鏡の前で、自分の姿を眺めたことがある。蜂蜜色の柔らかな髪に、灰青色の瞳。可愛らしいとは言われるけれど、華やかな美人というわけではない。何より、リゼットは夜会で上手に話すことより、薬草の新しい使い方を知るほうが楽しかった。
ミハイルの周りにいる女性たちとは、ずいぶん違う。
「ミハイル様、最近またお綺麗な方と歩いていらっしゃいましたね」
ヨーゼフの店で薬草を刻んでいた時、訪ねてきた常連の女性が何気なく言った。
「そうなんですか」
「ええ。赤いドレスの、とても華やかな方でしたよ」
「……そうなんですね」
リゼットは手元へ視線を落とした。これ以上、聞きたくなかった。刻んでいた薬草に意識を戻そうとするけれど、どうしても先ほどの言葉が頭から離れない。
「リゼット様」
「はい?」
「少し細かすぎますね」
「え?」
「薬草です」
見ると、必要以上に刻みすぎていた。
「あっ……すみません!」
「大丈夫ですよ。こちらをお願いします」
ヨーゼフは何も聞かず、新しい薬草を手元へ置いてくれた。その気遣いがありがたくて、リゼットは小さく頭を下げた。
◇
十六歳の秋。
リゼットは久しぶりに、ミハイルと二人で収穫祭へ行く約束をしていた。
何日も前から楽しみにしていた。お気に入りの青いリボンを用意し、今年こそ昔のように二人で丘へ登れたらいいなと思っていた。十二歳の秋に交わした約束を、ミハイルは覚えているだろうか。そんなことを考えるだけで、自然と笑顔になった。
けれど、祭りの前日。
「悪い。明日は行けなくなった」
ミハイルは、あっさりと告げた。
「……え?」
「隣の領地から来てる令嬢たちに誘われてさ。みんなで祭りを回ることになったんだ」
「でも、先に約束してたよね?」
「そうだけど、あっちは滅多に会えないし」
「……そっか」
リゼットは手にしていたリボンを握りしめた。
「楽しみにしてたんだけどな」
「そんな顔するなよ。別に来年もあるだろ」
「……来年?」
「お前とはいつでも会えるんだからさ」
ミハイルは悪びれもせず笑った。
「じゃあ、また今度な」
そう言って、彼は去っていった。
リゼットはしばらく、その背中を見送っていた。昔は、どんなに退屈でも薬草探しに付き合ってくれた。自分が転びそうになれば、真っ先に手を差し出してくれた。けれど今のミハイルは、先にした約束より、ほかの女性たちとの時間を選んだ。
「……来年、か」
リゼットは手の中のリボンを見つめた。
来年もある。いつでも会える。
ミハイルにとって、自分はそういう存在なのだろう。
約束を破られたことも悲しかった。けれど、それ以上に、自分との約束を何でもないことのように扱われたのがつらかった。
その夜、リゼットは青いリボンを引き出しの奥へしまった。
それでも、ミハイルを嫌いにはなれなかった。
◇
十七歳の夏。
二人で川沿いを歩いていた時、ミハイルが笑いながら言った。
「俺、まだ結婚とか全然考えてない」
「急にどうしたの?」
「母上がうるさいんだよ。そろそろ将来を考えろって」
「侯爵家の跡取りだもの」
「分かってるけどさ」
ミハイルは両手を頭の後ろで組んだ。
「まだ遊びたいし」
「遊びたいって?」
「いろんな人と会いたいってこと。せっかくなら、綺麗な女性ともたくさん付き合いたいだろ」
「……そう」
「若いうちくらい自由でいたいんだよ」
リゼットは笑顔を作った。
「ミハイルらしいね」
「だろ?」
彼は満足そうに笑っている。
リゼットは川面へ目を向けた。陽の光を受けた水が、きらきらと輝いている。十二歳の秋、あの丘の上でミハイルが言ってくれた言葉は、今でもはっきり覚えていた。
『大きくなったら、リゼットをお嫁さんにしてやる』
覚えているのは、きっと自分だけなのだろう。
「……ねえ、ミハイル」
「ん?」
「昔、私に言ってくれたこと、覚えてる?」
「昔?」
「うん。収穫祭の時に……」
そこまで言って、リゼットは口を閉じた。
「何だよ?」
「……ううん。何でもない」
「変なやつ」
ミハイルは笑って、先に歩き出した。
リゼットもその後を追った。聞くのが怖かった。もし覚えていなかったら。もし、ただの子どもの冗談だったと言われたら。ずっと大切にしてきた思い出まで、色褪せてしまいそうだったから。
◇
それでも、好きだった。
諦められなかった。
ミハイルがほかの女性と出かけても、しばらくすると、またいつものようにリゼットのところへやって来る。
「腹減った」
「もう、うちに何しに来たの?」
「何かない?」
「ここ、食堂じゃないよ?」
「菓子くらいあるだろ」
「もう。しょうがないなあ」
そう言いながら、リゼットは焼き菓子を出す。
「ん。これ、うまいな」
「昨日焼いたの」
「リゼットが?」
「うん!」
「じゃあ、また作って」
「自分で作れば?」
「無理」
「薬草より簡単だよ」
「俺には両方無理だ」
ミハイルが笑うと、リゼットもつられて笑った。
こうして二人きりでいる時には、昔と変わらない彼がいた。気取らず、遠慮もせず、当たり前のようにリゼットの家を訪ねてくる。そんなミハイルと過ごす時間が、やっぱり好きだった。
だから、期待してしまう。
今はほかの女性と出かけていても、いつか自分だけを見てくれるのではないか。
大人になれば、あの約束を思い出してくれるのではないか。
そんなふうに。
リゼットはずっと、待っていた。
◇
十八歳になった春。
それは、突然の出来事だった。
久しぶりにミハイルと森へ出かけた帰り道、リゼットはふいに足を止めた。
「……ミハイル」
「何?」
「何か……不思議な匂いがしない?」
花でもない。木でも、薬草でもない。それなのに、ひどく懐かしい香りがした。初めて嗅ぐはずなのに、ずっと前から知っていたような気がする。胸いっぱいに吸い込むと、全身が満たされるような安心感が広がった。
もっと近づきたい。
そばにいたい。
自分でも説明できないほど強い衝動に、リゼットは戸惑った。
――まさか。
狼獣人に生まれた者なら、幼い頃から聞かされている。
生涯に一度、出会えるかどうかも分からない特別な相手。
その人と出会えば、ほかの誰とも違う香りを感じ、本能が強く惹きつけられるという。
かつては今より多くの獣人が出会えたというけれど、今では奇跡に近い存在。
――番。
「……嘘」
リゼットは目を見開いた。
目の前にいるのは、ミハイル。
幼い頃から、ずっと好きだった人。
そして、ミハイルも足を止めていた。黒灰色の耳がぴくりと動き、琥珀色の瞳が驚きに見開かれる。
「……何だ、この匂い」
その言葉に、リゼットは息を呑んだ。
やっぱり。
ミハイルも感じている。
自分だけではない。
「ミハイル……」
「リゼット……」
二人の声が重なった。
リゼットの胸に、抑えきれない喜びが込み上げてきた。
こんなことがあるなんて。
ずっと好きだった人が、自分の番だった。
幼い頃、手をつないで歩いた森。二人で食べた焼き菓子。収穫祭の丘で交わした約束。大切にしてきた思い出が、次々と蘇ってくる。
番だからといって、必ず結婚するわけではない。
そんなことは、リゼットも知っている。
けれど、相手はミハイルなのだ。
幼い頃から好きで、何年も待ち続けてきた人。
もしかしたら、今まで待っていたことが報われるのかもしれない。
ミハイルも、あの頃のように自分を見てくれるかもしれない。
もう一度、手を差し出してくれるかもしれない。
嬉しくて、リゼットは笑顔になった。
「ミハイル、私たち……!」
けれど、その言葉は最後まで続かなかった。
目の前のミハイルが、一歩後ずさったからだ。
リゼットは思わず口を閉じた。伸ばしかけた手が、行き場を失う。
琥珀色の瞳には、喜びも、懐かしさもなかった。
そこに浮かんでいたのは、信じられないものを見るような戸惑いだった。
「……嘘だろ」
絞り出すような声。
その瞬間、リゼットの笑顔がゆっくりと消えた。
面白かったと思っていただけましたら、ブックマーク&★★★★★で応援していただけると励みになります!




