第10話 また、明日も会えたら
王宮での仕事にも慣れ始めた、ある日の午後。
「リゼット、薬草園へ行ってこい」
モーリッツに声をかけられ、リゼットは顔を上げた。
「薬草園ですか?」
「ああ。今朝届いた報告だと、白露草の葉に変色が出ているらしい。状態を確認してこい」
「分かりました!」
「原因が分からなければ、勝手に処置するなよ」
「はい!」
リゼットは必要な道具を鞄に詰め、帳面を抱えて立ち上がった。
王宮の薬草園は、敷地の東側にある。これまで何度か足を運んだことはあったが、いつも先輩薬師と一緒だった。一人で確認を任されるのは初めてだ。
嬉しくなって、思わず足取りが軽くなる。
「……あ、いけない」
廊下の途中で立ち止まった。
白露草の栽培記録も確認しておいた方がいい。葉の変色には、土の状態や水の量、害虫など、さまざまな原因が考えられる。
リゼットは薬草庫へ引き返し、記録を確認してから薬草園へ向かった。
◇
王宮の薬草園には、春の柔らかな日差しが降り注いでいた。
低い柵で区切られた畑には、さまざまな薬草が植えられている。奥には温室もあり、故郷では育てられない珍しい植物も栽培されていた。管理も行き届いていて、訪れるたびに新しい発見がある。
「……やっぱり、ここは素敵ね」
リゼットは小さく呟いた。
ヨーゼフが見たら、きっと何時間でも眺めているだろう。そんなことを考えながら、白露草の畑へ向かった。
問題の葉は、すぐに見つかった。
「……あら?」
何枚かの葉の縁が、茶色く変色している。けれど、虫に食われたような跡はなく、茎にも目立った異常はなかった。
リゼットは手袋をはめ、葉の状態を確かめた。
「病気……ではなさそうだけど」
続いて、株の周囲の土を調べる。
表面は乾いているのに、少し掘ると湿り気が強かった。栽培記録には、ここ数日、水やりの量を増やしたと書かれている。
「もしかして、水が多すぎるのかしら……」
白露草は湿った土を好むが、根元に水がたまり続けると弱ってしまうことがある。
ただし、それだけが原因とは限らない。リゼットは隣の株も調べ、気づいたことを帳面に書き込んだ。
すると、畑の奥にある数株にも、同じような変色が見つかった。
「……こっちにも?」
リゼットは眉を寄せた。
奥の株は、手前のものより葉の傷みが進んでいる。もし病気が原因なら、ほかの区画にも影響が出るかもしれない。
念のため、周囲の株も一つずつ確認することにした。
その時だった。
「……リゼット?」
背後から、聞き覚えのある声がした。
振り返った先にいたのは、フェリクスだった。
「あっ、フェリクス様!」
「こんなところで何をしている?」
「薬草の確認です。葉が変色していると報告があったので」
「そうか」
フェリクスは畑へ視線を向けた。
「原因は分かったのか?」
「まだ確かではありませんが、水の量が多すぎるのかもしれません」
「水が?」
「はい。白露草は湿った土が好きなんですけど、根がずっと水に浸かっていると弱ってしまうんです」
リゼットは葉の縁を指さした。
「ほら、ここ。茶色くなっているでしょう?」
「……ああ」
「土の中も思ったより湿っていて。栽培記録と照らし合わせているところなんです」
フェリクスは葉と土を見比べた。
「なるほど。なら、水を減らせばいいのか?」
「それが、まだ分からないんです」
「……そうなのか」
「ほかの原因も考えられますし、今は状態をきちんと調べるのが先です。薬師長からも、勝手に処置しないように言われていますから」
リゼットは帳面を開き、調べた内容を見せた。
そこには、葉の変色が見られた株の位置や、土の湿り具合が細かく記されていた。
「ずいぶん丁寧に調べるんだな」
「えへへ。まだ勉強中なので、分からないことを一つずつ確かめているんです」
リゼットは楽しそうに笑った。
「薬草って、同じ種類でも育つ場所や季節で状態が変わるんですよ。だから、毎回新しい発見があって……」
そこまで話して、はっとした。
「あっ、ごめんなさい! 私ばかり話してしまって」
「構わない」
「でも、お忙しいでしょう?」
「少しくらいなら時間はある」
「そうなんですか?」
フェリクスは短く頷いた。
実際には、王太子へ届ける書類を持って執務棟へ戻る途中だった。急ぎの報告ではないが、いつまでもここにいるわけにはいかない。
それでも、彼女の話を途中で切り上げる気にはなれなかった。
「続けてくれ」
「え?」
「薬草の話だ」
「……聞きたいんですか?」
「ああ」
リゼットは目を丸くした。
薬草の話を自分から聞きたがる人は、そう多くない。
ミハイルも昔は付き合ってくれたけれど、大きくなってからは、途中で退屈そうにすることが増えていた。
だから、少し意外だった。
「……じゃあ、もう少しだけ」
リゼットは嬉しそうに頷いた。
「白露草は、主に炎症を和らげる薬に使うんです」
リゼットは畑の端にしゃがみ込んだ。
「ただ、育て方だけじゃなくて、収穫したあとの扱いにも気をつけないといけなくて……」
「手間がかかるんだな」
「そうなんです。でも、その分、きちんと育った時は嬉しいんですよ」
リゼットは顔を上げて笑った。
フェリクスは相槌を打ちながら、その話を聞いていた。
薬草の知識はほとんどない。正直、名前を聞いても分からないものばかりだった。けれど、リゼットは難しい話になると、そのたびに分かりやすく説明してくれる。
何より、彼女自身が楽しそうだった。
「あっ、あちらの株も確認しておかないと」
リゼットが立ち上がろうとした時、足元の土が崩れた。
「きゃっ!」
身体がぐらりと傾く。
転ぶ、と思った瞬間。
伸びてきた手が、リゼットの腕を支えた。
「危ない」
低い声が、すぐ近くで響いた。
気づけば、フェリクスがそばに立っていた。
「あ……ありがとうございます」
「足元を見ろ」
「すみません。夢中になってしまって……」
リゼットが姿勢を整えると、フェリクスは手を離した。
「怪我は?」
「大丈夫です!」
「そうか」
リゼットはほっと息を吐いた。
「助かりました。危うく薬草を踏んでしまうところでした」
「……そっちか」
「え?」
「君自身も転びそうになっていただろう」
「あっ、そうですね」
リゼットが笑うと、フェリクスは呆れたように息を吐いた。
「もう少し自分の心配をしろ」
「はい。気をつけます!」
素直に頷く彼女を見て、フェリクスはそれ以上何も言わなかった。
ただ、支えた瞬間の華奢な腕の感触が、妙に印象に残っていた。
◇
「……あら?」
別の株を確認していたリゼットが、突然声を上げた。
フェリクスが顔を向ける。
「どうした?」
「こちらの株は、葉が傷んでいません」
「そうなのか?」
「はい。同じ畑なのに……どうしてかしら」
リゼットはしゃがみ込み、周囲の土を調べた。
こちらの土は、先ほどの場所ほど湿っていない。
「……あっ!」
何かに気づき、顔を上げた。
「どうした?」
「フェリクス様、ちょっと見ていただけますか?」
「どこだ?」
「この畑、奥の方が少し低くなっているんです」
リゼットは立ち上がり、畑の端を指さした。
「水が低い方へ集まっているのかもしれません。変色がひどい株も、奥の方に多いんです」
「……なるほど」
フェリクスは畑を見渡した。
言われてみれば、確かに奥へ向かってわずかに傾斜がついている。
「よく気づいたな」
「えへへ。まだ推測ですけど、調べる場所が分かってきました!」
リゼットは嬉しそうに帳面へ書き込んだ。
フェリクスは、その横顔を見つめた。
つい先ほどまで、彼女は原因が分からず困っていた。それなのに今は、謎を解くことを楽しんでいるようにも見える。
彼女にとって、薬師の仕事は本当に好きなものなのだろう。
「……リゼット」
「はい?」
「君は、薬師の仕事が好きなんだな」
「はい! 大好きです!」
迷いのない返事だった。
「まだまだ知らないことばかりですけど、もっと勉強して、いつかヨーゼフ先生みたいな薬師になりたいんです」
リゼットは少し照れくさそうに笑った。
「……夢だけは、大きいんですけどね」
「いい夢だと思う」
「えっ?」
「君なら、きっとなれる」
「……フェリクス様」
リゼットはしばらく彼を見つめた。
それから、花が咲いたように笑った。
「ありがとうございます!」
フェリクスは、わずかに口元を緩めた。
何気なく口にした言葉だった。けれど、彼女がこれほど喜ぶとは思わなかった。
その笑顔を見ていると、もう少し何か言ってやりたくなる。
だが、次の言葉は浮かばなかった。
◇
薬草園の確認を終えたリゼットは、帳面を閉じた。
「これで終わりです!」
「原因は分かったのか?」
「水分が多すぎる可能性が高そうです。でも、土の状態や栽培方法も確認してから、薬師長に相談します」
「そうか」
リゼットは丁寧に頭を下げた。
「今日はありがとうございました」
「俺は何もしていない」
「転びそうになった時、支えてくださったじゃないですか」
「……ああ」
「それに、お話も聞いてくださいましたし」
リゼットは柔らかく微笑んだ。
「とても楽しかったです」
フェリクスは一瞬、返事を忘れた。
「……俺もだ」
「本当ですか?」
「ああ」
「ふふっ。嬉しいです!」
リゼットの狼耳が、嬉しそうに揺れた。
フェリクスはその様子を眺め、ふと思い出したように口を開いた。
「……そういえば、温室があると言っていたな」
「はい! あちらです」
リゼットは薬草園の奥を指さした。
「珍しい薬草がたくさんあるんですよ。フェリクス様も、ご覧になりますか?」
「……そうだな」
フェリクスは一度、手元の書類へ目を落とした。
これ以上、仕事を後回しにはできない。
「今日は戻らなければならないが、また機会があれば案内してくれ」
「もちろんです!」
リゼットは嬉しそうに頷いた。
「では、今度お時間がある時にご案内しますね!」
「ああ。楽しみにしている」
言ってから、フェリクスは自分の言葉に少し驚いた。
薬草の知識など、昨日まではほとんど関心がなかったはずだ。
それなのに、彼女と温室を歩く光景を思い浮かべると、不思議と悪い気はしなかった。
「では、薬師室へ戻りますね」
「ああ。気をつけて戻れ」
「はい!」
リゼットは手を振り、薬師室へ向かって歩き出した。
フェリクスはしばらく、その背中を見送っていた。
◇
「戻りました!」
薬師室へ戻ると、モーリッツが机に向かっていた。
「ああ。どうだった?」
「葉の変色は、水分過多の可能性があります。栽培記録と土の状態を確認したところ……」
リゼットは帳面を開き、調べた内容を順番に報告した。
土の湿り具合と変色の程度に関係がありそうなこと。畑の奥へ水が集まっている可能性があること。そして、周囲の株には目立った異常が見られなかったこと。
モーリッツは途中で口を挟まず、最後まで耳を傾けた。
「……なるほど」
帳面に目を通し、短く頷く。
「悪くない。よく調べたな」
「ありがとうございます!」
「明日、栽培担当にも排水の状態を確認させる。それまでは、問題の区画の収穫を止めておけ」
「はい!」
「それと、変色した葉は念のため別に記録しておけ。病気の可能性が消えたわけではないからな」
「分かりました!」
リゼットは新しい指示を帳面に書き加えた。
まだ原因を突き止めたわけではない。それでも、自分で見つけたことが次の調査につながったのは嬉しかった。
「……リゼット」
モーリッツが再び声をかけた。
「はい?」
「今日みたいに、分からないことを分からないまま報告できるのは大事なことだ」
「……えっ?」
「薬師に必要なのは、知ったかぶりではない。確かめることだ。覚えておけ」
「……はい!」
リゼットは大きく頷いた。
胸を張ってヨーゼフに報告できる日が、ほんの少しだけ近づいた気がした。
◇
一方、その頃。
フェリクスは王太子の執務室へ戻り、持っていた書類を机に置いた。
ハーラルトは別の用事で席を外している。
静かな室内で、フェリクスは残っていた報告書の確認を始めた。いつも通りの仕事だ。内容を読み、必要な箇所に印をつけ、次の書類へ手を伸ばす。
だが、ふとした拍子に、午後の出来事が頭をよぎった。
『はい! 大好きです!』
薬師の仕事について尋ねた時、リゼットは迷わずそう答えた。
あれほど楽しそうに、自分の好きなものを語る人間を、最近はあまり見ていなかった気がする。
フェリクスは書類を置いた。
薬草の知識が増えたわけではない。
白露草の名前も、明日になれば忘れているかもしれない。
それでも、彼女が何を好きで、どんな夢を持っているのか。
そういうことは、もう少し知ってみたいと思った。
「……温室、か」
何気なく呟く。
また案内してくれると言っていた。
彼女なら、きっと今日と同じように、楽しそうに説明してくれるのだろう。
フェリクスは小さく笑った。
自分から誰かとの約束を楽しみにするなど、珍しいことだった。
どうしてそこまで気になるのか。
その理由を、今はまだ深く考えなかった。
ただ、彼女と過ごす時間は心地よい。
それだけは、確かだった。
◇
その夜。
リゼットは宿舎の部屋で、薬草園の記録を整理していた。
白露草の葉の変色について、明日もう一度確認したいことがある。帳面に書き足していると、ふと昼間の出来事を思い出した。
『君なら、きっとなれる』
フェリクスは、そう言ってくれた。
薬草の話を最後まで聞いてくれただけでなく、自分の夢まで応援してくれた。
「……優しい人だなあ」
リゼットは小さく笑った。
最初に出会った時は、無愛想で少し怖そうだと思った。けれど、話してみると意外と親切で、こちらの話にもきちんと耳を傾けてくれる。
今日も、薬草園での仕事が終わるまで付き合ってくれた。
リゼットは帳面を閉じ、窓の外を見た。
春の夜風が、カーテンを揺らしている。
王都へ来てから、毎日が忙しい。覚えることも多く、仕事が終わる頃には疲れ切っている日もある。
それでも、充実していた。
そして最近は、あの無愛想な黒豹の青年と話す時間も、少しずつ楽しみになっている。
「……明日も会えるかな」
そう呟いてから、リゼットは目を瞬いた。
誰かに会えることを楽しみにするなんて、久しぶりだった。
けれど、その気持ちは不思議と軽やかだった。
会えなくても、きっと明日は楽しい一日になる。
でも、もし会えたなら。
また少し、お話しできたら嬉しい。
「……ふふっ」
リゼットは小さく笑い、明日の準備を始めた。




