第11話 君が誰かと笑うだけで
王宮の薬草園でフェリクスと話した翌日。
リゼットは朝から、調合室で薬草を選別していた。
昨日確認した白露草の変色は、やはり土の水分が多すぎたことが原因らしい。栽培担当者と相談し、水やりの量を調整することになった。自分の見立てが合っていたことも嬉しいけれど、何より薬草が元気を取り戻してくれそうで安心した。
「リゼット、こっちを頼む」
「はい!」
モーリッツに呼ばれ、リゼットは作業台へ向かった。
今日任されたのは、王宮の使用人たちに処方する胃薬の調合だった。材料はよく知っているものばかりだが、一度に作る量が多い。分量を間違えないよう、帳面と照らし合わせながら慎重に手を動かした。
「……よしっ」
最後の薬草を量り終えたところで、隣から声がした。
「リゼット、手際がよくなったな」
顔を上げると、デリックが笑っていた。
「本当ですか?」
「ああ。最初の頃は、ずいぶん緊張してただろ」
「それはもう……毎日、薬師長に叱られていましたし」
「今も叱られてるけどな」
「デリック先輩!」
リゼットが頬を膨らませると、デリックは楽しそうに笑った。
「冗談だよ。でも、覚えるのは早いと思うぞ」
「ありがとうございます!」
リゼットの狼耳が嬉しそうに立つ。
デリックはそんな彼女を見て、満足そうに頷いた。
「そうだ。今度の休み、王都の薬草市に行かないか?」
「薬草市ですか?」
「ああ。月に一度、各地の薬草商人が集まるんだ。珍しいものもたくさんあるぞ」
リゼットの表情がぱっと明るくなった。
「行きたいです!」
「よし。じゃあ、案内してやるよ」
「いいんですか?」
「もちろん。俺も買いたいものがあるしな。ニーナも誘ってみるか」
「はい! 楽しみです!」
リゼットは嬉しくなって、両手を合わせた。
その時だった。
「……楽しそうだな」
背後から、低い声が聞こえた。
◇
振り返ると、調合室の入り口にフェリクスが立っていた。
「あっ、フェリクス様!」
リゼットは笑顔で駆け寄った。
「こんにちは!」
「ああ」
フェリクスは短く答えた。
その視線が、リゼットの後ろにいるデリックへ向けられる。
「何の話をしていた?」
「薬草市のお話です!」
「薬草市?」
「はい。今度のお休みに、デリック先輩が案内してくださるんです」
フェリクスは一瞬黙った。
「……そうか」
声はいつもと変わらない。
けれど、黒い獣耳がわずかに横へ向いた。
「フェリクス様も、薬草市に興味がおありですか?」
「……少しは」
「本当ですか!」
「ああ」
リゼットの表情がさらに明るくなる。
「今度の休みか?」
「はい!」
「……二人で?」
「ニーナも誘う予定です。でも、まだお返事は聞いていなくて」
フェリクスの視線が、再びデリックへ向いた。
「お疲れさまです、フェリクス様」
デリックが丁寧に頭を下げる。
「ああ」
フェリクスは短く答えた。
デリックは何かを察したように、二人を見比べた。
「そういえば、フェリクス様も薬草園にいらしたそうですね」
「……ああ」
「リゼットから聞きました。薬草の話に付き合ってくださったとか」
「少し話しただけだ」
「こいつ、薬草のことになると止まらないでしょう?」
「デリック先輩!」
リゼットが慌てて振り返る。
「そんなに話してませんよね、フェリクス様?」
「……いや、かなり話していた」
「フェリクス様まで!」
デリックが笑い出した。
リゼットは頬を膨らませたものの、すぐにつられて笑ってしまう。
フェリクスは、そんな二人を黙って見ていた。
デリックは気安くリゼットをからかい、彼女も遠慮なく言い返している。
王宮へ来てまだ日が浅いはずなのに、ずいぶん親しそうだった。
「……フェリクス様?」
リゼットが首を傾げる。
「何かご用でしたか?」
「モーリッツに確認したいことがある」
「薬師長なら奥ですよ」
「分かった」
フェリクスはそれだけ言って、奥へ向かった。
その背中を見送りながら、リゼットは小さく呟いた。
「……今日は、いつもより無愛想ですね」
デリックは彼女を見て、苦笑した。
「リゼット、お前って案外鈍いんだな」
「えっ、何がですか?」
「いや、何でもない」
デリックは肩をすくめた。
「ほら、薬の調合を終わらせようぜ」
「はい!」
リゼットは元気よく返事をした。
◇
昼休み。
リゼットが中庭のベンチで昼食を取っていると、アマーリエがやってきた。
「あら、リゼット。ここにいたのね」
「アマーリエ様!」
リゼットは慌てて立ち上がった。
「ふふ。座っていていいのよ。お昼休みでしょう?」
「はい。でも、アマーリエ様は……」
「私も少し休憩したくなったの。隣、いいかしら?」
「もちろんです!」
アマーリエは嬉しそうに微笑み、リゼットの隣へ腰を下ろした。
春の日差しが降り注ぐ中庭には、色とりどりの花が咲いている。穏やかな風が吹き、木々の葉がさらさらと揺れていた。
「王宮のお仕事には、もう慣れた?」
「はい! まだ失敗も多いですけど、毎日楽しいです」
「それはよかったわ。モーリッツは厳しいでしょう?」
「はい。でも、ちゃんと教えてくださるので、ありがたいです」
「ふふ。あの人のことを、そんなふうに言う子は珍しいわね」
アマーリエは楽しそうに笑った。
「そういえば、フェリクス様とも仲良くしているそうね」
「仲良く……でしょうか? よくお会いしますけど」
「あら、そうなの?」
「はい。昨日も薬草園でお会いして、私の話を聞いてくださいました」
リゼットは嬉しそうに話した。
「薬草のお話って、興味のない方には退屈だと思うんです。でも、フェリクス様は最後まで聞いてくださって」
「へえ……」
アマーリエは目を細めた。
「それは珍しいわね」
「そうなんですか?」
「ええ。フェリクス様は、必要のない会話をあまりなさらない方だから」
「……そうなんですね」
リゼットは少し考えた。
「でも、優しい方ですよね」
「そう思う?」
「はい。感染騒動の時もいろいろと助けてくださいましたし、重い荷物も運んでくださいました。それに、昨日は私が転びそうになった時も支えてくださって」
「……まあ」
アマーリエは思わず口元を押さえた。
「そんなことまで?」
「はい!」
「ふふっ……」
なぜか楽しそうに笑っている。
「アマーリエ様?」
「いいえ。何でもないわ」
アマーリエは穏やかに微笑んだ。
「ただ、フェリクス様がそこまで親切になさるのは珍しいことよ」
「そうなんですか?」
「ええ」
リゼットは少し驚いた。
けれど、すぐに納得したように頷く。
「きっと、私がまだ見習いだからですね」
「……え?」
「危なっかしく見えるんだと思います。薬師長にも、よく注意されますし」
アマーリエは一瞬黙った。
それから、くすくすと笑い始めた。
「……そうね。そういうことにしておきましょうか」
「?」
リゼットは首を傾げた。
アマーリエはそんな彼女を見て、優しく目を細めた。
「ところで、お休みの日は何をしているの?」
「あっ、今度のお休みに薬草市へ行くことになったんです!」
「薬草市?」
「はい。デリック先輩が案内してくださるそうで。ニーナも誘う予定なんです」
「あら、楽しそうね」
「はい! すごく楽しみなんです!」
リゼットの耳が嬉しそうに立った。
アマーリエは微笑みながら、その様子を見つめた。
「王都での暮らしを楽しめているようで、安心したわ」
「はい。皆さん、とても親切にしてくださいますから」
リゼットは柔らかく笑った。
「私、王都へ来てよかったです」
その言葉には、迷いがなかった。
アマーリエも嬉しそうに頷いた。
「そう。これからも、困ったことがあれば何でも話してね」
「ありがとうございます、アマーリエ様!」
リゼットは心から感謝した。
王宮で、こんなふうに気軽に話せる相手ができるとは思っていなかった。
◇
一方、薬師長の執務室では。
「……何だ、その顔は」
モーリッツが書類から顔を上げた。
「別に」
「用件は?」
「殿下が使う薬の補充について確認に来た」
「それなら昨日済ませただろう」
「追加の確認だ」
「……ふうん」
モーリッツはフェリクスを見つめた。
「最近、よく来るな」
「必要があるからだ」
「今日は追加の確認ねえ」
「何か問題でも?」
「いや。仕事熱心で結構なことだ」
口ではそう言いながら、モーリッツの目は笑っていた。
フェリクスは眉を寄せる。
「……何だ」
「別に」
モーリッツは先ほどのフェリクスと同じ言葉を返した。
「お前が薬師室に来る回数が増えたのは、事実だろう?」
「……」
「それで? 何が気になる」
「薬のことだ」
「そうかよ」
モーリッツは机の上の書類を指さした。
「補充予定はここだ。見たら帰れ」
「分かった」
フェリクスは書類に目を通した。
けれど、頭の片隅には先ほどの会話が残っていた。
『今度のお休みに、デリック先輩が案内してくださるんです』
リゼットは嬉しそうだった。
薬草が好きなのだから、当然だろう。
それなのに、なぜか面白くない。
彼女が笑っていること自体は、嬉しいはずなのに。
その笑顔を自分以外の男に向けていると思うと、どうにも落ち着かなかった。
「……確認は済んだ」
「ああ。今度こそ用は終わりか?」
「そうだ」
モーリッツは呆れたように手を振った。
「なら、さっさと戻れ」
◇
昼過ぎ。
リゼットは薬草庫で帳面を整理していた。
棚の奥にある薬草を取り出そうとして、少し背伸びをする。
「……あとちょっと」
指先が箱に触れた。
けれど、うまく引き寄せられない。
脚立を取りに行こうとした時、横から長い腕が伸びた。
「これか」
「わっ!」
振り返ると、フェリクスが立っていた。
「フェリクス様!」
「何をしている」
「上の棚の薬草を取ろうとしていたんです」
「そうか」
フェリクスは箱を取り、リゼットへ渡した。
「ありがとうございます!」
「ああ」
リゼットは嬉しそうに箱を受け取った。
「フェリクス様、今日は何度もお会いしますね」
「……そうだな」
「お仕事、大丈夫ですか?」
「問題ない」
フェリクスは棚のそばに立ったまま、リゼットが中身を確認するのを眺めていた。
しばらくして、口を開く。
「リゼット」
「はい?」
「薬草市へは、よく行くのか?」
「いえ、初めてです!」
リゼットの表情が明るくなった。
「王都には珍しい薬草がたくさん集まるそうですね。すごく楽しみなんです」
「……そうか」
「フェリクス様も、今度お時間があれば行ってみませんか?」
フェリクスは目を瞬いた。
「……俺が?」
「はい! この前、薬草園のお話も聞いてくださいましたし。きっと面白いと思いますよ」
リゼットは何のためらいもなく笑った。
フェリクスは少し考えた。
「……今度の休みは?」
「え?」
「俺も行けるかもしれない」
リゼットはぱっと顔を輝かせた。
「本当ですか!」
「ああ」
「じゃあ、デリック先輩にも聞いてみますね!」
「……」
フェリクスは黙った。
「……何人で行くつもりなんだ?」
「デリック先輩とニーナと私です。フェリクス様もいらしたら、四人ですね!」
にこにこと答えるリゼット。
フェリクスはしばらく彼女を見つめていた。
「……そうだな」
返事はした。
けれど、どうにも釈然としない。
リゼットが薬草市へ行くことは、何も問題ではない。
むしろ、好きなものを見て楽しんでほしいと思っている。
ただ、その隣に立つのが自分ではないことが、気に入らなかった。
「フェリクス様?」
「……何だ」
「やっぱり、お忙しいですか?」
「いや。予定を確認しておく」
「はい! ご一緒できたら嬉しいです」
リゼットが笑う。
その笑顔を見た途端、フェリクスは先ほどまでの不機嫌さが少し薄れるのを感じた。
……まったく、調子が狂う。
◇
その日の夕方。
王太子の執務室では、ハーラルトが書類を確認していた。
少し離れた席では、アマーリエがお茶を飲んでいる。
「フェリクス」
「何だ」
「今日はずいぶん機嫌が悪そうだな」
「そうか?」
「ああ。何かあった?」
フェリクスは少し考えた。
「……別に、大したことじゃない」
「そういう時ほど、何かあるんだよ」
ハーラルトは楽しそうに笑った。
「言ってみろ」
「……リゼットが、薬草市へ行くらしい」
「へえ」
「同じ薬師室の男と」
「……ほう」
ハーラルトの手が止まった。
隣でお茶を飲んでいたアマーリエも、顔を上げる。
「あら、リゼットが?」
「ああ」
「そういえば、お昼に薬草市を楽しみにしていると話していたわ」
「……君も聞いたのか」
フェリクスがアマーリエを見る。
「ええ。デリックという先輩と、ニーナという同僚も一緒なのでしょう?」
「……ああ」
ハーラルトは楽しそうに頬杖をついた。
「それで? フェリクスは面白くないんだな?」
「……別に」
フェリクスは短く答えた。
けれど、その返事にハーラルトは笑みを深めた。
「別に、という顔じゃないけどね」
「……何が言いたい」
「彼女がほかの男性と出かけるのが、気になるんだろう?」
フェリクスは黙った。
確かに、気になる。
リゼットが楽しそうなのは嬉しい。
けれど、彼女がデリックに向けていた笑顔を思い出すと、どうにも面白くなかった。
「……そうだな」
フェリクスは静かに答えた。
「気になるのは確かだ」
「おや、素直だね」
ハーラルトが目を丸くする。
アマーリエは口元を押さえて微笑んだ。
「フェリクス様。リゼットは、とても素敵な子でしょう?」
「……ああ」
その返事に、二人は顔を見合わせた。
「それで、どうするつもり?」
ハーラルトが尋ねる。
「何を?」
「薬草市のことだよ」
「……俺も誘われた」
「へえ!」
「ただ、彼女は四人で行くつもりらしい」
「なるほど」
ハーラルトは笑いをこらえるように口元を押さえた。
「それは……何とも、リゼット嬢らしいね」
「何がおかしい」
「いや、何でもないよ」
アマーリエも楽しそうに笑った。
「でも、よかったではありませんか。フェリクス様もご一緒できるのでしょう?」
「予定が合えばな」
「ふふ。きっと楽しい一日になりますわ」
フェリクスは窓の外へ視線を向けた。
誰かに会いたいと思うこと。
その人が笑っていると嬉しいこと。
自分以外の男と楽しそうにしていると、面白くないこと。
リゼットと知り合ってから、今まで経験したことのない感情が増えていた。
「……厄介だな」
思わず呟く。
「何が?」
ハーラルトが尋ねた。
「……自分でも、よく分からない」
フェリクスはそれだけ答えた。
ハーラルトは何かを察したように微笑んだが、それ以上は追及しなかった。
まだ本人が気づいていないものを、わざわざ教える必要もない。
◇
その夜。
リゼットは宿舎の部屋で、故郷から届いた手紙を読んでいた。
母からの手紙だった。
屋敷の庭に春の花が咲いたこと。父が相変わらず仕事ばかりしていること。ヨーゼフが新しい薬草を取り寄せ、リゼットに見せたがっていること。
懐かしい日常が、丁寧な文字で綴られていた。
「……お母様ったら」
リゼットは思わず笑った。
けれど、最後の方に書かれていた一文で、手が止まった。
『そういえば、ミハイル様があなたの様子を尋ねにいらしたわ。王都で元気にしているか、とても気にしているようでした』
「……ミハイル」
小さく名前を口にする。
彼が自分のことを気にかけている。
昔なら、飛び上がるほど嬉しかっただろう。
けれど今は、その一文を読んでも、以前のように胸が弾むことはなかった。
ただ、少し懐かしくて。
ほんの少し、切なかった。
リゼットは手紙を机へ置き、窓の外を眺めた。
王都へ来てから、毎日が忙しかった。薬師として学ぶことがたくさんあり、新しい人たちとの出会いもあった。
ニーナやデリック。
いつも気にかけてくれるアマーリエ。
そして、無愛想だけれど親切なフェリクス。
少しずつ、自分の世界が広がっている。
それが嬉しかった。
けれど、ミハイルの名前を目にすると、まだ昔のことを思い出してしまう。
「……そっか」
リゼットは小さく呟いた。
ずっと好きだったのだから、簡単に忘れられるわけではない。
無理に忘れようとしなくてもいい。
ただ、もう彼を待つことはしない。
それだけは、自分で決めたのだから。
リゼットは手紙を丁寧に畳み、引き出しへしまった。
そして、明日の仕事の準備を始めた。
それでも、その夜は。
いつもより少しだけ、眠りにつくまで時間がかかった。




