運だけで魔王を激怒させたら、世界中のモンスターが進化してしまいました
重厚な暗黒の魔素が雲のように立ち込め、壁面に刻まれた古代の魔導陣が微かな光を明滅させている場所——そこは魔王城の最深部、黒水晶で築かれた玉座の間であった。
その中央に座すのは、世界を恐怖で支配する魔王である。
玉座へと続く不気味な階段の下では、異形の仮面を装着した預言者が膝をつき、両手で抱え込んだ巨大な水晶玉を覗き込んでいた。
水晶玉の内部には、眩い光とともに北上を続ける馬車の姿と、各地で繰り広げられた戦いの光景が断片的に映し出されていた。
預言者は恐縮した様子で身体を微かに震わせながら、声を絞り出すように報告を開始した。
「ま、魔王様……。恐れながら報告申し上げます。予言にありました例の男にございますが……。我らが送り込んだ幾多の刺客、ならびに厳重に張り巡らせた捜索網をことごとく突破いたしました」
魔王の双眸が赤く不気味に発光した。
「何だと……? 街道の拠点を破られ、王都での計画まで阻止されたというのか?」
「は、はい……。男は王都において巨大な功績を立て、国王より英雄の称号と多額の報奨金を賜りました。さらには最高峰の装備と極上の馬車を揃え、意気揚々とこの魔王城へ向けて北上を続けております」
預言者の言葉が終わる前に、魔王の怒りが頂点に達した。
「狂わせおって……! 幹部どもは何をしておるのだ! たった一人の人間の足止めすらできぬとは、何たる愚かさだーっ!!」
魔王の咆哮が玉座の間を激しく揺らした。
その咆哮に呼応するように、魔王の力を増幅するために造られた巨大な魔導コアが、異常な脈動を開始した。
膨大な暗黒魔素の波動が爆発的に解き放たれ、無数の黒い衝撃波となって放射状に世界全体へ拡散していったのだった。
◇
新しく改装された魔導ホバー馬車は、滑らかな走行を続けていた。
車体底部に組み込まれた超高純度の大魔石が静かに浮遊力を生み出し、地面から数十センチ上昇した状態で進むため、石ころの転がる悪路であっても車内には一切の振動が伝わらない。
車内は完全な防音構造と自動冷暖房によって、常に理想的な室温に保たれていた。
さらに、特殊な魔導糸を介して手綱の操作もこの快適な車内から直接行えるため、外の気候や風を一切気にすることなく操縦が可能となっていた。
ルークは魔導冷蔵庫から取り出した冷えた果実ジュースのグラスを手に持ち、革張りのソファに深く腰掛けながら至福の溜息を漏らした。
「いやあ、本当に素晴らしい乗り心地だね。全く揺れないし、ジュースも冷たくて最高だよ」
向かいに座るアイリスも、穏やかな笑顔を浮かべて深く頷いた。
「ええ、ルーク様の深い知恵と工夫のおかげで、長旅の疲労が嘘のように軽減されております」
心地よい旅路の末、2人の視界に入ってきたのは『フロンティアの町』の巨大な防壁だった。
この町は、モンスターの強さや生息密度が急激に上昇する「中魔素エリア」の直前に位置する重要な宿場町である。
しかし、町に入った2人が感じ取ったのは、いつもと異なる異様な緊張感であった。
行商人や冒険者が行き交う町並みには活気がなく、人々は固い表情で身を寄せ合っていた。
事態を把握するため、ルークとアイリスは町の冒険者ギルドへと足を踏み入れた。
ギルドのホール内は、大勢のベテラン冒険者たちで混雑しており、掲示板の前では深刻な議論が交わされていた。
「おい、街道筋の調査から戻ったパーティーの話を聞いたか?」
「ああ、数日前、魔王城の方角から地響きのような魔素の波が押し寄せてきたそうだ。それを直に浴びたせいで、奥地にいたモンスターたちが急激に進化・凶暴化し、生息域を広げて溢れ出しているらしい」
「本来なら中魔素エリアの奥深くにしかいないような高ランクの個体が、この町のすぐ近くまで降りてきてるんだ。一体何が起きているんだよ……」
別の冒険者が、声を潜めて周囲に語りかけた。
「噂によると、どこかの正体不明の凄腕冒険者が、魔王軍の作戦を次々と粉砕して無双しているらしい。その進撃に激怒した魔王が、怒りのあまり世界中に暗黒魔素を拡散させたのが原因だという話だ」
その会話を聞いていたルークは、驚きとともに目を丸くした。
「へえー! 世の中にはそんな正体不明の凄いヒーローがいるんだね! 正体も明かさずに魔王軍と戦うなんて格好いいなあ。その名もなき冒険者さんがこのまま魔王を倒してくれたら、世界も平和になって僕たちの旅も安全になるのにね」
心からその未知の英雄を称賛し、応援の意を示すルークに対し、隣に立つアイリスは感銘を受けたような深い眼差しを向けていた。
◇
町の周囲を脅かす危険を排除するため、ルークとアイリスはギルドから最優先で出されていた進化モンスターの討伐クエストを受注した。
町を出て平原と森林の境界付近へ向かうと、そこには異様な威容を誇る大型モンスターが立ちふさがっていた。
急激な魔素の影響を受けて変異を遂げた『アーマータイガー』である。
全身を硬質な外骨格の鎧で覆い、太く発達した前脚には岩石をも粉砕する鋭利な爪が備わっていた。
モンスターは2人の姿を視認すると、鼓膜を震わせるほどの壮絶な咆哮をあげ、地面を蹴って突進してきた。
「アイリス、いくよ!」
「はい、ルーク様!」
前線へ足を踏み出したアイリスの後方から、ルークは静かに手をかざし、支援魔法を発動させた。
「『攻撃力上昇』! さらに『防御力上昇』!」
ルークが口にしたのは、至って標準的な初歩の支援魔法に過ぎなかった。
しかし、ルークの体内に秘められた測定不能な【運∞】のパラメータが瞬時に作動した。
確率の概念を凌駕する最大クリティカル効果が発生し、ルークから解き放たれた極上の魔力は、眩い光の帯となってアイリスの全身を包み込んだ。
通常では考えられない常識外れの強化補正がもたらされたのだった。
アイリスの全身から七色の眩いオーラが立ち昇り、彼女の手にするオリハルコンの剣が激しい光を放ち始めた。
「これが……ルーク様の支援魔法の力……! 全身に無制限の力が満ち溢れてきます……!」
アイリスは目を見張りながらも、即座に地を蹴った。
視認できないほどの速度で間合いを詰めたアイリスは、突進してくる巨大なアーマータイガーに向かって、渾身の一撃を振り下ろした。
七色の光の刃が空間を切り裂くように走った。
一瞬の静寂。
本来であれば生半可な攻撃を一切通さないはずの硬質な外骨格が、紙のようにあっさりと斜めに切断された。
巨大なモンスターは絶叫をあげる時間すら与えられず、一刀両断にされてそのまま一瞬にして消滅ドロップした。
モンスターが消滅した瞬間、システム上の戦闘貢献度計算が行われた。
直接撃破を担当したアイリスはもちろんのこと、異次元の強化補正を与えたルークにも、極めて高い貢献度として膨大なアシスト経験値が分配された。
ステータス画面に表示されたレベルの数値が、大きな上昇を見せた。
跳ね上がった数値を確認したルークは、頼もしそうに口元を緩めた。
「さすが進化モンスターだね、貰える経験値の量がすごいよ! この調子でレベルが上がっていけば、中魔素エリアの深部へ進んでもしっかり戦っていけそうだね」
「はい! ルーク様の完璧な支援魔法があれば、いかなる強敵が現れようとも決して後悔はございません!」
◇
無事に進化モンスターを討伐し、町へ戻った2人は冒険者ギルドにて報酬を受領した。
受付を済ませた後、ルークは冷えた果実ジュースを飲みながら、先ほどギルドで聞いた噂について再び口にした。
「それにしても、その正体不明の凄腕冒険者さんのおかげで魔王軍も相当焦っているみたいだし、本当にありがたいよね。早くその人が魔王を倒してくれたら嬉しいなぁ」
心底のんびりと語るルークに対し、アイリスは深く感服した面持ちで頭を下げた。
「さすがルーク様でございます……。ご自身の功績を一切誇ることなく、あえて名を伏せて影の英雄としてお戯れになりながら、遠く離れた魔王を激怒させ、その暴走まで誘発してしまうとは……!」
(ええーっ!? いやいや、だからその正体不明の凄腕冒険者って誰のことだよ!? 僕はただのルークだよ!? どこかの凄いヒーローと僕を勝手に同一人物にしないでーっ!)
ルークは心の中で激しいツッコミを入れながら、冷や汗を流した。
「いや、アイリス、僕は本当にただのルークであって、その噂の人物とは何の関係も……」
必死になって誤解を解こうとするルークだったが、アイリスは温かい眼差しで微笑みを浮かべるばかりであった。
「ふふ、またまたルーク様はご謙遜を……。ルーク様の深謀遠慮、すべて理解しております」
まったく噛み合わないやり取りに、ルークは冷えたジュースを口に含みながら、胃のあたりの違和感を宥めるのだった。
こうして、アイリスの尊敬と勘違いをさらに深めさせた状態で、ルークはさらなる危険が待ち受ける中魔素エリアの深部へと、快適なホバー馬車を走らせるのだった。




