第9話 甘く漂うローズの香り
シェリルが魔導研究施設で働き始めて3ヶ月が経とうとしていた頃、ついに聖魔導師として実践に同行することが決まった。魔導研究施設で働く魔術師は基本的には実戦に参加して、魔道具の設置や魔物の討伐、治癒などその魔力に応じて実地に出ることになっている。
「来週はいよいよ初めての実践に出るわけだけど、緊張してないかい?」
正午の休憩時間が終わった後、自席に戻ると部屋に入ってきたリガードに話しかけられた。リガードはかなり面倒見が良く、困っているとすぐに助言をくれるため、シェリルにとってはすでに頼れる上司になっていた。
「さすがに結構緊張しています。実践は初めてなので」
シェリルが自信なくそう答えると、執務室のソファに深く腰をかけていた、シオンが口を開いた。
「まあ、俺もいるから安心して大丈夫。派遣先はヴァレンシア領だし、公爵家の騎士たちもいるんだろ?最初はこれくらいの任務がちょうどいいだろうね。でも、いざとなったらお前も戦力に入れるけどね。」
最後の“戦力”というのには含みがあったため、すぐに攻撃用の聖魔法のことを言っているのだろうと気づく。
(また人の反応を見て面白がってる…聖魔術師が攻撃魔法も使えるなんて、過去のことや身分を隠していることがリガード様にばれたらどうするの!?)
キッと睨むと堪えるように笑い、こちらの気持ちとは裏腹に楽しそうにしている。
「確かにシオンの言うとおり、今回の任務ではうちの騎士たちも参加しているし、まあそこまで大きな戦いにはならないはずだ。厄介なことに、複数魔物が出ているようだから魔術師が召集されたんだよ。とはいえシェリル、君にはベース地で騎士たちの治癒を主に行ってもらうことになるからそのつもりで。初日は移動だけで終わってしまうと思うから、うちの家に泊まるといい。」
「はい、頑張ってきます!…それから、出発までにちょっとお伺いしたかったんですが、行くときは何で行くんでしょうか?」
なんとなく想像はできているが、念の為確認する。乗馬での遠征であれば、不安しかない。
「もちろん、乗馬にきまってるでしょ。現地は馬車が通れないような山道も通るからね。もしかしてお嬢様は馬車で移動するとでも思ってた?」
また人を小馬鹿にするようにシオンが答える。
「お嬢様じゃないです!…でもちょっとだけ希望を持っていたんですけど、やっぱり乗馬ですよね。多少経験はありますが学生時代に落馬して以来、乗馬が得意じゃなくて」
転生前は馬に乗るような機会はなかったため、魔法学校で乗馬の授業の際うまく乗りこなせず落馬して以来、乗馬は得意になれなかった。
肩を落としながら答えると、そんな姿を見たシオンは立ち上がり、そのままシェリルの方に歩み寄り、肩へ腕を回す。
「仕方ないな。可愛い後輩ちゃんのために、いざとなったら俺が隣で手綱引いてあげるから、そんなにしょげるなって。それか、俺の前に乗せてあげようか?」
ニヤニヤと愉しそうに揶揄いながら見下ろしてくるシオンに対し、自分がシオンにぴったりとくっついて馬に乗る姿を想像してしまい、顔が熱くなる。
「もう!揶揄わないでください!でも、並走はお願いします。落馬は絶対にしたくないので…」
揶揄ってくる上司に頼ることしかできなくて情けなく思いながら、この遠征が終わったら乗馬も練習しようと心に決めた。
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そして出発の朝。
馬小屋の前でシオンを待っていると、いつもとは違い、きっちりとしたシャツに、タイトなズボン、足元には乗馬用の皮のブーツを履いて現れた。スマートなスタイルに思わず見惚れてしまう。
(さすがノアール公爵家の次期当主…喋らなければ本当にかっこいいんだけどな…。)
「じゃあ行こうか。」
シェリルはシオンとともに、馬を連れて敷地の出口までやってきた。他にも何人か魔術師が同行するようで、馬の準備をしている。
「またがるところまではできるよね?一度乗ってみて。」
緊張した面持ちで馬に乗る。学生の頃以来だったが、乗るところまでは意外とできたため、ほっとしていたのも束の間、馬がいきなり嫌がりだし、胴体を左右にゆする。ばたばたと後ろ足をあげ暴れ出したため、思わず手綱を離してしまった。きゃあ!と思わず体勢を崩し、振り落とされたシェリルを下でがっしりとした腕が抱え込む。シェリルは落馬した衝撃で心臓がバクバクと跳ね上がる。
「遠征に出る馬は乗馬する人の緊張や周りの雰囲気に当てられて気性が荒くなることがあるからね。これでは一人で乗っていくのは無理があるな。今回は嫌でも俺の前に載せるしかなさそうだな。」
シオンが呆れたような困った笑みでシェリルにそう告げる。
馬から振り落とされたシェリルは、抱き抱えられたシオンにしがみつき、シオンの前に乗ることが最善と考え、こくりと頷くと、意地より安全をとることに決めた。
シオンがシェリルの後ろに乗り、背後からしっかりとシェリルを包み込むように手綱を握る。密着する背中からは男性の硬い胸板があたり、そこだけ体温が高くなる。乗馬の緊張感と、背中に感じる体温で心臓は壊れそうなほどドキドキと高鳴っていた。
(ここから何時間もこの状態だなんて、私大丈夫かな…)
不安を抱えながら王都の関門を抜け、ヴァレンシア領へ向かった。
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(よ、ようやく着いた…。)
派遣先の森があるヴァレンシア領に着いたのは、午後をまわってしばらくした頃だった。久しぶりの乗馬なのに加え、一度振り落とされてから再び馬に乗ることになったシェリルにとって、かなり過酷な道中だったことに違いなかった。
「ぅう、足がガクガクする…。あとで筋肉痛に効く治癒魔法をかけないと、明日歩けなくなりそう…。それにしても、綺麗な街ですね。」
馬を降りてシェリルは太ももを労わりながら歩く。ヴァレンシア領はこの季節、バラの花が咲き誇っていて街中では薔薇の花をふんだんに使用したローズ祭が開催されていた。
「こんなに華やかな場所なのに、森に魔獣がでるなんて、信じられませんね。」
シェリルがそう言うと、シオンは、馬を右手に引きながら答えた。
「まあ、どこの森にも魔獣はつきものだからね。今回は魔獣討伐に加えて、各地に置いている防御ポインターの点検もかねてる。他の奴らはそっち担当。」
一緒にきたはずの魔術師とは途中の川辺でそれぞれ別れたが、あれはそういうことだったのかと納得する。シェリルは乗馬に必死でそれどころではなかったのだ。
「今日はこれからこのままヴァレンシア公爵邸に行って一旦そこで休ませてもらおう。公爵邸の料理人は腕がいいから楽しみにしておくといい。」
それを聞いた瞬間、シェリルの目が輝く。
「ヴァレンシア公爵邸ってリガード様のご実家ってことですよね。公爵邸に泊まれるなんて、緊張しますがお料理楽しみです!」
そう笑顔でシオンを見上げると、優しい笑顔で見下ろされていることに気がつき、目が合うとドキンと心臓が高鳴る。いつもの軽薄な顔ではなく、優しげな目を向けられると、どうも調子が狂ってしまう。そう思ってパッと視線を前に向けたときだった。
「え!?シオン様!?こちらにいらっしゃっていたのですか!?」
街を歩いていた一人の令嬢がシオンの元へ駆け寄った。彼女は従者を連れており、繊細なレースをあしらった気品のある淡いピンクのドレスを着用しているその姿は、どこからみても貴族階級の女性であることが伺えた。
令嬢は足早にこちらに近づくとシェリルを押し除けるようにして間に割り入って、シオンの腕に自分の腕を絡めて密着しながら、すがるような甘い顔つきでシオンを見上げながら話を続けた。
「こちらに来られるなら、何かご一報いただければよかったのに。私、あの日からシオン様にお会いできる日をずっと待っていたんですよ」
シェリルはその密着度と令嬢の勢いに気圧され、一歩後ずさる。令嬢にはまるでシェリルが見えていないようで、その場にいるのに自分が空気のように感じた。
「やあマリア、久しぶりだね。俺もマリアに会いたかったんだけど王都での任務が忙しくて。ローズ祭だからかな?マリアの香水がいつもより濃厚に感じるのは気のせい?」
シオンはそう言って令嬢の耳元あたりに顔を近づけた。一歩引いたシェリルにも、お菓子のような甘ったるいローズの香りがふわりと漂ってきた。
「この香りをもっとじっくり味わいたいけど、今回は任務で来てるから、またの機会にしておくよ。じゃあね。」
そう言ってさらりと髪を救うとそっと口付けた。
マリアと呼ばれた令嬢は顔を赤くして今にも腰から崩れ落ちそうになっていた。
「さあ、いくよ。」
そう言って何事もなかったようにまた歩き出した。
ヴァレンシア領にまで、たらし込んだ女性がいるなんて、呆れて言葉も出ない。さきほどシオンと目があってドキドキしていた気持ちは急激に冷めていった。
「シオン様、これまでご令嬢から刺されたご経験とかないんですか?」
シェリルの冷たい視線と、唐突な質問に不意をつかれたように目を丸くしたシオンはすぐに「あはは!」と声を出して笑いながら「そのときは治癒魔法よろしくね」と言って軽く返してきたので、シェリルは大きくため息をついた。




