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第32話 ここで終わり

 部屋に入ると、中は冷え切っており、シェリルは急いでストーブに火をつけた。


「誘っておいてなんですが、公爵家の物置よりもせまいかもしれません…」


 慌ててシオンのコートを預かり、ラックへ掛けると自分もコートを脱いだ。改めて考えてみると自分の家にシオンがいるという今の状況は夢なのではないかと思うほど信じられない。

 シェリルは寒い部屋の中で自分だけが体温が上がっているように感じながら、ケトルに水を入れ、火にかけるとマグカップを二つ用意したところではっと我に帰る。


(やばい…ティーパックの紅茶しかない…!)


公爵家の人間がティーパックの紅茶なんて飲むのだろうか。いや、絶対に飲まない。

公爵家とのあまりの生活の違いを想像して、焦りと恥ずかしさを感じながらながらシェリルはシオンに声をかけた。


「あの…ティーパックの紅茶でもいいですか?」


 泣きそうになりながらシオンに尋ねると、吹き出しそうになりながらシオンは「なんでもいいよ」と答えた。


 顔から火が出そうなほど恥ずかしい…。


 こんなことなら日頃からいい紅茶を用意しておくんだった、とシェリルは大いに後悔したが、いっぱいいっぱいなシェリルを見てシオンは楽しんでいるようだった。


 ケトルの注ぎ口から湯気が出てくると火を止めると、ポットに注ぎ込み、マグと一緒にテーブルの上へ運んだ。

 しばらくして色が出たのを確認すると、マグへと注ぎ込む。

 部屋に呼んだのはいいものの、自分の生活空間の中に好きな人がいる状況が照れ臭く、何の変哲もないカップの中を見ながらシェリルは必死に話題を探す。

 シオンはシェリルの淹れた紅茶を口にすると、シェリルの方へと視線を向けた。視線が合うと、シェリルは何か喋らないとという思いに駆られて口を開いた。


「そういえば、今度大規模な討伐遠征がありますよね。私も後方支援で参加する予定なんです。シオン様は前線に行かれるんですよね?」


 咄嗟に口から出たのは仕事の話で、こんな時にどんなことを話せばいいかもわからなければ、お互いの共通の話題といえば仕事の話しかないことに改めて気がついてしまった。


「ああ、そうだね。俺は前線の方に行くけど、シェリルはルカも含めた後方チームと一緒にベース地で負傷者の治癒などにあたることになるだろうね。」


「そうですよね。でも、ルカ様もいれば心強いです。」


 シェリルがそう言うと、シオンはまた黙り込んんでしまい、会話が終わってしまった。前とは違い、シオンから話を振ることは滅多になくなっているため、シェリルはこの気まづい空気をどう打開すればいいか頭を抱える思いだった。


「それより、ひとつ気になってたんだけど聞いてもいい?」


 珍しくシオンから話しかけられ、シェリルはパッと顔を上げると、シオンはゆっくりと一度紅茶を口に運んだ後、話を続けた。


「あの棚の上にあるやつって、男性ものの店の箱だよね?自分のものってわけではなさそうだけど、シェリルにもそんなの渡す相手がいたなんて、全然気が知らなかったな。」


 棚の上に置いてある丁寧にラッピングされた箱を見たのだろう。シオンはシェリルと目を合わさずにそう言うと、またマグの紅茶を飲んだ。

 言い方は至って平然としているのに、目を合わそうとしないシオンに、棘のある空気を感じ、シェリルは咎められているような気持ちになる。


「あれは…別に、誰かに渡すつもりのものじゃないです…。それを言うならシオン様だって、今日はご令嬢と楽しい1日を過ごされていたみたいじゃないですか。」


 散々シオンの方から壁を作ってくるくせに、男の影を感じるだけで不機嫌な空気をぶつけてくるなんて、シェリルも苛立つ気持ちが湧かないわけではなかった。


「あれは公爵家の仕事みたいなもんで、ただの付き合いだよ。シェリルにはわからないかもしれないけど、公爵家と繋がりが欲しい家なんて山のようにあるからね。独身のうちはいろいろ根回しされるもんなんだよ。…まあそこから本当の出会いに発展するケースもあるかもしれないけどね。」


 シオンの言葉にまた胸の奥が締め付けられる。


(自分だって女性の影をちらつかせてくるくせに…。)


 いくら押してみても肝心なところで絶対に壁を作られてしまう。シェリルは返す言葉が見つからず、シオンからの言葉を聞いた後黙り込んでしまったが、シオンは紅茶を飲み干すと同時にすっと立ち上がった。


「あんまり長居してもよくないし、そろそろ帰るよ。紅茶ごちそうさま。」


ラックにかけていたコートを取りに行くと、その場で羽織りそのまま玄関の方へ歩き出した。


「あ、待って…!」


シェリルの声と同時に背中に響いた小さな衝撃と共にシオンの足がピタリと止まる。


「嫌な言い方して、ごめんなさい…。」


 シェリルはシオンの服をグッと掴みながら、懇願するように自分の頭をシオンの硬い背中に倒し、額をつけた。


「シェリル…」


「あれから、自分なりに色々頑張ったつもりだったんですけど…。もう、私が何をしても…どうしても、シオン様の気持ちは私の方には戻ってきてくれませんか?」


 しばらくシオンからの返事を待っていたが、微動だにせず、ただ黙ったままだった。そんな無言のシオンからは“もう戻らない”と言われている気がして、シェリルは掴んでいたシオンの服をそっと離した。

 シオンはシェリルの手が離れると、小さく後ろを振り向いた。シオンの顔は何かに抗うような苦悩した表情で、シェリルはその顔を見てまた息ができなくなるような胸の痛みを感じた。


「そんな顔をさせてしまうつもりも、困らせるつもりもないんです。私の行動がシオン様を苦しめてしまうなら、もうシオン様の中に私はいない方がいいのかも、しれませんね」


「シェリル——」


しばらく沈黙が流れたまま、静かな室内では外の風が窓を揺らす音がかたかたと響いた。シェリルは心の中で一つの区切りをつけることに決めた。


「もう、今日で最後にします。」


シェリルは深く息を吸い込むと、一歩後ろにさがり、掴んでいた服を離した。


「…でも最後に一つだけ、お願いを聞いてもらってもいいですか?」


シオンが振り返ると、お互いの視線が重なる。


「これで最後にするので、キス…してほしいです。」


かなり勇気を振り絞ったのだろう。目元を潤ませながら懇願するように見つめられ、シオンのブルーグレーの瞳の中にはっきりとシェリルの姿が映し出される。


「…わかった。」


一言だけそう言うと、シオンは慣れた手つきで手にはめていたグローブを外すと、自身の手をそっとシェリルの頬へと伸ばした。

 暖かい体温が頬に触れ、シオンの手に自分の頬を押し付けるように首を傾けると、その心地よさに浸りながらシェリルはそっと目を閉じた。

 シオンはもう片方の手をシェリルの頭に添えると、優しく唇を落とした。


 二人の間に魔力の循環がおこり、お互いの魔力が体を巡る。


 唇がただ触れるだけのキスから、だんだんと角度を変え、軽く味わうようなキスへと変わる。

 押さえ込んでいた欲望の歯止めが切れたかのように、だんだんと貪るような激しさに変化していくと、シェリルの頭を抑えるシオンの手にも力が入る。

 今にも後ろに押し負けてしまいそうな勢いにシェリルは少し後ずさると、必死にシオンの胸元を掴み、後ろに倒れ込まないように上体に力をいれた。

 舞踏会の日の満たされるようなキスではなく、苦しくて締め付けられるようなキスは、荒々しくいつ終わってもおかしくない危うさを孕んでいた。


 決して深く踏み込もうとしなかったシオンからの貪るようなキスに、シェリルは完全に力が抜けてしまう。シェリルの膝がガクリと抜けそうになったところで、シオンの腕がシェリルを支えると、唇が離れ、熱を帯びたシオンの目がシェリルへと向けたられた。


 お互いに息を切らしながら見つめ合うと、シェリルは溢れ出そうな涙を堪えながらシオンから視線を逸らし体勢を整え、そっとシオンを押しやった。シェリルはゆっくりとシオンから一歩離れると、棚の方へと足を進め綺麗に包まれた箱を手に取る。


 そのあと、ラダーラックへかけていたマフラーを手に取ると、両方袋に入れ、シオンの元へと戻り、話を始めた。


「これ、本当は聖夜祭の夜に渡すつもりだったんです。私が持っていっても意味がないので、よかったら使ってください。いつもお世話になっている上司へ、部下からのプレゼントだと思って受け取ってくれませんか?」


 そういうと、笑顔でシオンへ袋を差し出す。シオンが無言でその袋を受け取ると、シェリルは満足したように笑いかけた。


「マフラーもありがとうございました。それと…あの時、叩いてしまってごめんなさい。痛かったですよね…。」


 シェリルはシオンの頬に触れようと手を伸ばしかけたが、手のひらをぐっと握りしめてそのまま手を下ろした。


「…また明日から、よろしくお願いします。」


 無理をして明るく笑顔を向けるシェリルに、シオンは自身の手に再びグローブをつけると、玄関へと足を進めた。


「これ、ありがとう。使わせてもらうよ。――じゃあ、また明日。」


そう言うと玄関を開けて部屋から出ていった。一人になったシェリルは、呆然と立ち尽くし、溢れ出る涙を止めることができなかった。


「はは、終わっちゃった…。」


はっきりとした終わりを感じながら、


“明日からはまた、最初の頃の上司と部下に戻るだけ”


そう自分に言い聞かせていたけれど、今はただ溢れ出る涙を流すことしかできなかった。

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