第30話 卑怯な心
翌朝シェリルが出勤すると、ちょうど執務室のドアから出てきたばかりのリガードに出ぐわした。両手にたくさんの書類を抱えていたリガードは朝早くからすでに執務を開始しているようだった。
「リガード様、昨日は急なお休みをいただき、すみませんでした。」
「いや、いいんだ。君はいつも頑張りすぎているぐらいだから、たまには休まないとね。もう体調の方は大丈夫そうかい?」
「はい。もうすっかり良くなりました。ありがとうございます。」
少し罪悪感を感じながら、シェリルはリガードに頭を下げた。
「あの、今日はお早いんですね。昨日何かありましたか?」
いつも定刻通りの出勤をしてくるリガードがすでに執務を開始しているのは珍しい。不思議に思って聞いてみると、リガードは手元の資料へちらりと視線を下ろした後、いつもの聡明な顔つきに戻るとシェリルの問いに応えた。
「ちょっと調べ物をしていてね。今日は王宮の方へ用があるから色々行ったり来たりするが気にせず仕事にあたってくれ。」
そう言うと、資料を抱えてどこかへ行ってしまった。
執務室の前はシェリルだけになり、静けさが漂い、シェリルは少し緊張しながら扉を開ける。
執務室の中は静かな空間が広がっており、シオンの執務室の方からも音は聞こえないところをみるとまだ来ていないようだった。
少し胸を撫で下ろし、シェリルは自席へと腰を下ろすと、いつも通り仕事に取り掛かった。
1時間ほど経った時だった。重たいドアが開く音がしたため、リガードが戻ってきたのかと思い扉の方へ目を向けると、入ってきたのはシオンだった。
シェリルが勢いよく立ち上がると、シオンも目線をこちらに向ける。まるで電流が走るかのように目線が合うと、シェリルはシオンへ声をかけた。
「シオン様!」
しかし、シオンはふっとまた進行方向へ目線を逸らすと、表情を変えることなく「ああ、おはよ」とだけ言うと、そのまま自分の執務室へ入って行った。
シェリルは慌てて後を追いかけると、シオンへ話しかけた。
「この前のこと…私やっぱり納得できません!ちゃんと説明してください。ちゃんと話してくれなきゃわからないです…!」
冷静に話すつもりだったのに、シオンの態度があまりにも冷たく、シェリルは思わず声を荒げた。
「俺からはもう話すことはないよ。この前伝えたとおり、シェリルとはもう一緒にいられない。それで終わり。」
コートを脱いでハンガーにかけながら、シェリルの方を見ようともせず言葉を発するシオンに、シェリルは焦りと苛立ちが沸々と湧き上がる。
「だから、それが何でかって聞いてるんです!あの説明だけじゃ納得できません。…私のこと、嫌いになったわけではないんですよね?」
胸が締め付けられるような感覚になりながら、シェリルは一番聞きたくなかったことまで口にしてしまい、すぐに後悔してしまう。
シオンはどさりと自分のデスクの椅子に腰を下ろすと、前髪を掻き上げながら面倒くさそうに息を吐いた。
「…嫌いではない。俺が女の子のことを嫌いになることはないよ。」
わざと“女の子”という属性で括り、シオンはシェリルに対して完全に壁を作って聞く耳を持たない様子だった。
シェリルはシオンのそんな態度に返事もできず、しばらく考えた後シオンのデスクの前まで歩いて行き、デスクの上に手に持っていた小瓶を勢いよく置いた。
ドンっという音共に、シェリルが身を乗り出したため、シオンは意表をつかれて目を丸くしている。
「よくわかりました!シオン様がそんな態度で理由も話してくれないなら、こっちだって絶対に諦めませんから!これ、前にシオン様が懐かしんでた琥珀糖です。昨日また作ったんです。あなたに食べてもらいたくて…。シオン様は私に記憶がないって言いましたけど、全部なくなったわけではないです。それを知っておいて欲しくて。記憶は、戻るかわかりませんが私はあなたを絶対に諦めない。たとえ他の女の人と同じ位置にいるんだとしても、絶対に私を選びたくなるように、振り向かせてみせますから、覚悟しててください…!」
矢継ぎ早にそう言うと、「では仕事に戻るので失礼します!」と言い捨てて、シェリルはシオンの執務室を勢いよく出て行った。
シェリルのいなくなった執務室の空間にただ呆然と目を向けていると、シオンは張り詰めていた胸の中の緊張がぷつりと切れたかのように、おかしさが込み上げてきて、声を抑えながら湧き上がる笑いを抑えた。
シオンが思っていたよりも、何倍もシェリルは強くて逞しく、感傷に浸っていた自分がひどく弱く感じた。
それと同時に、シェリルがまだ自分から離れずにいてくれることに安堵すらしてしまっている。あれだけシェリルを傷つけた聖夜祭の夜に手放すことを決意したというのに、まだシェリルの感情が自分に向いていることに安堵するなんて、と、自分のずるさに自嘲してしまう。
シオンは目の前に置かれた琥珀糖の入った瓶の蓋を開けると、その中から一粒取り出して口の中へ運んだ。シャリっと小気味のいい音と共に、口いっぱいに甘さが広がってゆく。聖夜祭の夜から冷え切っていた心がほんのりと暖かくなったような感覚に、シオンは口角を緩めながら頭を抱えた。
「はっ…なんかもう、どうでもよくなってきたな…。一体俺にどうしろって言うんだよ。」
執務室のドアの外では、シェリルが書類をまとめる音がかすかに聞こえてくる。シオンはその音に耳を傾けていると、少しずつ冷静さを取り戻すと、ドア越しに感じる愛しい人の気配に、扉があってよかったと胸を撫で下ろす。
愛しいが故に、やはり自分の手元に置いておけない存在なのだと再認識しながらも、自分は完全にシェリルのことを拒むことはできないのだと悟った。
時間はかかるかもしれないが、徐々に自分から遠ざければいい。それまではシェリルの『振り向かせてみせる』がどういうものなのか甘んじて受け入れてみよう。その都合の良い考え方にシオンは自分に対して嫌気が差しながらも、腹を据えた。




