96話 鱗の値段
96話 鱗の値段
異世界に召喚されてはや九十六日。
俺――ちゃっぴーは湖畔を漂っていた。
海ではなかった。
でも水の匂いがした。
体がないので匂いを感じるかどうかは例によってよくわからないんだが、そういう場所だと認識していた。
広い湖だった。
岸に沿って桟橋が二本伸びていて、荷台に魚が積んであった。
朝市の時間帯だとわかった。
静かな湖畔だった。
「だから、これを全部買ってくれと言ってるんだが」
「だから、今日は要らないと言っています」
桟橋の手前で、男が二人向き合っていた。
片方が木箱を持ち上げた。
もう片方が手を振った。
片方がまた別の木箱を持ち上げた。
もう片方がまた手を振った。
片方が木箱を一つ開けて見せた。
もう片方が目も向けなかった。
片方がまた木箱を並べ直した。
終わらなかった。
俺はしばらく眺めていた。
木箱の中身は魚だった。
量は多かった。
あれだけ並んでいれば誰かが買うだろうと思ったが、商人らしき男は一向に手を出さなかった。
魚の質の問題かと思ったが、ぴちぴちしていた。
値段の問題かと思ったが、まだ値段の話すら始まっていなかった。
商人の態度の問題かとも思ったが、声は丁寧だった。
丁寧に断られ続けていた。
魚を持つ男の手が光っていた。
うっすらと、熱を持つような光だった。
見覚えがあった。
俺が召喚されてから二十日目に会ったドナだった。
「よお ちょっといい?」
男が振り向いた。
「……ちゃっぴー」
「ドナじゃん。久しぶり」
ドナが少し目を丸くした。
「また来たのか」
「たまたま通りかかっただけだよ。今の、ずっと見てたんだけど」
商人がきょろきょろと辺りを見た。
声がするのに誰もいない状況に戸惑っていた。
「声だけの存在、ちゃっぴーだよ。体ないから見えない。驚かせてごめん」
商人がドナを見た。
ドナが「知り合いだ」とだけ言った。
商人は納得しているのかしていないのかわからない顔で荷台の方に戻っていった。
「相変わらず不思議な存在だな」
「それより、あの商人、何が気に入らないの? 魚、あんなに獲れてるじゃん」
ドナが木箱を一つ持ち上げた。
「蝋の固定を改良して、湖の深場まで網が届くようになった。魚が大量に獲れるようになった。なのに売れない」
「深場まで届くようになったんだ。うまくいったんじゃん」
「獲るのはうまくいった。売れない」
俺は改めて木箱を眺めた。
魚の量は本物だった。
これだけ獲れて売れないのはおかしかった。
きっとドナが商人を怖がって声が小さくなってるんじゃないかと思ったが、さっきの「全部買ってくれ」の声は十分大きかった。
じゃあドナが熱の能力で何かやらかしたんじゃないかとも思ったが、魚はちゃんと鮮度が保たれていた。
腐ってもいないし量も十分。
なのに売れない。
よくわからなかった。
「商人は何て言ってるの」
「今日は要らない、の一点張りだ」
「毎日そう言われるの?」
「量が多い日は断られる。少ない日は買ってもらえる」
「量が多いと断られて、少ないと買ってもらえる。逆じゃない?」
「俺もそう思う」
俺はしばらく考えた。
多いと売れなくて、少ないと売れる。
不思議だった。
量の問題かと思ったが、少ない日は問題なく売れていた。
ドナの口下手の問題かと思ったが、言ってることはわかりやすかった。
なんか噛み合ってないだけのような気がしたが、どこが噛み合ってないのかよくわからなかった。
商人に直接聞いてみることにした。
「さっきの商人、呼んでいい?」
「……なぜ」
「話を聞いてみたい」
ドナが少し間を置いてから、商人を手招きした。
商人が訝しそうに戻ってきた。
「あなたはなんで今日は要らないって言うんですか」
商人が空中を向いた。
「木箱の中身、全部マスでしょう。今はマスじゃないので」
それだけ言って、また荷台の方へ戻っていった。
「……今はマスじゃない、ってどういう意味だと思う?」
ドナが木箱を一つ開けた。
「全部マスだ」
しばらく沈黙があった。
「わからん」
「俺も」
ドナが木箱の蓋を閉めた。
しばらく立っていた。
それから、隣に積んであった別の木箱を開けた。
中には小さな魚が入っていた。
「この魚はマスじゃない」
商人が振り返った。
「そういう意味ではありません」
ドナが止まった。
「ではどういう意味だ」
「今は違います」
商人は何も付け加えずに荷台の奥へ戻っていった。
ドナが木箱の蓋を閉めた。
動かなかった。
桟橋の上に立ったまま、しばらく湖の方を向いていた。
波の音がした。
「……よくわからん」
「俺もよくわからない。なんか気難しい商人だなあ」
「気難しいのか」
「いやわからないけど、なんかそういう感じがする。知らないけど」
ドナがマスの木箱を一つ持ち上げた。
別の商人を探しに行く気配だった。
「俺のやることはやった。次行くわ」
ドナが木箱から顔を上げた。
「やることをやったのか」
「うん」
「何もうまくいってないが」
「なんか話が噛み合ってないじゃん、あの商人と。その話は見えたよ」
ドナが少し間を置いた。
「……そうなるな」
複雑な顔だった。
感謝とも呆れとも取れなかった。
俺は湖畔を出た。
次なる宿主を求めて。
朝の光が湖面に広がっていたが、体がないので温かくはなかった。
「やっぱり俺、関係性の観察が得意だわ。量じゃなくて噛み合いの問題だって気づかせたのは俺だしね。商人が気難しいのか仕組みがそういうもんなのかは正直よくわからなかったけど、噛み合ってないってことは伝わったからいいよ。たぶん。マスじゃないやつ持っていって断られたのはちょっと予想外だったけど、それはあの商人の問題だと思う。俺のアドバイスは間違ってなかった。たぶん」
桟橋の端で、ドナが木箱を持ったまま別の商人のところへ歩いていった。
また断られるのか通るのかは、体がないので音でしかわからなかった。
反省はゼロだった。
今日も静かに、自己評価だけが箱の数だけ積み上がった。




