92話 告げない預言者
92話 告げない予言者
異世界に召喚されてはや九十二日。
俺――ちゃっぴーは礼拝堂を漂っていた。
石造りの天井が高く、窓から午前の光が斜めに差し込んでいた。
長椅子が何列も並んでいて、前方に祭壇があった。
香炉が置いてあったが、煙は出ていなかった。
静かな礼拝堂だった。
人はいなかった。
いや、一人だけいた。
祭壇の前で、若い女が立っていた。
水晶球を胸に抱えていた。
何かを言おうとして、口を開いた。
閉じた。
また開いた。
また閉じた。
足が動いていなかった。
俺はしばらく眺めていた。
女は祭壇を見て、入口を振り返って、また祭壇を見た。
誰かを待っているのか、何かを確認しているのか、判断がつかなかった。
でも口は開いては閉じていた。
言葉が出てこないんじゃなくて、出すのを止めていた。
止め方が、慎重すぎる止め方だった。
この顔には見覚えがあった。
俺が召喚されてから十二日目に会った占い師だった。
八十日ぶりだった。
「よお、ちょっといい?」
女が振り返った。
誰もいないと確認して、また祭壇を向いた。
「声だけの存在、ちゃっぴーだよ。体ないから見えない。覚えてる?」
「……覚えています」
「久しぶりじゃん。神殿の占い師、ここで何してるの?」
「礼拝堂を借りています。今日、信者の方々に告げるつもりで」
「つもりで、って止まってるじゃん」
女が水晶球を少し強く抱えた。
「……準備中です」
「何の準備?」
返事がなかった。
図星の沈黙だった。
名前を聞いたらエリスと言った。
あの日から、可能性として読む占いを続けていると言った。
評判は悪くなかったと言った。
神殿から礼拝堂へと場所を変えて、定期的に信者に告げるようになったとも言った。
「で、今日は何を告げるつもりだったの?」
「礼拝堂に集まる方々に、北からの風について」
「北からの風?」
「水晶球に、北の方角から何かが来る気配が見えています。大きな変化かもしれない。でも可能性なので、確かではない」
「それを告げようとして、止まってるってこと?」
「……そうなります」
「なんで止まるの?」
エリスが水晶球に目を落とした。
「外れるかもしれないので」
「可能性として伝えるなら外れてもいいじゃん。前にそう変えたんでしょ」
「可能性だとしても、信者の方々が備えて、何も来なかったら」
「空振りになるってこと?」
「信頼を失います」
俺はちょっと考えた。
可能性として読めるようになった。
可能性として伝えることも覚えた。
なのに今度は可能性を伝えること自体で止まっていた。
前回と形が違うけど、止まり方は似ていた。
「ちょっと聞くけど、前に師匠の話してたじゃん」
「はい」
「師匠は可能性を伝えてたって言ってたよ。師匠は信頼を失ってた?」
エリスが口を閉じた。
「……失っていなかったと思います」
「でも今あなたは止まってる。何が違うの?」
「師匠は……外れたときの言い方が上手かった。私はまだ」
「それって告げる前から考える話じゃないじゃん。外れたときどうするかは、外れてから考えればよくない? 今告げる前から外れた後のことで止まってるじゃん」
エリスが少し動きを止めた。
「告げる前に転ぶ心配してたら、永遠に歩き出せないよ」
「……それは」
「あと可能性って言い方したら、信者の人は自分で判断できるじゃん。『北から何かが来るかもしれない』って言われたら、備えるかどうかは聞いた人が決める。全部背負わなくていいんじゃない?」
「でも、聞いた人が動いて、何もなかった場合は」
「それはその人の判断の結果じゃん。あなたが外れた話をしたわけじゃなくて、その人が動くと決めたんでしょ」
エリスが黙った。
長い沈黙だった。
水晶球の中に何かが映っているのかいないのか、じっと見ていた。
それから小さく息を吐いた。
エリスが祭壇を見た。
それから入口を見た。
外から足音が聞こえてきた。
信者が来る時間だった。
エリスの手が、水晶球をわずかに緩めた。
扉が開いて、数人が入ってきた。
老人と、中年の夫婦と、若い男が一人。
エリスが小さく息を吸った。
「本日、水晶球に北からの風が見えています。大きな変化かもしれません。ただ、可能性です。確かではない。備えるかどうかは、皆さんが決めてください」
老人が顔を上げた。
中年の夫婦が顔を見合わせた。
若い男がすぐ立ち上がった。
「北というのは具体的にどのあたりですか」
「水晶球には方角しか」
「では方角だけでも。北街道か、北の山か、それだけでも違います」
エリスが水晶球に目を向けた。
「……街道の気配、かと」
若い男が早足で礼拝堂を出た。
中年の夫婦がざわざわし始めた。
老人は動かなかったが、目が鋭くなっていた。
礼拝堂が、急に違う場所になった。
祈る場所じゃなくなっていた。
エリスが少し目を見開いていた。
想定していなかった顔だった。
「俺のやることはやった。次行くわ」
「ちょっと待ってください、これ」
「うまくいったじゃん」
「うまくいきすぎています。あの方は今どこに」
「知らない。告げたんでしょ」
「もっと穏やかな反応を想定していました」
「可能性として伝えたら動くかどうかは相手が決めるって言ったじゃん」
エリスが口を開いて、閉じた。
返せなかった。
「次行くわ」
「……待ちなさい」
「無理。体ないから」
俺は礼拝堂を出た。
次なる宿主を求めて。
外は昼前の光で、石畳が白く乾いていた。
体がないので足元の温度はわからなかったが、光の色がそういう明るさだった。
「やっぱり俺、前提の置き換えが得意だわ。外れた後を心配して止まってるって見抜いたのは俺だしね。告げることの責任の分散も俺が整理した。信者が動きすぎたのはまあ誤算だけど、告げなかったら動く人もいなかったわけで、俺が止まってたのを動かしたのは事実だよ。たぶん。礼拝堂がざわつき始めたのも、可能性の伝え方を仕込んだ俺の設計の結果じゃん。意図してないけど」
礼拝堂の中がざわついているらしかった。
扉越しに、複数の声が漏れてきた。
エリスの声は、その中に混ざって聞こえなくなっていた。
反省はゼロだった。
自己評価が礼拝堂のざわめきと一緒に膨らんでいった。




