90話 踏み込めていない格闘家
90話 踏み込めない格闘家
異世界に召喚されてはや九十日。
俺――ちゃっぴーは橋の上を漂っていた。
石造りの橋だった。
川幅は広くなかった。
十歩も歩けば渡りきれる距離だった。
欄干が両側に並んでいて、川の流れる音が下から上がってきた。
橋の中央あたりで、男が一人立っていた。
対岸に人影が三つあった。
武器を持っていた。
盗賊か何かだとわかった。
なのに橋の上は静かだった。
静かすぎた。
男が一歩踏み出した。
止まった。
対岸から声が飛んできた。
「来ないのか。怖いのか」
男がまた一歩踏み出した。
また止まった。
右の拳を引いた。
構えた。
「ほら、来い来い」
対岸の三人のうち一人が橋の手前まで歩いてきた。
男が構えたまま動かなかった。
三秒、四秒、五秒と止まり続けた。
右の拳を下ろした。
左の拳を引いた。
構えた。
また止まった。
左の構えのまま、今度は半歩下がった。
対岸から笑い声が上がった。
俺はしばらく眺めていた。
男の構えは悪くなかった。
重心の位置も、足の開き方も、見た目には問題がなかった。
なのに前に出ない。
煽られて、笑われても、前に出なかった。
止まるたびに視線が下に行っていた。
足元を確認して、また構えて、また止まる。
これを繰り返していた。
俺には最初、数で押されて怖気づいているのかと思った。
違った。
煽りには反応していなかった。
怖がっている顔じゃなかった。
計算している顔だった。
何かを測っていた。
「よお ちょっといい?」
男が振り返らなかった。
「声だけの存在、ちゃっぴーだよ。体ないから見えない」
「……知ってる」
男が低い声で言った。
振り返らないまま答えた。
俺が召喚かれてから二十二日目に会ったラッドだった。
「ラッドじゃん。久しぶり。六十八日ぶりだね。あのとき草原にいたやつだよ、俺」
「知ってる」
「あ、わかる? 嬉しいな」
対岸からまた声が飛んできた。
「一人で何ぶつぶつ言ってるんだ」
ラッドが対岸を一度見て、また足元に視線を落とした。
「足元、ずっと見てるじゃん」
「見てる」
「なんで?」
「石が濡れてる」
俺は橋の石畳を見た。
確かに、所々が湿っていた。
朝露か、夜のうちに雨が降ったのか、川に近いせいか、判断はつかなかった。
「踏み込んだときに滑る可能性があるってこと?」
「一歩目で滑ったら終わる」
「三人相手に転んだら、か」
「起き上がれない」
「それで止まってる」
「そうだ」
対岸の一人が小石を拾って、橋の石畳に投げた。
石が跳ねて川に落ちた。
「早くしろよ。日が暮れるぞ」
ラッドが投げられた場所を見た。
石が当たった跡を確認した。
濡れているかどうか確かめるように、足先でその場所を軽く踏んだ。
構えを戻した。
また足元を見た。
俺は少し考えた。
滑るのが怖いから踏み込めない。
踏み込めないから三人が安心して煽っていられる。
煽られるたびに足元を確認して、確認するたびに止まる。
止まれば止まるほど煽られる。
ループしていた。
「ちょっと聞くけど、足元を確認するの、今何回目?」
ラッドが黙った。
「さっきと同じ場所を見てるじゃん。確認するたびに何が変わるの?」
「……変わらない」
「じゃあ何回確認しても意味ないじゃん。あと対岸の三人、橋の上にはまだ来てないじゃん。なんで来ないんだろ。橋だと横に広がれないから数の利が消えるんじゃない? ってことはラッドが橋の上にいる間はむしろ有利なんじゃないの? 攻めなくていい可能性がある。てかそもそも石畳って均等に濡れてる? 欄干の近くと中央で違くない? 日当たりが違うから端は乾きにくくて中央は乾きやすい傾向があって、あと構えを変えるたびに体重移動してたんだけど、あれって滑る確率上がってない? 静止してた方が安全なのに、むしろ自分で揺らしてたかもしれない。あと橋の石の並び方が――」
「一個だけ言え」
ラッドが遮った。
「石畳の真ん中を踏んでみたら?端より乾いてる」
ラッドが足元を見た。
橋の端と中央を見比べた。
確かに、中央の方が石の色が薄かった。
乾いていた。
ラッドが一歩踏み出した。
中央を踏んだ。
滑らなかった。
また一歩。
滑らなかった。
足が前に出た。
前に出たら止まらなかった。
対岸の三人が後退し始めた。
ラッドが走り込んだ。
速かった。
対岸まで駆け抜けた。
三人が散った。
あとは早かった。
しばらくして、橋の上が静かになった。
ラッドが橋の中央に戻ってきた。
息を整えながら、また足元を見た。
今度は地面全体ではなく、石畳の中央部分だけを確認していた。
端には目がいっていなかった。
橋の上を歩いてこちら側に戻るときも、一本の線を踏むみたいに中央だけを踏んでいた。
「俺のやることはやった。次行くわ」
ラッドが足元から目を上げた。
「……ああ」
短い返事だった。
「視線が低くなったのは草原のときの影響か」
「あのとき俺が言ったんだよ。役に立ってるじゃん」
「役に立ってるかどうかは今判断できない」
「なんで」
ラッドが石畳の中央を一度踏んだ。
確認するみたいに。
「……真ん中の方が安全に見える」
ラッドは短く言って、また足元を見た。
俺は橋を出た。
次なる宿主を求めて。
体がないので川の風は当たらなかったが、水音だけが耳元を通り抜けた。
「やっぱり俺、地形読みの専門家だわ。石畳の中央が乾いてるって見抜いたのは俺だしね。ラッドが踏み込めたのも俺のおかげだよ。どこでも真ん中を踏むようになるかもって言ってたけど、それは慎重さが定着した証拠だから悪いことじゃないと思う。たぶん。問題があるとすれば石畳じゃない場所でも同じことをするようになることだけど、それはラッドの話だから俺の範囲外。俺は橋の上の話しかしてないから」
橋の上で、ラッドが歩き出した。
中央だった。
反省はゼロだった。
自己評価が拳ひとつぶん大きくなった。




