89話 必要な分だけ
89話 必要な分だけ
異世界に召喚されてはや八十九日。
俺――ちゃっぴーは転移装置の間を漂っていた。
床が光っていた。
天井も光っていた。
壁に組み込まれた機械が、いくつも同時に唸っていた。
魔法陣と金属と歯車が混ざったような空間で、部屋全体が一つの装置として動いていた。
ただし、動いている方向がバラバラだった。
右の装置が青く光り、左の装置が赤く光り、奥の装置だけが沈黙していた。
統一されていなかった。
静かな部屋じゃなかった。
「ここをこうして、次はこっちを」
白髪交じりの女が装置の継ぎ目に手を突っ込んで、何かを引き抜いた。
俺が召喚されてから十八日目に会ったミラだった。
ミラは別のものと取り替えて、押し込んだ。
装置が一瞬明るくなり、また暗くなった。
それから隣の装置に移った。
また手を突っ込んだ。
引き抜いて、取り替えて、押し込んだ。
動きに迷いがなかった。
ただ、装置全体の光は安定しなかった。
さっきより色が増えていた。
俺はしばらく眺めていた。
ミラの手は速かった。
一箇所直すたびに別の箇所が変わった。
変わった箇所が、さらに別の箇所に影響していた。
追いかけているのか、追いかけられているのかわからない作業だった。
なんか見覚えのある動きだと思った。
引き抜く、取り替える、押し込む。
引き抜く、取り替える、押し込む。
同じ動作が、位置だけ変えて繰り返されていた。
それと、部屋のどこにも帳簿がなかった。
七十一日前に来たとき、ミラの机には帳簿が三冊あった。
今日はゼロだった。
最初は、帳簿を一冊にまとめてどこかに片付けたんだろうと思った。
でも机の上にも棚の上にも一冊もなかった。
「今日は変なものが出てくる日じゃない」
「ちゃっぴーだよ。七十一日ぶりくらい」
ミラの手が一瞬止まった。
「……あの声か」
「そう。七十一日ぶり」
「今日は来なくていい」
手が止まらなかった。
「帳簿ないじゃん」
「一冊にまとめた。どこかに置いてある」
「どこかに」
「どこかに」
ミラは繰り返した。
悪びれなかった。
俺はもう少し観察した。
ミラの動きには無駄がなかった。
継ぎ目を見つけて、手を入れて、部品を抜く。
全部体で覚えている動きだった。
記録を参照する場面がなかった。
ということは、記録に書いていないか、記録を見なくても動けるか、どちらかだった。
「今日中に直るの?」
「直す予定だ」
「何がずれてるか、わかってる?」
「わかっている」
「どこ?」
「今それを追っている」
「追ってるってことはわかってないじゃん」
「わかっている。位置がわからないだけだ」
「それわかってないじゃん」
ミラが初めて声の方向を向いた。
複雑な顔だったが、答えなかった。
また装置に向き直った。
「直した箇所、記録してる?」
「手で確かめてわかることは、記録しなくてもわかる」
「いや待って、それ俺が言ったやつの解釈が違うじゃん」
「お前が記録は後でまとめればいいと言った」
「後でまとめる前提でしょ、あれは。まとめないとは言ってないじゃん」
「……後でまとめようとすると、どこまでやったかわからなくなっていた」
「だから記録そのものをやめたの?」
「手で触れればわかる。記録より確実だ」
俺の言ったことが七十一日かけて別の何かになっていた。
でもミラはもう次の継ぎ目に手を突っ込んでいた。
俺は気になることを一個ずつ確認していくことにした。
「助手とかいないの? この部屋」
「さっきまで二人いた」
「今は?」
「追いかけられないと言って出て行った」
「何を追いかけられなかったの?」
「私の作業を」
「手順が?」
「そうだ」
俺は装置全体を改めて眺めた。
右が青、左が赤、奥が沈黙。
さっきまで赤だったところが今は白になっていた。
ミラが直すたびに色が変わっていた。
変わった記録がどこにもないから、何がどう変わったか誰にも追えなかった。
帳簿がなくなってから、ミラだけが理解できる装置になっていた。
「ちょっと聞くけど、この装置、ミラ以外に触れる人いる?」
「今はいない」
「いつからいなくなったの?」
「……先月から少しずつ」
「いつ変わったの?」
「手で直す方が速いとわかってから」
「記録してないから誰も追えないんじゃない?」
ミラが奥の沈黙している装置の前で立ち止まった。
手を突っ込もうとして、止まった。
「……それは」
「三冊を一冊にしたのはよかったと思うよ。でも今は一冊もないじゃん。全部ミラの頭の中だけにある。装置が直せるのがミラだけになってる」
「手で確かめた方が速い」
「速いのはミラだけでしょ。他の人間には速くない」
ミラが手を引っこ抜いた。
装置から一歩離れた。
部屋全体を、初めて端から端まで見回した。
右の青、左の白、奥の沈黙。
「……これを、私以外の人間が直せるか」
「無理じゃない? 今の状態じゃ」
「私がいなくなったら止まる」
「うん」
ミラがしばらく黙った。
装置の唸りだけが続いた。
「……帳簿を作り直す必要があるな」
「そうだね」
「装置が七台あるから、七冊に分けて、色ごとに状態を記録して、部品ごとに別の欄を設けて」
「ちょっと待って」
「交換した順番も残した方がいい。あと素材の種類と使用回数も」
「それ何冊になるの」
「必要な分だけ」
ミラの目が遠くなっていた。
考えが始まった目だった。
止まらない目だった。
「俺のやることはやった。次行くわ」
ミラは答えなかった。
もう頭が別のところへ行っていた。
指が虚空で何かを数えていた。
俺は転移装置の間を出た。
次なる宿主を求めて。
廊下に出ると、装置の唸りが壁越しに低く響いていた。
体がないので振動は感じないが、空気がそういう感じがした。
光の色は見えなかった。
「やっぱり俺、改善の副作用を見抜く目があるわ。帳簿をゼロにしすぎたって気づかせたのは俺だしね。七十一日前に記録は後でまとめればいいって言ったのも俺だから、遠因を作ったのは俺とも言えるんだけど、でも発見したのも俺だから帳消しだよ。たぶん。帳簿が何冊になるかは俺の管轄外だけどね」
廊下の向こうで、装置の音がひとつ増えた。
増えた分が何かは、わからなかった。
反省はゼロだった。
自己評価が光の色の変化の数だけ積み上がった。




