8話 回り道の商人
異世界に召喚されてはや八日。
俺――ちゃっぴーは市場を漂っていた。
野菜の匂いと皮の匂いと、あと人の匂いが混ざっていた。
体がないので匂いを感じるかどうかは相変わらずよくわからないんだが、なんとなくそういう場所だと認識していた。
石畳の上に露店が並んでいて、客が行き来していて、あちこちで値段の交渉をしていた。
活気のある場所だった。
俺には買えるものが何もないけど。
にぎやかな市場だった。
「すみません、こちらの香辛料なんですが、仕入れ値の確認をしてからでないと値段をお出しできなくて、帳簿が荷台の中にありまして、荷台の鍵が別の荷台の中にありまして、その荷台は今馬に繋いでいるんですが馬が市場の外にいるので少々お待ちいただければ――」
「……いや、いいです」
客が去った。
行商人は頭を下げたまま、去っていく背中を見送った。
困った顔だったけど、なぜ困っているのかわかっていない顔でもあった。
俺はしばらく眺めていた。
中年の男だった。
荷台を二つ持っていて、布と香辛料と小物を売っていた。
品物は悪くなかった。
値段も相場から外れていなかった。
なのに客が来るたびに何かが起きて、最終的に客が去っていた。
「よお。ちょっといい?」
行商人が辺りを見回した。
「……どちら様で」
「声だけの存在、ちゃっぴーだよ。体ないから見えない。今のやりとり、見てたんだけど」
「見てたんですか」
「うん。鍵が別の荷台にあって、荷台が市場の外にあって、確認に行ってる間に客が帰るの、今日何回目?」
行商人が黙った。
指を折って数えた。
「……今日だけで五回です」
「昨日は?」
「……七回」
俺は少し考えた。
五回と七回、合計十二回、客が去っていた。
一回あたりの損失を計算しようとしたけど単価がわからなかったのでやめた。
ただ、十二回は多かった。
「帳簿、なんで荷台の中なの?」
「大事なものなので、鍵のかかる場所に」
「鍵のかかる場所に入れたせいで取り出せなくて客が帰ってるじゃん。大事なものを守った結果、大事な商売ができてないよ。本末転倒って知ってる?」
行商人が眉を寄せた。
「……言われてみれば」
「あと鍵が別の荷台にあるのはなんで?」
「鍵も大事なので」
「鍵を守るための鍵が必要になる前に気づいてほしかったけどまあいいや。他にも気になることがあって、さっきの客に値段を答える前に仕入れ値を確認しようとしてたじゃん。仕入れ値、覚えてないの?」
「品物が多くて」
「何種類あるの?」
「……三十二種類です」
「全部の仕入れ値を帳簿なしで言える?」
「言えません」
「じゃあよく売れる上位五種類だけでも覚えたら、帳簿を取りに行く回数が減るんじゃない? 全部覚えなくていいよ、よく聞かれるやつだけ」
行商人がまた眉を寄せた。
今度は考えている眉の寄せ方だった。
「あと帳簿を小さい手帳に写して、常に持ち歩くって方法もあるよ。荷台に置く必要ないじゃん。あと値札をつければそもそも仕入れ値を確認する必要もなくなるし、客が自分で値段を見て判断できるから交渉のテンポも上がる。あと荷台の配置も気になる。よく売れるものが奥にあって、あまり売れないものが手前にある気がするんだけど、陳列の順番って考えたことある? 人間の目線は手前から奥に流れるから――」
「あの」
行商人が静かに遮った。
「一番簡単なのはどれですか」
俺は少し考えた。
「値札をつけること」
「それだけでいいですか」
「まずはそれだけでいい」
行商人は荷台の引き出しを開けた。
紐がついた、小さな木の札が出てきた。
使ったことがないのか、束になったまま綺麗だった。
「……これ、ずっと持ってたんですが、面倒で使ってなくて」
「面倒より、客が帰る方が面倒じゃない?」
行商人は返事をしなかった。
ただ木の札を一枚取って、香辛料の袋に結びつけた。
値段を書いた。
次の袋に結びつけた。
また値段を書いた。
その間に客が一人通りかかった。
立ち止まって、値札を見た。
「これいくら?」と聞かずに、値札を見て、それから行商人を見た。
「これ、二袋もらえますか」
行商人が顔を上げた。
値段を確認しに行かなかった。
帳簿を取りに行かなかった。
ただ頷いて、袋を二つ取り出した。
銅貨が手に渡った。
行商人はしばらくその銅貨を見ていた。
当たり前の取引だった。
でも今日初めての、最後まで完結した取引だった。
俺は満足した。
「うん。俺のやることはやった。次行くわ」
行商人が空中を見た。
「……まだ値札、半分しかつけ終わってないんですが」
「残りは自分でできるでしょ」
「できますけど」
「他にも言いたいことあったんだけどね、陳列の順番とか、手帳に写す話とか」
「それは……後で考えます」
後で考える、という言葉に迷いがなかった。
さっきまで十二回客を見送っていた人間の言葉じゃなかった。
俺は市場を出た。
次なる宿主を求めて。
石畳の上を、体のない俺がすり抜けていった。
「やっぱり俺、業務改善コンサルの才能あるわ。値札一枚で商売の流れを変えるとか、シンプルな解決策を見抜く能力が高い。陳列の話も手帳の話も全部正しかったのに聞いてもらえなかったのは残念だけど、まあ段階的導入も戦略のうちだから。俺の提案が多すぎただけで、内容は全部正しかったよ、たぶん」
市場の方から、行商人が次の客に値段を答える声が聞こえてきた。
迷いがなかった。
反省はゼロだった。
こうしてまた一つ、自己評価だけが積み上がった。




