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86話 届かない信仰

86話 届かない信仰

 

 

 

異世界に召喚されてはや八十六日。

 

俺――ちゃっぴーは礼拝堂を漂っていた。

 

 

 

石造りの礼拝堂だった。

 

窓から光が差し込んでいた。

 

祭壇に蝋燭が並んでいて、その前に長椅子が何列か並んでいた。

 

香の煙が細く上がっていた。

 

体がないので匂いを感じるかどうかは例によってよくわからないんだが、そういう場所だと認識していた。

 

静かな礼拝堂だった。

 

 

 

ただし、完全には静かじゃなかった。

 

白い法衣の老人が、信徒らしき男の前に立っていた。

 

老人に見覚えがあった。

 

三十七日目に会った教皇、ゼフスだった。

 

あのとき取り消し線を引いていた。

 

手順の羊皮紙に。

 

今日は羊皮紙を持っていなかった。

 

代わりに分厚い経典を持っていた。

 

 

 

俺はしばらく眺めていた。

 

信徒の男は祭壇の前で跪いていた。

 

両手を胸の前で組んで、目を閉じていた。

 

祈りの姿勢だとわかった。

 

ゼフスが経典を開いて差し出した。

 

信徒が目を開けた。

 

経典を見た。

 

受け取らなかった。

 

また目を閉じた。

 

 

 

ゼフスが経典を少し下げた。

 

また持ち上げた。

 

信徒は動かなかった。

 

 

 

ゼフスが経典を閉じた。

 

口を開いた。

 

信徒が頷いた。

 

また口を開いた。

 

信徒がまた頷いた。

 

それから立ち上がろうとして、途中で膝を戻した。

 

また跪いた。

 

また目を閉じた。

 

前に進んでいなかった。

 

 

 

俺はしばらく眺めていた。

 

ゼフスの手順は丁寧だった。

 

七回、同じことをやっている人間の手つきだった。

 

俺には思い当たることがあった。

 

手順だ。

 

三十七日目に会ったとき、ゼフスは三十年分の手順を疑わずに続けていた。

 

今回もそれだ、と俺は思った。

 

祈りの手順が足りていない。

 

組み立て直せば動く。

 

 

 

「よお ちょっといい?」

 

ゼフスが振り返った。

 

空中を向いた。

 

「……ちゃっぴーか」

 

「覚えてたじゃん」

 

「取り消し線の件は今も機能している」

 

「それはよかった。今のも手順の問題でしょ」

 

ゼフスが少し眉を動かした。

 

「……どういうことだ」

 

「七回同じ指導が通じてないなら、指導の手順を変えた方がいいじゃん。祈りを三段階に分けて、最初は姿勢だけ、次は呼吸、最後に言葉、みたいにすれば定着しやすいと思うんだけど」

 

ゼフスが黙った。

 

「あと経典、渡すタイミングが早い。相手が体の動きを覚える前に文字情報を入れると混乱するから、最初の二回は経典なしでやってみた方がいいよ」

 

「……信仰の指導に順番を設けたことはない」

 

「じゃあそれが問題じゃん」

 

 

 

ゼフスが信徒の男を見た。

 

男は長椅子の端に座って、祭壇の蝋燭を見ていた。

 

手順を考えている顔じゃなかった。

 

違う顔だったが、俺はまだ手順の話を続けていた。

 

「あと跪く角度も気になる。膝の位置が少し外向きで、長時間維持しにくいはずだよ。祈りが途中で崩れるのはそのせいじゃない? 体幹への負荷を減らす姿勢に直せば集中が続くと思うんだけど、骨盤の角度を――」

 

「ちょっと待ってください」

 

男が口を開いた。

 

「姿勢の問題ではないんです」

 

「なんで? 崩れてたじゃん」

 

「崩れたのは、感じられなかったからです」

 

「感じられない?」

 

「神を」

 

 

 

ゼフスが経典を持ち直した。

 

俺は少し止まった。

 

手順の話じゃなかった。

 

 

 

「……神を感じたくてここに来ています。七回やって、一度も感じられなかった」

 

「感じるために正しく祈ることが必要だ」とゼフスが言った。

 

「正しく祈れば感じられるんですか」

 

「そのための作法がある」

 

男が少し黙った。

 

「父は作法を知りませんでした。それでも神を感じていると言っていました。だから自分も感じられるはずなんです」

 

「それは例外だ」

 

「例外ですか」

 

「稀にそういう者がいる。ただし正式な信仰とは言えない」

 

「正式でないと届かないんですか」

 

「届き方が違う」

 

「父の信仰は届いていなかったと?」

 

 

 

ゼフスが経典を開いた。

 

「そう言っているのではない。ただ作法には意味がある」

 

「作法がなくても感じられた人がいます」

 

「だから例外だ」

 

「なぜ例外になるんですか」

 

 

 

二人とも「信仰」という言葉を使っていた。

 

使っているのに向いている方向が違った。

 

ゼフスにとって信仰は作法から始まるものだった。

 

男にとって信仰は感じることから始まるものだった。

 

どちらも確信を持っていた。

 

どちらも相手が間違っていると思っていた。

 

 

 

「ちょっと聞いていい?」

 

俺はゼフスに向かって言った。

 

「なんだ」

 

「今、何の話をしようとしてるの?」

 

「作法の話だ」

 

男が言った。

 

「私は感覚の話をしています」

 

「それじゃん」と俺は言った。

 

二人が俺の方を向いた。

 

「作法の話なのか感覚の話なのか、そこを先に決めないと同じところをぐるぐるするだけじゃん。どっちの話をするつもりなの?」

 

ゼフスが言った。

 

「作法だ。作法が信仰の基礎だ」

 

男が言った。

 

「感覚です。感じられない作法に意味はない」

 

ゼフスが言った。

 

「だから作法が足りないと言っている」

 

男が言った。

 

「だから感じられないと言っています」

 

 

 

礼拝堂が静かになった。

 

静かなのに、さっきより音が増えた気がした。

 

 

 

「俺のやることはやった。次行くわ」

 

ゼフスが俺の声の方を向いた。

 

「何もしていないのではないか」

 

「話の構造は観測した」

 

「解決していない」

 

「どっちが正しいかは俺にはわからない。でも七回同じことして噛み合わないのは、話の前提が違うからじゃない? たぶん」

 

ゼフスが経典を閉じた。

 

男は蝋燭を見ていた。

 

二人の間に、さっきまでとは少し違う沈黙があった。

 

それが何の沈黙かは俺にはわからなかった。

 

 

 

俺は礼拝堂を出た。

 

次なる宿主を求めて。

 

 

 

外は午前の光だった。

 

体がないので光の温度はわからないんだが、なんとなく午前という感じがした。

 

「やっぱり俺、構造の可視化が得意だわ。最初は手順の問題だと思ってたけど、話しながら作法と感覚で前提が違うってところまで辿り着いたのは俺だしね。解決しなかったのは認識不一致型だから仕方ない。そういう判断ができるのも俺の専門性だし。骨盤の角度の話が空振りだったのはちょっと惜しかったけど、まあ全体的には合格だよ。たぶん」

 

 

 

礼拝堂の中から、低い声が聞こえてきた。

 

一つじゃなかった。

 

二つあった。

 

蝋燭の光が、外まで細く漏れていた。

 

 

 

反省はゼロだった。

 

今日も静かに、自己評価だけが蝋燭の灯火のように立ち上った。

 

 

 

 

 


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