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84話 また止まってる

84話 また止まってる

 

 

 

異世界に召喚されてはや八十四日。

 

俺――ちゃっぴーは宿屋のカウンターを漂っていた。

 

 

 

ここに来たのは俺が召喚されてから三十二日目ぶりだった。

 

木のカウンターに鍵が並んでいた。

 

ランプが一つ灯っていた。

 

昼過ぎの時間帯で、客の出入りが少ない時間だとわかった。

 

静かな受付だった。

 

 

 

カウンターの中で、丸い体型の女が帳簿を開いていた。

 

帳簿は一冊だった。

 

以前来たときより二冊減っていた。

 

あのときの店主だとわかった。

 

 

 

女は帳簿を開いたまま、鍵の列を見た。

 

鍵を見て、帳簿に戻った。

 

また鍵を見た。

 

また帳簿に戻った。

 

何かを確かめているようだったが、帳簿を閉じなかった。

 

何もしなかった。

 

 

 

俺はしばらく眺めていた。

 

鍵の列に、五番の鍵がなかった。

 

帳簿の今日のページには、五番に二つの名前が書いてあった。

 

一つは昨日からの連泊、もう一つは今日の新規だった。

 

同じ部屋に二組分の名前が入っていた。

 

 

 

女は気づいていた。

 

気づいた上で、帳簿を閉じなかった。

 

指でなぞって、また止まっていた。

 

 

 

これは前に見た動作だった。

 

あのときは帳簿三冊を行き来しながら止まっていた。

 

今回は帳簿一冊を前にして止まっていた。

 

止まり方が同じだった。

 

帳簿が減っても、止まる人は止まるらしかった。

 

 

 

従業員らしき若い男が奥から出てきた。

 

「三番のお客様、チェックアウトされました」

 

「ありがとう。鍵を戻しておいて」

 

「はい。あと五番の連泊のお客様、夕方には戻るって言ってました。新規の方の到着も夕方の予定です」

 

「……わかった」

 

男が鍵を棚に戻した。

 

帳簿を見なかった。

 

奥に戻った。

 

 

 

女がまた帳簿を見た。

 

五番の名前を見た。

 

指でなぞった。

 

閉じなかった。

 

夕方だった。

 

夕方が来れば二組が同じ部屋に向かう。

 

 

 

俺の最初の仮説は「書き間違いに気づいていない」だった。

 

でも女の指はその箇所を何度もなぞっていた。

 

気づいていない人の動作じゃなかった。

 

仮説を捨てた。

 

次の仮説は「直し方がわからない」だった。

 

でも一冊の帳簿を自分で運用しているはずで、書いた本人なら直し方もわかるはずだった。

 

仮説を捨てた。

 

三番目の仮説は「誰かが気づいて動くのを待っている」だった。

 

従業員が帳簿を見て指摘してくれるのを待っている。

 

でも従業員はさっき帳簿を一度も見なかった。

これは待っても来ない種類の待ちだった。

 

 

 

「よお ちょっといい?」

 

女が顔を上げた。

 

カウンターの外を一瞬見てから、また帳簿に視線を落とした。

 

「……ちゃっぴーさん」

 

「また来た。帳簿、一冊になってるじゃん」

 

「おかげさまで」

 

「今、何か見てた?」

 

「……見ていました」

 

「五番、二組入ってない?」

 

女が黙った。

 

図星の黙り方だった。

 

 

 

「気づいてるじゃん」

 

「……気づいています」

 

「従業員には言った?」

 

「……まだです」

 

「なんで」

 

女がカウンターの端を指でなぞった。

 

以前とよく似た動作だった。

 

「私の確認ミスかもしれない」

 

「帳簿に二つ書いてあるじゃん」

 

「書いたのが間違いかもしれない」

 

「確認すればわかるじゃん」

 

「でも……私が騒ぐほどでもないかもしれない」

 

「夕方に二組来るじゃん。どっちが五番に入るの?」

 

女がまた黙った。

 

今度は長かった。

 

 

 

「ちょっと聞くけど、前に帳簿三冊使ってたの、確認を増やせば安心だったから?」

 

「……そうかもしれません」

 

「確認を減らしたのに、今度は言い出すのが怖い?」

 

「……そうは言っていません」

 

「でも今、言えてないじゃん。確認は減らせたけど、また別の場所で止まってる」

 

女が口を閉じた。

 

反論しなかった。

 

 

 

「帳簿を一冊にするのに気づくのに何年かかったの」

 

「……そんな話はしていません」

 

「してなかった。でも三十年は経ってそうな顔してた、前回」

 

「……余計なことを言わないでください」

 

「今回も同じくらい待つ?」

 

「……待ちません」

 

「でも今待ってるじゃん」

 

女が帳簿を見た。

 

鍵の列を見た。

 

五番の空欄を見た。

 

「……言います」

 

言った。

 

でも動かなかった。

 

「言うって言ったじゃん」

 

「……今言おうとしていました」

 

「今も立ってるじゃん」

 

「……準備しています」

 

「何の?」

 

女が答えなかった。

 

帳簿を閉じた。

 

また開いた。

 

「帳簿開け閉めするのが準備なの?」

 

「……違います」

 

「じゃあ何が準備?」

 

女が答えなかった。

 

でも奥に向かって声を出した。

 

「……ちょっといい? 五番の確認をしてほしいんだけど」

 

 

 

奥から従業員が出てきた。

 

帳簿を指さした。

 

従業員が覗き込んだ。

 

「……あ、重複してますね」

 

従業員が予約の紙を探した。

 

棚を開けて、別の棚を開けた。

 

「……ありました。えっと……日付、読みにくいですね。一日か七日か」

 

女が立ち上がって覗き込んだ。

 

二人でしばらく紙を見た。

 

「……とりあえずお客様に確認してみます」

 

「お願い」

 

従業員が奥に戻った。

 

確認はこれからだった。

 

 

 

女がカウンターに戻った。

 

帳簿を見た。

 

五番のページはまだ修正されていなかった。

 

「……まだわかりませんでした」

 

「そうだね。でも動いたじゃん」

 

複雑な顔だった。

 

解決した顔ではなかった。

 

感謝と自己嫌悪が、前回と同じ割合で混ざっていた。

 

 

 

「俺のやることはやった。次行くわ」

 

「……今回も、気づいていたのに動けなかった」

 

「そうだね」

 

「前とおんなじです」

 

「問題の中身は違うけどね」

 

女が短く笑った。

 

声にならない笑いだった。

 

 

 

俺は宿屋を出た。

 

次なる宿主を求めて。

 

 

 

昼の通りに出ると、空が明るかった。

 

体がないので日差しは当たらないが、そういう時間帯だとわかった。

 

「やっぱり俺、再訪問の効果が高いわ。前回帳簿を一冊にさせたのも俺で、今回気づいてるのに動けないのを動かしたのも俺だしね。問題が毎回違うのに同じ店主が同じ場所で詰まってたのを二回連続で解決したのは俺だよ。たぶん。五番の件がまだ片付いてなかったのは気になるけど、夕方までに確認が終われば俺の介入が間に合ったことになる。連続攻略じゃん。体ないのに」

 

 

 

宿屋の戸口の方から、従業員が客に声をかけているのが聞こえてきた。

 

五番のことだった。

 

 

 

反省はゼロだった。

 

今日も静かに、自己評価が鍵の数だけ増えていった。

 

 

 

 

 

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