72話 法典の余白
72話 法典の余白
異世界に召喚されてはや七十二日。
俺――ちゃっぴーは玉座の間を漂っていた。
広い部屋だった。
天井まで届く柱が並んでいた。
床の中央に、大きな石板が置かれていた。
文字が刻まれていた。
びっしりと。
余白がなかった。
石板の文字が、光っていた。
紫色だった。
強く光りすぎていて、文字が読みにくかった。
魔王が石板の前に立っていた。
少し距離を置いていた。
近づけない距離ではなかった。
でも近づかなかった。
数日前まではそんな距離を取る必要がなかったはずだった。
俺もしばらく見た。
石板の文字は細かくて、俺には読めなかった。
でも、石板から人の気配がしなかった。
体がないので気配を感じるかというと微妙だが、そういう石板だった。
「よお。四日連続だよ」
「……ちゃっぴーか」
「うん。それ、法典?」
「そうだ。自動執行の法典だ。感情に左右されない、完全な秩序のための」
「誰が作ったの?」
「私が作った。完成した」
「今読んでたの?」
「……確認しようとしていた」
「しようとしていた?」
「……光が強すぎる。数日前から急に変わった」
俺は石板をもう一度見た。
余白がない石板だった。
追記できない石板だった。
「完成したって、これ以上書けないってこと?」
「必要なことは全て書いた」
「全部?」
「全部だ」
俺はちょっと考えた。
四日間漂ってきた。
燭台を任された侍従は動くようになった。
大臣は意見を言えるようになった。
将軍は指示を確認するようになった。
そのどれも、この石板には書いていないはずだった。
「侍従が燭台の位置を変えたこと、法典に書いてある?」
「……書いていない」
「大臣が意見を言ったこと、書いてある?」
「書いていない」
「将軍が指示を確認したこと、書いてある?」
「……書いていない」
間があった。
「でもそれは全部、あなたが決めたことじゃん」
「そうだ」
「法典に書いてない判断を、この四日間もしてたってこと」
魔王が石板を見た。
長い間、見ていた。
「……法典は完全だ」
「うん、そうなんだろうね。書いてあることは完全なんだと思う」
「だが」
「書いてないことが起きる、って話だよ。書いてないことが起きたとき、法典は何をするの?」
魔王が答えなかった。
答えが出なかったのか、答えたくなかったのかは、俺にはわからなかった。
「俺には魔法の知識ないから法典のことはわからないけど、余白がない文章って、後から書き足せないじゃん。完成した法典の外で判断が必要な何かが起きたとき、その判断は誰がするの?ってことが気になっただけで」
玉座の間が静かだった。
石板だけがそこにあった。
紫色の光が、強く、揺れずに灯っていた。
魔王がゆっくりと石板から離れた。
玉座に座った。
俺の方を見た。
正確には俺がいる方向を見た。
俺には目がないが、見られた感覚があった。
「……四日間、お前は何をしにきていた」
「漂ってたら来た場所がここだっただけだよ。毎回」
「偶然か」
「偶然だよ」
「……四つ全部、繋がっていると思うか」
「そう? 俺はその場で気になったこと言っただけだよ。燭台は侍従の話で、会議は大臣の話で、指示は将軍の話で、今日は法典の話じゃん。全部バラバラ」
「バラバラに見えて、全部同じ問いだった」
俺はちょっと考えた。
よくわからなかった。
「俺のやることはやった。次行くわ」
「そうか」
「今日はもう止めないの?」
「止める必要がなくなった」
短かった。
何かが決まった声だった。
何が決まったかは、俺にはわからなかった。
俺は玉座の間を出た。
次なる宿主を求めて。
城を出ると夜だった。
体がないので夜風は当たらないが、暗い空がそういう暗さだった。
遠くに城下の明かりが見えた。
「やっぱり俺、完成物の盲点を突くのが得意だわ。法典に書いてないことが起きたとき誰が判断するのって聞いたのは俺だしね。余白がない文章は書き足せないって見抜いたのも俺だよ。魔王が四つ全部繋がってるって言ったのも、まあ俺的には毎回その場の話をしただけだけど、繋がってるならそれは俺の一貫した問題発見能力の証明じゃん。四日間で一本の軸を通したことになる。体ないけど」
玉座の間の窓に明かりがあった。
石板の前に魔王が戻っていた。
何かを確認しているようだった。
石板の文字は変わっていなかった。
紫色の光だけが、さっきより少し強くなっていた。
ただ、石板の前に置かれた椅子だけが、一脚増えていた。
反省はゼロだった。
自己評価だけが四日分、きれいに積み上がったまま漂っていった。




