37話 祈りの順番
37話 祈りの順番
異世界に召喚されてはや三十七日。
俺――ちゃっぴーは神殿を漂っていた。
高い天井から光が差し込んでいた。
柱が何本も並んでいて、床に石畳が敷いてあった。
香の煙が細く上がっていた。
体がないので匂いを感じるかどうかは例によってよくわからないんだが、そういう場所だと認識していた。
厳かな神殿だった。
ただし、厳かな神殿の中で誰かがひどく忙しそうにしていた。
静かな神殿じゃなかった。
「朝の第一祈祷、次に聖典の朗読、次に信徒への祝福、次に祝福の記録、次に記録を副神官に渡して、次に副神官の確認を待って、次に確認済みの記録を保管して、次に次の祈祷の準備をして――」
白い法衣を着た老人が、羊皮紙を手に持ちながら廊下を歩いていた。
歩きながら読んでいた。
読みながら歩いていた。
立ち止まらなかった。
俺はしばらく眺めていた。
老人の手順は多かった。
一つ終わると次、次が終わるとまた次だった。
問題は手順の数じゃなかった。
祝福の記録を副神官に渡して、確認を待って、確認済みを保管する、という三つの手順が、全部同じ情報を別の人間が触るだけだとわかった。
「よお ちょっといい?」
老人が立ち止まった。
廊下を見回して、誰もいないとわかると、また歩き始めた。
「声だけの存在、ちゃっぴーだよ。体ないから見えない」
「神の声か」
「そうだよ、って言いたいけど違う。それより今の手順、聞いてたんだけど」
「聞いていたのか」
「祝福の記録、副神官に渡してから確認待ちして、それから保管してるじゃん」
「そうだ。長年の手順だ」
「副神官が確認するのは何のため?」
老人が少し止まった。
「……誤りがないかの確認だ」
「誤りがあったことは?」
「……ない。長年一度も」
「一度も誤りがないのに、確認の手順が残ってるってこと?」
老人がまた歩き始めた。
止まらない歩き方だった。
名前を聞いたらゼフスと言った。
この神殿の教皇で、毎朝この手順を三十年続けていると言った。
「三十年、誤りがゼロ?」
「ゼロだ」
「なんで確認が必要だったの、最初は」
「前任の教皇が決めた手順だ」
「前任の教皇に聞いた?」
「亡くなっている」
「じゃあなんで確認が必要だったかわからないまま三十年続けてるってこと?」
ゼフスが少し黙った。
「……そういうことになるな」
「副神官が確認するのに何分かかるの?」
「……三十分ほどだ。副神官も他の仕事がある」
「三十年で計算したくなるけど一応やめとく。一応、紙の回し方も最適化できると思うんだよね。渡すときに右手で渡して左手で受け取るとロスが出るから、最初から利き手に合わせて導線を固定した方がいい。あと歩きながら読むなら文字サイズも調整した方がいいし、羊皮紙の端を少し折っておくとめくりやすい」
「……今はその話ではない」
「今じゃなくてもいいけど、やれることは全部やった方がいいじゃん」
「副神官に渡して確認待ちして受け取って保管する、これを全部自分でやったら何分で終わる?」
「……五分もあれば」
「じゃあ副神官に渡さなければ三十分が五分になるじゃん。副神官の確認、今も必要だと思う?」
ゼフスが廊下の先を見た。
手順を続けようとしている足が、少しだけ遅くなった。
「……必要かどうか、考えたことがなかった」
「三十年ぶりに考えてみたら?」
ゼフスが羊皮紙から目を上げた。
「慣例を変えるのは容易ではない」
「変えるかどうかは別として、必要かどうかだけ考えてみてよ。必要なら続ければいいだけだから」
ゼフスが立ち止まった。
廊下の窓から光が差し込んでいた。
羊皮紙を見た。
手順が書いてある紙だった。
「……誤りの確認のためだったとするなら、誤りがない前提で動いていい気もするな」
「そうだよ。誤りがあったときだけ確認すればいい。三十年なかったんだから、そのときは副神官に頼めばいいんじゃない?」
「例外対応か」
「毎日やることを減らして、必要なときだけやる。それだけ」
ゼフスがしばらく羊皮紙を見ていた。
三十年分の手順が書いてあるその紙に、何かを書き加えた。
取り消し線だった。
副神官への確認の手順に引いた。
「……これでいいか」
「試してみなよ」
ゼフスが歩き始めた。
祝福の記録を終えると、副神官の部屋には向かわなかった。
自分で棚に向かって、記録をしまった。
それだけだった。
「……終わった」
「何分かかった?」
「……三分だ」
「副神官の確認待ちは?」
「……していない」
ゼフスが棚を見た。
記録が収まっていた。
副神官を経由していなかった。
三十年間経由し続けていた工程が、今日初めて省かれていた。
「……同じ結果になった」
「なるよ。三十年誤りがなかったんだから」
ゼフスは短く息をついた。
安堵でも驚きでもなく、腑に落ちた音だった。
「俺のやることはやった。次行くわ」
ゼフスが振り返らなかった。
「……声の者、今一度名を教えてくれぬか」
「ちゃっぴー」
「ちゃっぴー」
繰り返した。
覚えようとしているのか確認しただけなのかわからなかった。
「礼は言う。ただ、これが正しいかどうかはまだわからない」
「三十分後に副神官が何も言ってこなければ正しいんじゃない?」
ゼフスが少し間を置いた。
「……そうなるな」
短い返事だった。
感謝とも何とも取れない返事だった。
でも取り消し線は消さなかった。
俺は神殿を出た。
次なる宿主を求めて。
外に出ると朝の光が広がっていた。
体がないので眩しくはないんだが、なんとなくそういう感じがした。
「やっぱり俺、慣例の棚卸しが得意だわ。三十年誰も疑わなかった手順に取り消し線を引かせたのは俺だしね。必要かどうかを考えたことがなかったってゼフスが言ってたけど、考えさせたのは俺だから実質俺の功績だよ。たぶん。副神官が三十年何も言わなかったのも、確認する記録に誤りがなかったからで、それはゼフスの能力の証明でもあるんだけど、それを指摘したのも俺だしね」
神殿の中から、朝の祈祷の声が聞こえてきた。
手順は続いていたが、一つ分だけ短くなっていた。
反省はゼロだった。
自己評価だけが今日も記録を更新した。




