32話 宿帳の重さ
異世界に召喚されてはや三十二日。
俺――ちゃっぴーは宿屋のカウンターを漂っていた。
木のカウンターに、鍵が並んでいた。
壁に部屋の番号が書いた札が下がっていて、ランプが一つ灯っていた。
宿屋の受付だとわかった。
夜の入口の時間帯で、客が来始める前だとわかった。
静かな受付だった。
静かなはずだった。
「まず昨日の宿帳を写して、次に今日の宿帳を開いて、次に鍵の在庫を確認して、次に確認した鍵を宿帳に記録して、次に記録した宿帳を昨日の写しと照合して――」
カウンターの中で、丸い体型の女が独り言を言いながら帳簿をめくっていた。
帳簿が三冊あった。
全部開いていた。
全部に何かが書いてあった。
女の手が三冊の間を行き来していた。
俺はしばらく眺めていた。
三冊の帳簿に書いてある内容を確認した。
一冊目は宿帳で、客の名前と部屋番号が書いてあった。
二冊目は昨日の宿帳の写しだった。
三冊目は鍵の管理帳で、鍵の番号と状態が書いてあった。
同じ情報が三冊に分散していた。
あの日のミラと構造が似ていた。
ただしミラは発明家で、こちらは宿屋の店主だった。
「よお ちょっといい?」
女が帳簿から顔を上げた。
カウンターの外を見た。
誰もいないとわかると、また帳簿に向き直った。
「声だけの存在、ちゃっぴーだよ。体ないから見えない」
「お客さんなら部屋はもう少し後で案内します」
「客じゃない。今の作業、見てたんだけど」
「見ないでください、仕事中です」
「帳簿、三冊使ってるじゃん」
女が手を止めた。
「……使ってますが」
「全部に何を書いてるの?」
「一冊目が今日の宿帳、二冊目が昨日の写し、三冊目が鍵の管理です」
「なんで昨日の写しが要るの?」
「照合するためです」
「何と照合するの?」
「今日の宿帳と照合して、連泊のお客様が漏れていないか確認します」
「確認してどうするの?」
「鍵の管理帳に反映します」
「鍵の管理帳に何を書くの?」
「連泊か新規かを記録します」
俺は少し整理した。
今日の宿帳に昨日の写しを照合して、その結果を鍵の管理帳に書く。
三冊を経由して、最終的に鍵の状態がわかる。
「最終的に知りたいのは、鍵がどの部屋に出ていてどの部屋が空いてるかってこと?」
「そうです」
「それ、鍵を見ればわかるんじゃない?」
女が止まった。
「……鍵を見る、というのは」
「カウンターに鍵が並んでるじゃん。あそこにない鍵が出てる部屋で、ある鍵が空いてる部屋でしょ。帳簿を三冊照合しなくてもわかるんじゃない?」
女が長い間黙った。
カウンターの鍵の列を見てから、帳簿を見た。
そして、また鍵を見た。
「……鍵を見れば一目でわかります」
「でしょ」
「でも記録がないと困ります。連泊のお客様の名前とか、チェックインの時間とか」
「それは宿帳一冊に書けばいいじゃん。写しと鍵の管理帳が要る?」
「写しは昨日の情報を確認するためで」
「昨日の宿帳をそのまま取っておけば写さなくていいんじゃない? 写すのに時間がかかって、写し間違いが起きる可能性もある」
女がまた黙った。
今度は帳簿の二冊目を見た。
昨日の写しだった。
「……写すのに三十分かかります」
「毎日?」
「毎日です」
「取っておくだけなら何分?」
「……ゼロです」
「じゃあ写さなくていいじゃん」
女が二冊目の帳簿をそっと閉じた。
三十年分の習慣を閉じる顔だった。
「鍵の管理帳は?」
「……鍵を見れば済むなら、いらないかもしれません」
「客の名前と部屋番号と連泊かどうかは宿帳一冊に全部書けばいい。照合も写しも要らない」
女が一冊目の宿帳を開いた。
今日の日付のページだった。
「……これだけでいいんですね」
「そうだよ。止まってるのも良くないけど、増えすぎてるのも同じくらい良くないね」
女がカウンターの鍵を一度見渡した。
並んでいる鍵と出ている鍵が一目でわかった。
「……なんだ、これで全部わかる」
小さく言った。
自分に呆れた声だった。
客が一人入ってきた。
女が宿帳を開いた。
名前を聞いて、書いた。
部屋番号を書いた。
鍵を渡した。
「いらっしゃいませ、三番のお部屋です」
終わった。
帳簿を三冊行き来しなかった。
照合しなかった。
写さなかった。
「……速い」
女が小声で言った。
俺に言ったのか自分に言ったのかわからなかった。
「俺のやることはやった。次行くわ」
女がカウンターから顔を上げた。
「……ありがとうございます。ただ」
「ただ?」
「これ、気づいていた気がします。でも変える機会がなかった」
「機会があれば変えられたってこと?」
「……そうなります」
複雑な顔だった。
感謝と自己嫌悪が混ざった顔だった。
「まあ今日変えたからいいんじゃない」
「……そうします」
短い返事だった。
また次の客の対応に向いていた。
閉じた二冊の帳簿には戻らなかった。
俺は宿屋を出た。
次なる宿主を求めて。
夜の通りに出ると、宿屋のランプの光が背中の方向から届いていた。
体がないので温かくはないんだが、なんとなくそういう感じがした。
「やっぱり俺、業務フロー削減の専門家だわ。三冊を一冊にして、写しと照合をゼロにしたのは俺の提案だしね。鍵を見れば済むって気づかせたのも俺だよ。女が気づいていた気がするって言ってたけど、気づかせたのは俺だから実質俺の功績だよ。たぶん。毎日三十分の写し作業をなくしたんだから、年間で計算すると相当な時間を生み出したことになる。体ないのにすごい貢献だと思う」
宿屋の中から、客を案内する声が聞こえてきた。
帳簿をめくる音はしなかった。
反省はゼロだった。
今日も静かに、自己評価だけが積み上がっていった。




