20話 沈まない網
異世界に召喚されてはや二十日。
俺――ちゃっぴーは港を漂っていた。
潮の匂いがした。
体がないので匂いを感じるかどうかは例によってよくわからないんだが、そういう場所だと認識していた。
木造の桟橋が何本か海に伸びていて、船が繋がれていて、カモメが鳴いていた。
朝だった。
漁に出る前の時間帯だとわかった。
のどかな港だった。
俺には釣る手段が何もないけど。
静かな港だった。
「沈め。沈め。沈め」
桟橋の端で、男が海に向かって呟いていた。
目が血走っていた。
手に網を持っていた。
網は海に入っていたが、浮いていた。
「沈め。沈め。沈め」
沈まなかった。
俺はしばらく眺めていた。
男の網は確かに浮いていた。
水面でぷかぷかしていた。
それを男がひたすら念じていた。
念じても沈まなかった。
物理法則は念じても変わらないと俺は思っていたが、ここは異世界なのでわからなかった。
ただ、三十分見ていて一ミリも沈まなかったので、たぶん念じても無駄だった。
「よお ちょっといい?」
男が振り返った。
誰もいないとわかると、また海に向き直った。
「沈め。沈め」
「無視しないでよ」
「沈め」
「網の話、聞いてほしいんだけど」
男がようやく手を止めた。
振り返った。
目が血走ったまま俺の声の方向を向いた。
「……なんだ」
「声だけの存在、ちゃっぴーだよ。体ないから見えない。今の、ずっと見てたんだけど」
「見るな」
「なんで沈まないの、その網」
男が黙った。
肩が少し落ちた。
名前を聞いたらドナと言った。
生まれつき手から熱を出せる体質で、触れたものを温める能力があるらしかった。
普段は漁の前に船底を温めて木材の収縮を防いだり、冬場に仲間の体を温めたりするのに使っているらしかった。
「でも網を沈めたくて」
「なんで?」
「深いところに魚の群れがいる。浅瀬に来ない種類だ。あそこに網を沈められれば今月の不漁が一気に解決する」
「熱を出す能力で網を沈めようとしてたの?」
「熱いものは上に行くから、冷たくすれば沈むと思った」
「熱を出す能力で冷たくしようとしてたわけ?」
ドナが黙った。
言葉にされると余計におかしかった。
「……そうなる」
「能力の使い方、逆じゃん」
「わかってる」
「わかってて三十分念じてたの?」
「わかってるけど他に方法がない」
俺は少し考えた。
熱を出す能力がある。
網を深く沈めたい。
この二つを繋ぐ方法が念じることしかないと思っていた。
前提が一個だけ間違っていた。
「ちょっと聞くけど、網って何でできてるの?」
「麻だ」
「麻って、濡れると重くなる?」
「なる」
「じゃあ熱を使って網を乾かしたら、逆に軽くなって余計浮くよね」
「そうなる」
「網に重りをつけたことは?」
「重りをつけると引き上げるのが重くて一人では無理だ」
「重りを途中で外せたら?」
ドナが黙った。
「熱で溶けるものを重りの固定に使えばいいじゃん。網が沈んだあと、手で船底越しに熱を当てて固定を溶かせば重りだけ落ちる。引き上げるときは軽い」
ドナが網を見た。
それから自分の手を見た。
「……そんな使い方、考えたことなかった」
「能力を直接網に使おうとしてたじゃん。間接的に使う発想がなかっただけだよ」
ドナが立ち上がった。
桟橋を小走りで戻っていくと、小屋から何かを持ち出してきた。
蝋だった。
網の端に括りつけた石に、蝋を塗り始めた。
「蝋、手持ちであったんだね」
「船底の隙間を塞ぐのに使う」
「それで固定できるかどうかはやってみないとわからないけど」
「やってみる」
あっさりしていた。
三十分念じていた人間と同じ人間とは思えない切り替えだった。
ドナが網を海に投げた。
今度は蝋で固定した石が重りになって、じわじわと沈んでいった。
完全には沈み切らなかったが、さっきより明らかに深いところまで入っていた。
「……沈んでる」
「沈んでるね」
「全部じゃないけど」
「蝋の量を増やせばもっと沈むんじゃない? あと固定の位置も気になる。今、端だけに重りがあるから網が斜めになってる。何箇所かに分散させた方が均等に沈む。あと引き上げるタイミングで熱を当てる距離感も練習が要るよね、船底越しだと届く範囲が限られるから事前に確認した方がいい。あと群れの位置が毎日同じとは限らないから、深さの調整ができるように蝋の量を変えた予備の重りをいくつか用意しておいた方が――」
「わかった」
ドナが網を引き上げた。
改良する気だった。
俺の話を全部聞いていたかどうかは微妙だったが、手が動き始めていた。
俺は満足した。
「うん。俺のやることはやった。次行くわ」
ドナが蝋を追加で塗りながら空中を見た。
「……名前なんて言った」
「ちゃっぴー」
「ちゃっぴー」
繰り返した。
覚えようとしているのか確認しただけなのかわからなかった。
「礼は言う。ただ、まだ魚が獲れたわけじゃないから」
「それでいいよ。うまくいくといいね」
ドナは返事をしなかった。
もう網の改良に集中していた。
俺は港を出た。
次なる宿主を求めて。
朝の光が海面に反射していたが、体がないので眩しくはなかった。
なんとなくそういう感じがしただけだった。
「やっぱり俺、能力の転用発想が得意だわ。直接使えないなら間接的に使えって気づかせたのは俺だしね。蝋を重りの固定に使う発想も、俺がいなければ出なかったよ。たぶん。分散配置の話と距離感の練習の話はちゃんと聞いてほしかったけど、まあ段階的に気づいていくでしょ」
港の方から、網を海に投げる音がした。
さっきより重い音だった。
反省はゼロだった。
今日も静かに、自己評価だけが無駄に高まっていた。




