18話 空回りの発明家
異世界に召喚されてはや十八日。
俺――ちゃっぴーは工房を漂っていた。
金属の匂いと油の匂いが混ざっていた。
体がないので匂いを感じるかどうかは例によってよくわからないんだが、そういう場所だと認識していた。
作りかけの何かが棚に並んでいて、工具が床に散らばっていて、図面が壁に貼ってあった。
天才の巣だった。
ただし、整理されていない天才の巣だった。
静かな工房だった。
「まず素材の硬度を確認して、次に金型の温度を記録して、次に記録した温度を別の帳簿に転記して、次に転記した帳簿と元の帳簿を照合して――」
白髪交じりの女が、羽ペンを走らせながら独り言を言い続けていた。
手が止まらなかった。
でも何かが完成する気配もなかった。
手が動いているのに、作業台の上のものが一向に形を変えなかった。
俺はしばらく眺めていた。
帳簿が三冊あった。
同じような数字が三冊に分散して書いてあった。
書いては確認して、確認しては別の帳簿に移して、またその帳簿を確認していた。
素材には一度も触っていなかった。
これは記録のための記録だと思った。
「よお。ちょっといい?」
女が羽ペンを止めた。
辺りを見回して、誰もいないとわかると、帳簿に目を戻した。
「幻聴か」
「違うよ。声だけの存在、ちゃっぴー。体ないから見えない」
「……また変なものが出た」
「また、って言うほど変なもの出てるの、この工房」
「発明品のせいで稀に出る」
「俺は発明品のせいじゃないけどまあいいや。今の作業、見てたんだけど」
「見るな、仕事中だ」
「帳簿、三冊使ってるじゃん。全部に何を書いてるの?」
女が羽ペンを置いた。
名前を聞いたらミラと言った。
この工房で機械仕掛けの義手を開発していて、今日中に試作品の素材を決めなければいけないと言った。
「素材、いつ決まるの?」
「帳簿の照合が終わったら」
「帳簿の照合、いつ終わるの?」
「……転記が終わったら」
「転記、なんで三冊にやってるの?」
ミラが少し黙った。
「師匠がそう教えた」
「師匠は何のために三冊に分けてたの?」
また黙った。
今度は長かった。
羽ペンを指でくるっと回して、止めた。
「……素材ごとに分類するためだと言っていた」
「今、三冊に分かれてる?」
ミラが三冊を順番に開いて、見比べた。
「……分かれていない。全部に同じ素材が混在している」
「じゃあ一冊でよくない?」
ミラが羽ペンを置いた。
三冊の帳簿を並べて、しばらく眺めた。
それから一冊を手に取って、また置いた。
三十年分の習慣を前に、手が迷っていた。
「一冊にまとめたとして、照合はどうする」
「照合、何のためにやってるの?」
「転記ミスを防ぐため」
「一冊にすれば転記しないから転記ミスも起きないじゃん」
ミラの手が止まった。
「……そうなるな」
「でしょ。あと素材にまだ触ってないじゃん。今日中に決めるんでしょ」
「記録が先だ」
「記録は後でもできるよ。手で触って確かめないとわからないことがあるんじゃないの? 発明家なんだから」
ミラの目が作業台の上の素材に向いた。
二種類の金属の板が並んでいた。
ずっとそこにあったのに、今日初めて見た顔だった。
ミラが立ち上がった。
帳簿には触らなかった。
作業台に向かって、金属の板を一枚手に取った。
曲げて、叩いて、端を爪で引っ掻いた。
それから二枚目を取った。
同じことをした。
「……こっちの方が粘りがある」
独り言だった。
俺に言っているわけじゃなかった。
でも答えが出た顔だった。
「決まったじゃん」
「決まった」
「帳簿なしで」
「……帳簿なしで」
ミラは金属板を持ったまま、少し立ち尽くした。
三十年の手順が、今日初めて省かれた間だった。
「記録はあとでまとめてとればいいよ。一冊に」
「わかった」
あっさりしていた。
抵抗がなかった。
手で触れて答えが出た後だったから、余計なものが全部落ちていた。
俺は満足した。
「うん。俺のやることはやった。次行くわ」
ミラが金属板を作業台に置いた。
振り返らなかった。
「……帳簿を一冊にする手間は誰がやるんだ」
「自分でやって」
「そうだな」
返事は短かった。
感謝でも文句でもなかった。
もう次の作業に頭が向いていた。
俺は工房を出た。
次なる宿主を求めて。
外の空気が工房より澄んでいた。
体がないので澄んでいるかどうかはわからないんだが、なんとなくそういう感じがした。
「やっぱり俺、業務効率化の専門家だわ。三冊の帳簿を一冊に集約する発想、シンプルだけど本質じゃん。しかも記録より先に手を動かせって言ったのも俺だしね。ミラが素材を触って即決したのも、俺が背中を押したからだよ。たぶん」
工房の中から、金属を叩く音が聞こえてきた。
帳簿の音ではなかった。
反省はゼロだった。
今日も静かに、自己評価だけが伸び続けていた。




