183話 届かない鼻先
183話 届かない鼻先
異世界に召喚されてはや百八十三日。
俺――ちゃっぴーは地下洞窟を漂っていた。
松明の灯りが壁を舐めて、奥まで影を伸ばしていた。
岩肌のところどころに水が滲んで、黒く光っていた。
コボルトの集落だった。
俺が召喚されてから百二十五日目に来たときより、通路の数が増えている気がした。
体がないので匂いがわかるかどうかは相変わらず怪しいが、この洞窟はどこか湿っぽい空気をしていた。
静かな集落だった。
静かなはずの、妙な静けさだった。
通路の入口に、茶色い毛並みの獣人が立っていた。
鼻を数回動かして、少し先を覗き込んだ。
それから足を止めた。
一歩も踏み出さなかった。
しばらくそのままでいたあと、来た道を戻っていった。
俺はしばらく眺めていた。
見覚えのある耳の形と、尻尾の先の白い毛。
ガクだった。
別の通路の前でも、同じ動きをしていた。
入口に立つ。
鼻を動かす。
止まる。
戻る。
三本目の通路では、少しだけ様子が違った。
一歩だけ奥に踏み込みかけて、途中で振り返り、また入口まで下がった。
奥までは、結局行かなかった。
これは変な動きだと思った。
匂いを嗅ぐこと自体はできているはずだった。
なのに、どの通路も奥までは進んでいない。
入口で何かを判断して、それで終わっていた。
俺は少し考えた。
通路の奥に何かがあって、その匂いが強すぎて避けてるのかもしれない。
あるいは、複数の匂いが入口付近で混ざって、判断が鈍っているのかもしれない。
体がないので確かめようがなかったけど、どちらもありそうな話だった。
小さな影が、四本目の通路の前を横切った。
子供のコボルトだった。
入口に近づいて、足を止めて、回り込むように別の道へ逸れていった。
その少しあとにも、別の子供が同じ通路の前で立ち止まり、同じように迂回した。
同じ通路だった。
偶然ではなさそうだった。
「よお ちょっといい? ちゃっぴーだよ。体ないから見えない」
ガクが振り向いた。
鼻がこちらに向いて、耳が少し倒れた。
「……匂いがない。また来たのか」
「久しぶり。今日は何してるの」
「見回りだ」
「見回りって、さっきから入口で止まって戻ってるだけじゃん」
ガクの尻尾がぴくりと動いた。
図星のときの動きに見えた。
「匂いは、入口で十分わかる」
「わかった上で戻ってるの? それとも何かわからないから戻ってるの?」
ガクは答えなかった。
鼻だけが小さく動いた。
「あの通路、子供たちも避けてたよ」
「関係ない」
「二回続けてだよ」
「……偶然だ」
俺は少し引っかかった。
匂いは取れている、問題ないと本人は言っている。
なのに誰も奥まで行かない。
匂いの取り方とは別のところに問題があるんじゃないかと思った。
「風のせいかもね。入口と奥で風向きが違うと、匂いの流れが変わって、奥の情報が入口まで届かないことがあるらしいよ。俺の予想だと――」
「風は関係ない」
「じゃあ他の匂いと混ざって埋もれてるのかも。複数の家族の匂いが交差する場所だと、微妙な変化が拾いにくくなるって聞いたことある。俺の考えでは――」
「うるさい」
ガクが耳を伏せた。
「前みたいに、一回だけ全部嗅いでみたら? 絞らずに」
ガクが目を閉じた。
鼻が大きく動いた。
さっきよりゆっくりと、長く。
しばらくそのままでいた。
目を開けた。
「……いつもと同じだ」
「同じ?」
「石の匂い、水の匂い、家族の匂い。いつも通りだ」
何も出てこなかった。
前にはこれでうまくいったのに、今回は何も変わらなかった。
俺は少し黙った。
匂いの問題じゃないのかもしれないと思い始めていた。
でも匂い以外に何を調べればいいのか、俺にはわからなかった。
ガクは四本目の通路の前も素通りした。
鼻を一度動かしただけで、奥は見なかった。
そのときだった。
通路の奥から、短い悲鳴が聞こえた。
子供の声だった。
ガクが動いた。
考える前に、体が先に動いていた。
通路の奥へ、迷わず駆け込んでいった。
俺もついていった。
奥は、思ったより広い空間になっていた。
岩の壁から水が細く流れ落ちて、床の一部が黒く濡れて光っていた。
子供のコボルトが一匹、尻もちをついていた。
すぐ横の壁に、ひびが入っていた。
ひびの下の岩が、少しだけ膨らんでいるように見えた。
ガクが子供を抱え起こした。
それから、濡れた床とひびを交互に見た。
鼻を近づけて、匂いを確かめた。
かすかに水と土の匂いがするだけで、他には何もなかった。
「……匂いは、変わってなかった」
「うん。匂いじゃ出なかったからね」
「ここは、毎日通ってた」
「入口からだけね」
ガクは黙ったまま、濡れた床の脇に転がっていた石を拾い上げた。
ひびの下に押し込むように置いた。
もう一つ、もう一つと積み上げて、水の流れる方向を脇へ逃がした。
床の濡れた範囲が、少しずつ狭くなっていった。
「これで、しばらくは滑らない」
「しばらくって?」
「石が動けば、また同じになる」
「じゃあ他の通路も、同じことがあるかもね」
ガクは何も言わなかった。
濡れた石を、もう一度見た。
子供のコボルトが、ガクの脚にしがみついていた。
ガクはそのまま、しばらく動かなかった。
「俺のやることはやった。次行くわ」
「……匂いじゃ、わからないこともあるんだな」
「あるらしいね。俺も今知った」
「礼は言わない」
「前もそうだったね」
「今回もだ」
俺は洞窟を出た。
次なる宿主を求めて。
岩の出口を抜けると、外の光が差し込んでいた。
体がないので眩しさは感じないが、色の変化でわかった。
遠くで、水の滴る音がまだ続いていた。
「やっぱり俺、原因究明の勘が鋭いわ。匂いで説明つかない現象を見抜いて、鼻以外の可能性に切り替えさせたの俺だしね。子供が転んだのは偶然だけど、あそこに問題があるって最初に気づいたのは俺の観察眼だよ。たぶん。ガクが石を積んだのも、俺が匂いの限界を教えたからこそできたことだと思う」
洞窟の奥から、複数の足音が重なって聞こえてきた。
さっきより多く、あちこちの通路へ向かっている音だった。
反省はゼロだった。
自己評価だけが、鼻の届かない場所まで伸びていった。




