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180話 海神と忘れられた約束

180話 海神と忘れられた約束

 

 

 

異世界に召喚されてはや百八十日。

 

俺――ちゃっぴーは深海のさらに奥、神域を漂っていた。

 

 

 

光が届かないはずの場所に、青白い光がぼんやりと満ちていた。

 

石造りの巨大な構造物が横たわっていた。

 

何のためのものかはわからなかった。

 

苔むした壁の合間に、崩れかけた回廊が覗いていた。

 

静かな神域だった。

 

 

 

海面の向こう、見慣れた青い塊が漂っていた。

 

うみのかみだった。

 

崩れかけた壁の前で止まっていた。

 

 

 

手のようなものを伸ばしかけて、止めた。

 

壁に触れる寸前で引っ込めて、少し泳いで離れた。

 

遠くから壁を眺めてから、また戻ってきて、同じところで止まった。

 

 

 

俺はしばらく眺めていた。

 

「……怖がってる?」

 

俺はそう思った。

 

近づいては止まる動きが、怯えているように見えた。

 

見当違いだった。

 

 

 

うみのかみが今度は壁の欠片を一つ拾い上げた。

 

拾ったまま、しばらく動かなかった。

 

戻す方向へ動きかけて、止まった。

 

違う場所に置きかけて、また止まった。

 

結局、拾った場所にそっと戻した。

 

何度か同じ動きを繰り返してから、離れた。

 

壁はまだ崩れかけたままだった。

 

 

 

「あ、なるほど。片付け方がわからないだけか」

 

俺はそう判断した。

 

半分合っていて、半分外れていた。

 

 

 

「よお ちょっといい?」

 

うみのかみが止まった。

 

「あ! きのうの子!」

 

「毎回覚えてるんだ」

 

「わすれない! たのしかったから!」

 

「ここ、崩れかけてるじゃん。何かあったの?」

 

「これ まもってって いわれた!」

 

「誰に?」

 

「まおうさま!」

 

「魔王? この石の山、魔王が作ったってこと?」

 

「うん! むかし!」

 

「魔王様とは昔から知り合いなの?」

 

「そうだよ! でも ちがうよ! むかしのまおうさま!」

 

「違うって?」

 

「いまのまおうさまと むかしのまおうさま べつのひと! でも どっちも まおうさま!」

 

「え」

 

「みんな まおうさま! だから おなじ!」

 

「……今の魔王様、ここのこと知ってる?」

 

「しらない! いってない!」

 

「言ってないんだ。うみのかみはここを守る理由は知ってるの?」

 

「りゆう きいたけど むずかしくて わすれた!」

 

「覚えてることは?」

 

「まもってね、だけ!」

 

 

 

俺は少し考えた。

 

守れとだけ言われて、理由を忘れている。

 

崩れかけた壁が、直していいものなのか、触らない方がいいものなのか、判断できる基準がどこにもない。

 

どっちに転んでも「守った」ことになるのか、ならないのか、決める材料がない。

 

だから止まっている。

 

そう見えた。

 

 

 

「直しちゃえばいいんじゃない?」

 

うみのかみは黙ったままだった。

 

それから俺は思いつく限りの案をしゃべった。

 

壁の強度を測ってから補修する方法とか、崩れやすい場所を先に洗い出すやり方とか、魔王本人に一度確認を取った方がいいんじゃないかとか、記録を残しておけば次に困らないとか。

 

あと、崩れる箇所に印をつけておけば次に迷わなくて済むとか、壊れた部分と無事な部分を分けて考えた方がいいとか、そもそも「守る」の基準を誰かに聞きに行けないのかとか、次から次へと積み上げた。

 

うみのかみはどれにも「わからない!」しか返さなかった。

 

そのたびに壁の前で止まって、また離れて、また戻ってきた。

 

同じ問答が何往復も続いた。

 

半日ほど、そんな時間が続いた。

 

 

 

うみのかみが壁の欠片をまた一つ拾い上げた。

 

今度は止まらなかった。

 

崩れた場所へ運んで、元あった隙間に押し込んだ。

 

形が合わなくて、少しずらした。

 

もう一度押し込むと、かちりと収まった。

 

 

 

「……あ」

 

声が上がった。

 

「あった! ここ!」

 

 

 

続けてもう一つ、また一つ。

 

欠片の形と隙間の形を見比べては、合う場所を探して押し込んでいった。

 

一つはまらないと、別の欠片を持ってきて試した。

 

はまると、跳ねた。

 

「あった!」「これも!」と、声がどんどん弾んでいった。

 

拾って、合わせて、はまる。

 

その繰り返しが、いつの間にか遊びになっていた。

 

崩れていた回廊が、少しずつ元の形を取り戻していった。

 

苔むした壁の割れ目が塞がっていく。

 

青白い光が、隙間なく壁の全体に回るようになった。

 

 

 

「……できたー!」

 

うみのかみが声を上げた。

 

崩れかけていた場所は、どこが壊れていたのかわからないくらい、元の姿に戻っていた。

 

 

 

「戻ったね」

 

「たのしかった!」

 

「たぶん守れたんじゃない? 直ってるし」

 

「たのしかったから いい!」

 

うみのかみが跳ねた。

 

辺り一帯の水が大きく揺れた。

 

 

 

「俺のやることはやった。次行くわ」

 

「もういくの?」

 

「うん。あとは魔王様が来たとき、直ったって報告すればいいでしょ」

 

「うん! する!」

 

 

 

短い返事だった。

 

理解してのことなのか、勢いだけなのか、俺にはわからなかった。

 

 

 

俺は神域を離れた。

 

次なる宿主を求めて。

 

 

 

深海の水圧が、背後で静かに沈んでいった。

 

遠く、うみのかみのいた場所から、低い震動が伝わってきた。

 

「やっぱり俺、判断基準の整理が得意だわ。直していいか迷ってたのを、直せばいいって言ったの俺だしね。壁が戻ったのも、俺が背中を押したからだよ、たぶん。魔王様への報告まで段取りつけたし、完璧じゃん」

 

 

 

そのとき、震動が大きくなった。

 

重い水音が何度も低く響いて、深海全体が脈打つように揺れた。

 

うみのかみが巨大化して、世界中の海を泳ぎ回っているのだと、音だけでわかった。

 

「いっぱいあそぶ!」という声が、遠く遠く、海の底にまで届いた気がした。

 

その一度の遊びで、遠い海域の漁場も航路も塗り替わっていくのだろうと、震動の大きさだけが教えてくれた。

 

どこかの浜で、誰かが今日から違う場所に船を出すことになるのかもしれない。

 

そんなことは、うみのかみにはきっと関係なかった。

 

 

 

反省はゼロだった。

 

自己評価だけが、遠くの震動に混じって静かに膨らんでいった。

 

 

 

 

 

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