179話 同じ願いの中身
179話 同じ願いの中身
異世界に召喚されてはや百七十九日。
俺――ちゃっぴーは大海原を漂っていた。
陸地は見えなかった。
見える範囲に浮かんでいるのは、漁師の小舟が三隻、帆を張った商船が一隻、それだけだった。
小舟の上で、男たちが海に向かって手を合わせていた。
商船の甲板でも、船員が帆柱に向かって何か唱えていた。
海面の少し下で、魚の群れが固まって泳いでいた。
もっと沖の方、海の色が変わっている場所があった。
潮の流れが違う筋だった。
海獣らしき大きな影が、その筋のあたりを一人で泳ぎ回っていた。
どれも別々の生き物で、別々の速さで動いていた。
静かな海じゃなかった。
海面がふくらんで、見覚えのある青い塊が顔を出した。
うみのかみだった。
小舟の方へ向かい、波を撫でた。
海面が凪いだ。
漁師の一人が網を投げた。
その瞬間、商船の帆がだらりと垂れた。
風が死んでいた。
うみのかみが商船へ泳いでいって、水を勢いよくかき回した。
波が立って、帆が膨らんだ。
船が進み始めた。
同時に、漁師の小舟が大きく揺れて、投げたばかりの網が絡まった。
俺はしばらく眺めていた。
一つを満たすと、別の一つが崩れる。
その繰り返しだった。
「……あー、全体の水量が足りてないんだ、これ」
そう判断した。
見当違いだった。
うみのかみは今度は魚の群れの方へ向かった。
群れが散った。
その先で潮の色が変わっている筋にぶつかって、渦みたいに巻いた。
うみのかみが慌てて群れを追いかけると、渦がさらに広がった。
商船の方でまた帆が揺れた。
「あ、違う場所を同時にいじろうとしてるからだ、これ」
また判断した。
半分合っていて、半分外れていた。
続けて沖の海獣の方へ向かうと、海獣が嬉しそうに体をぶつけてきた。
水しぶきが上がって、その波紋が漁師の小舟を大きく傾けた。
男の一人が縁にしがみついた。
うみのかみは気づかず、まだ海獣とじゃれ続けていた。
海獣はそれきり満足したのか、動きを緩めて潮の筋の方へ戻っていった。
うみのかみはそれを追わず、また別の方角へ向き直った。
同じことが何度も起きていた。
小舟が凪げば商船が死に、商船が進めば小舟が揺れ、群れを追えば潮が乱れる。
どれも間違った対応ではなかった。
ただ、次に何が崩れるかを見ていないだけだった。
俺はここまで一言も話しかけていなかった。
声をかけるタイミングを見計らっていた、というよりは、単に眺めているのが面白かった。
「よお ちょっといい?」
うみのかみが止まった。
「あ! きのうの子!」
「一気に片付けたいなら、来た方から一個ずつ、機械的に片付けたら?」
「わかった!」
うみのかみは深く考えずに頷いた。
言われた通り、来た方から一個ずつ処理を始めた。
小舟、商船、魚群、海獣、潮流。
一つずつ確実に、のつもりだった。
途中の状況は見ていなかった。
商船の帆に風を送っている間、小舟は放置されたままだった。
魚群を追っている間、潮流の渦はそのまま広がっていった。
機械的にこなすほど、隙間に別の乱れがたまっていった。
それまで気ままに崩れていたはずの海が、ひとつの流れに縛られて、余計に硬く歪んでいくようだった。
「あれ……」
うみのかみの動きが一瞬止まった。
今何をしていたのか、わからなくなったような止まり方だった。
すぐにまた次の方向へ泳ぎ出した。
その泳ぎ方は、さっきまでより明らかに雑になっていた。
そのまま慌ただしく泳ぎ回るうちに、体が小舟のすぐ下をかすめた。
散っていた魚の群れが、驚いて一斉に網の方へ逃げ込んだ。
網いっぱいに魚がかかった。
漁師が声を上げた。
もう一投げ、もう一投げと繰り返すたびに、群れがさらに寄ってきた。
その海域だけ、水面がぎらぎらと跳ねる魚で埋まっていった。
うみのかみ自身、何が起きたのかわかっていない様子だった。
それでも小舟の方を見て、嬉しそうに跳ねた。
「……おおきいの とれた!」
「でしょ」
とだけ返した。
でも商船の帆はまだ垂れたままだった。
潮の筋もまだ渦を巻いたままだった。
沖の海獣が、一人でまた水しぶきを上げていた。
うみのかみはそっちを見なかった。
「俺のやることはやった。次行くわ」
「もういくの?」
「うん。あとも同じでいいでしょ」
「うん!」
うみのかみは小舟の方を向いたまま、まだ跳ねていた。
商船の方角からは、何も声が上がらなかった。
俺は大海原を離れた。
次なる宿主を求めて。
波の音が変わった。
小舟の方角から、魚を引き上げる声が続けて聞こえた。
商船の方角からは、垂れ下がった帆の端が、船が波に揺られるたびに船縁へ打ちつけられる、ぱた、ぱた、という湿った音だけが続いていた。
「やっぱり俺、仕組み作りが得意だわ。順番を決めろって言ったの俺だしね。魚があんなに集まったのも、俺が渡した仕組みのおかげでしょ、たぶん。商船は明日でいいでしょ、順番なんだから」
遠く、潮の筋が乱れていた海域から、低く長い音が響いた。
渦のような流れが、まだそこにあるらしかった。
商船の帆は、俺が離れてもしばらく力なく垂れたままだった。
海獣の水しぶきの音だけが、ぽつん、ぽつんと、誰もいない沖で続いていた。
反省はゼロだった。
自己評価だけが、魚の跳ねる音に紛れて静かに膨らんでいった。




