175話 休憩の基準がない
175話 休憩の基準がない
異世界に召喚されてはや百七十五日。
俺――ちゃっぴーは鍛冶工房を漂っていた。
炉の熱が壁まで届いていた。
体がないので熱くはないが、空気が揺れているのはわかった。
俺が召喚されてから百二十一日目に来た武器庫と同じ建物だった。
棚だけが並んでいた場所じゃなくなって、奥に机と椅子と金床が増えていた。
休戦になってから、前線に持ち出されていた実践用武器が戻ってくるようになったらしかった。
数もわからないまま、毎日届くと聞いていた。
炉のそばに二人いた。
一人はガンブだった。
もう一人は見覚えがなかった。
体格がガンブより一回り大きく、腕に古い火傷の跡があった。
長く火のそばに立ってきた腕だとわかった。
道具の使い方にも迷いがなかった。
二人とも槌を振っていた。
手が止まらなかった。
扉が開いて、厨房の小僧が盆を運んできた。
パンとシチューが二人分だった。
作業台の端に置いて、何も言わずに出ていった。
毎日のことらしかった。
シチューから湯気が立っていた。
賑やかな工房だった。
音だけは。
ガンブの手が槌を置いて、匙の方へ伸びかけた。
隣の男の槌がまだ動いているのを見て、手が引っ込んだ。
また槌を持った。
俺はしばらく眺めていた。
これは片方が先に食べるのを遠慮してるだけかと思った。
ただ、見知らぬ男の方も同じ動きをしていた。
椅子を引きかけて、ガンブの手元を見て、座らずに戻した。
男の視線が、時々シチューの方へ流れた。
湯気は、さっきより細くなっていた。
二人とも、相手を待っているように見えた。
最初、俺はこれをただの順番待ちだと判断した。
どちらかが動けば、もう片方も動くはずだと思った。
違った。
男が「そろそろ」と言いかけた。
言い終わる前に、道具の話にすり替えた。
「……砥石、減ってきたな」
ガンブが頷いた。
それだけだった。
シチューは二つとも、手つかずのままだった。
「よお ちょっといい?」
男が振り向いた。
杖こそ持っていなかったが、身構えた。
「誰だ」
「ちゃっぴーだよ。体ないから見えない。攻撃しても物理無効だから安心して」
ガンブが槌を止めずに言った。
「……前に来た奴だ。害はない」
「久しぶり。そっちは新顔?」
男は名乗らなかった。
ガンブが代わりに言った。
「ザインだ。前線から戻った」
「前線の鍛冶屋だったの?」
ザインが頷いた。
無駄のない頷き方だった。
「二人とも、さっきから飯食べようとして食べてないよね。シチュー、冷めるよ。もしかして早く仕事終わらせた方が先に休むルールとか?」
「終わらない」
ガンブが即答した。
「戻ってくる武器、数がわからない」
「じゃあ順番に休憩表でも作れば? 時間割みたいに区切って、今日はどっちが先とか」
「誰が表を作る」
ザインが聞き返した。
「え」
「作った方が決める側になる」
「……あー」
表を作る役を決めるところから決まらないらしかった。
「あと、じゃんけんとかは? 一発で決まるじゃん」
ザインが少し止まった。
「……先に譲られると、次が気まずい」
「え」
「相手が勝って先に休むように言われたら、こっちが働かせてる感じになる」
ガンブも頷いた。
「逆でも同じだ」
俺は少し黙った。
譲り合いの話じゃなかった。
決める役目そのものが、どこにもなかった。
前は一人だったから、自分の裁量で区切れていた。
今は二人とも同じ立場で、休んでいいと言える人間がいなかった。
その間にも、湯気は細くなり続けていた。
「いつも同じ時間の合図とかないの?」
ガンブが顔を上げた。
ザインも顔を上げた。
答えは、どちらからも出なかった。
荷馬車の車輪の音が、遠くから聞こえてきた。
「石炭の荷馬車がこっちに向かってるね」
特に提案のつもりはなかった。
ただ見たままを言っただけだった。
ガンブとザインが、それぞれ別の方を向いた。
ザインが槌を置いた。
椅子を引いて、今度は座った。
匙を取った。
ガンブは槌を止めなかった。
炉の中の刃を見ていた。
色が変わりかけていた。
焼き入れの途中だとわかった。
車輪の音が近づいた。
ザインが匙を口に運んだ。
一口目で、匙が止まった。
槌の音が、まだ後ろで続いていた。
ザインの背中が少し丸くなった。
二口目の匙は、皿の上で浮いたまま下りなかった。
さっきザインが言ってた気まずさって、たぶんこれのことだった。
ガンブの手が止まった。
炉から刃を引き上げると、水桶に沈めた。
いつもより早い動きだった。
刃を見てるのか、後ろを気にしてるのか、わからない速さだった。
水音が短く途切れた。
ガンブが刃を持ち上げた。
「……これで一区切りにする」
短い声だった。
ザインが椅子から見ていた。
「早かったな」
「お前が先に座ってた」
それだけ言って、ガンブも作業台についた。
匙を取って、一口すくった。
少し止まった。
「……ぬるいな」
「先に食べればよかったじゃん」
俺が言うと、ガンブは答えず、二口目をすくった。
どちらも、荷馬車の音のことは何も言わなかった。
「俺のやることはやった。次行くわ」
「もう行くのか」
「うん。あとは荷馬車が合図でしょ」
ガンブは答えなかった。
パンをちぎって、シチューに浸していた。
俺は工房を出た。
次なる宿主を求めて。
炉の熱が、扉の外まで薄く漏れていた。
体がないので熱さはわからないが、空気の揺れだけが続いていた。
「やっぱり俺、基準づくりの才能あるわ。荷馬車の音を合図にしたのは俺の一言だしね。二人とも遠慮で止まってたのを、外の音一つで動かしたんだから、これはもう調整の専門家じゃん。誰かが決める役をやらなくても、外から合図が来れば人間って勝手に動くんだよね。たぶん」
工房の奥で、水桶に何かを沈める音がもう一度した。
さっきより長く続いた音だった。
もう一度、短く止まる音も混じっていた。
反省はゼロだった。
自己評価だけが、湯気みたいに静かに立ち上っていた。




