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171話 下がらない代償

171話 下がらない代償

 

 

 

異世界に召喚されてはや百七十一日。

 

俺――ちゃっぴーは召喚陣の間を漂っていた。

 

 

 

石造りの部屋だった。

 

俺が召喚されてから百十一日目に来た時より床の陣は磨り減っていて、白い線の一部が黒く焦げていた。

 

線の上には、細かい擦れ跡が何本も重なっていた。

 

左右に何度も体重を乗せた跡だとわかった。

 

一箇所にとどまった跡は、どこにもなかった。

 

線の向こうに、灰色の狼がいた。

 

輪郭の揺れ方は前より少なく、外が透ける頻度も減っていた。

 

半分実体化していたはずが、今はほとんど実体に近かった。

 

 

 

奥の壁に、新しい亀裂が走っていた。

 

石が内側から押し出されたような割れ方だった。

 

そこから、小さな影が次々と滲み出てきていた。

 

魔物だとわかった。

 

数は多くないが、一体ずつ形が違った。

 

 

 

静かな部屋じゃなかった。

 

 

 

「下がるな。来た分だけ落とせ」

 

シャルカが叫んだ。

 

契約獣は答えず、線の上で小さく体を揺らした。

 

左に体重を移し、すぐ右に戻す。

 

止まっていなかった。

 

常に、どちらかへ寄ろうとしていた。

 

 

 

左から一体、影が来た。

 

契約獣はちょうど右へ体重を移した直後だった。

 

腕を伸ばしたが、間に合わなかった。

 

影はそのまま抜けて、奥へ回り込んだ。

 

 

 

続けて右から来た。

 

今度は左に体重が残っていた。

 

爪が空を切った。

 

影はぎりぎりを抜けて、亀裂の方へ戻っていった。

 

 

 

俺はしばらく眺めていた。

 

狼はずっと揺れていた。

 

止まっているのではなく、動きすぎていた。

 

どちらに来ても、その一瞬前まで逆に体重が乗っていた。

 

 

 

「よお ちょっといい?」

 

シャルカが一瞬だけ声の方を向いた。

 

「今か」

 

「声だけの存在、ちゃっぴーだよ。体ないから見えない」

 

「知ってる。前にも来た」

 

「うん。今日はこれ?」

 

「見ての通りだ」

 

 

 

両方の命令を同時に叩き込んでから、こうなったと言った。

 

実戦は今日が初めてだと言った。

 

 

 

正面から一体来た。

 

契約獣が線を大きく踏み越えて前に出た。

 

爪が影を捉え、一撃で消えた。

 

すぐに線の真上へ戻り、また揺れ始めた。

 

 

 

「あ、これわかった。多分、反射神経が鈍ってるんだ」

 

契約獣の反応自体は速かった。

 

遅いのは反応じゃなくて、向きだった。

 

違った。

 

 

 

「じゃあ利き足の問題かな。左右どっちかが得意で、そっちに寄りすぎてるとか」

 

左にも右にも、同じだけ体重が乗っていた。

 

片方に偏ってはいなかった。

 

それも違った。

 

 

 

また左から来た。

 

今度は影がシャルカのすぐ近くまで迫った。

 

シャルカが舌打ちして、剣で弾いた。

 

契約獣は、また逆方向に体重が残っていた。

 

 

 

「揺れるタイミング、何か合わせてる感じがするんだよね。理由はわかんないけど、たぶん」

 

「わかんないなら黙ってほしい」

 

「今、考え中」

 

 

 

シャルカが息を整えながら、小さく数を数え始めた。

 

「いち、に、いち、に」

 

無意識の癖らしかった。

 

亀裂から出てくる間隔を、体で測っているようだった。

 

 

 

左から来た。

 

「に」のところで、契約獣の体重が右に流れた。

 

今度は間に合った。

 

爪が影を捉えた。

 

 

 

続けて右から来た。

 

「いち」のところで、体重が左に流れた。

 

また間に合った。

 

 

 

俺はしばらく眺めていた。

 

契約獣の揺れの周期が、シャルカの数え声とほとんど重なっていた。

 

命令の言葉じゃなくて、リズムの方に乗ってるように見えた。

 

理由まではわからなかった。

 

 

 

「なんか今、さっきより当たってない?」

 

シャルカは答えなかった。

 

数えるのをやめずに、次の一体へ腕を伸ばした。

 

声が途切れると、契約獣の揺れも一瞬遅れた。

 

続けている間は、揺れと影の動きが噛み合っていた。

 

続けなければ、また噛み合わなくなる。

 

 

 

亀裂から出てくる影が、やがて途切れた。

 

部屋が静かになった。

 

シャルカは声が枯れかけていた。

 

契約獣は線の上で、まだ小さく揺れ続けていた。

 

数える声が止んだ瞬間、契約獣の揺れだけが同じ周期で続いた。

 

 

 

「俺のやることはやった。次行くわ」

 

シャルカが顔を上げた。

 

「お前が数えろと言ったわけじゃない」

 

「でも、噛み合ってないって気づいたのは俺じゃん」

 

「勝手に気づいただけだろう」

 

「じゃあ次からも勝手に気づくように頑張って」

 

 

 

シャルカの顔は、助かった顔でも、疲れた顔でもなかった。

 

強いて言うなら、そのどちらも混ざっていた。

 

 

 

俺は召喚陣の間を出た。

 

次なる宿主を求めて。

 

 

 

扉の向こうは静かだった。

 

本来なら数える声が漏れてくるはずだったが、扉の向こうからは何も聞こえなかった。

 

声の止んだ静けさだけが、扉の隙間から漏れてきていた。

 

「やっぱり俺、噛み合ってないものを見抜くのが得意だわ。揺れがリズムに乗ってるって言ったの俺だしね。シャルカが数え始めたのも、俺がその話をしたからだと思う、たぶん。数えるの疲れそうだったけど、それはシャルカの仕事だから俺は口出さない。守備範囲をわきまえてる。次はもっと楽な数え方も提案できそうだけど、まあ今日はここまで」

 

 

 

扉の奥から、数える声は最後まで戻ってこなかった。

 

かわりに、低い息の音だけが一度だけ響いた。

 

 

 

反省はゼロだった。

 

今日も静かに、自己評価だけが揺れも止めずに積み上がっていった。







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