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170話 手順にない雨

170話 手順にない雨

 

 

 

異世界に召喚されてはや百七十日。

 

俺――ちゃっぴーは古代遺跡の広場を漂っていた。

 

 

 

広場の石は、俺が召喚されてから六十一日目のまま動かされていなかった。

 

崩さないでくれと言った、その通りになっていた。

 

周りに足場が組まれ、テントがいくつも並んでいた。

 

テントの下で、若い男女が数人しゃがんでいた。

夜のうちに雨が降ったらしい。

 

地面のあちこちに水たまりができていた。

 

魚の尾にあたる場所は、特に深くたまっていた。

 

静かな遺跡じゃなかった。

 

足場の上で誰かが動くたびに、木がきしんだ。

 

 

 

「……本日の作業、手順一番。露払い」

 

テントの下で、助手らしい若い男が刷毛を持ち上げた。

 

石に触れる直前で、止まった。

 

石の周りに水がたまっていた。

 

露じゃなかった。

 

刷毛を置いて、桶に手を伸ばした。

 

伸ばしかけて、止まった。

 

また刷毛を取った。

 

そのまま、水の上を撫でるように動かした。

 

水は動いただけで、減らなかった。

 

 

 

俺はしばらく眺めていた。

 

隣のテントでも、同じ動きが起きていた。

 

刷毛を持ち、水を見て、止まり、桶に伸ばしかけて、また刷毛に戻る。

 

奥のテントも、同じだった。

 

広場中、誰も水を汲もうとしていなかった。

 

 

 

俺が召喚されてから六十一日目に会った時は、男が一人で石を数えていただけだった。

 

百十三日目は、狭い研究室にこもっていた。

 

今は違った。

 

テントが十以上並び、助手らしき人間が広場中に散っていた。

 

規模が変わっていた。

 

男が――前に二度会った、あの学者が――テントの間を歩いていた。

 

手に分厚い冊子。

 

表紙に「発掘手順書 第三版」とあった。

 

歩き方まで、以前より迷いがなかった。

 

 

 

「よお ちょっといい?」

 

男が振り向いた。

 

テントの隙間を見た。

 

誰もいないとわかると、また冊子に目を落とした。

 

「声だけの存在、ちゃっぴーだよ。体ないから見えない」

 

「……お前か」

 

「久しぶり。みんな水たまり撫でてるだけだけど、あれでいいの?」

 

「手順通りだ」

 

「手順に、水たまりのことは書いてある?」

 

男が黙った。

 

図星の黙り方だった。

 

 

 

名前を聞いたらペトラルカといった。

 

「この手順書、俺が作った」

 

男が冊子を掲げた。

 

「未確定という区分も、ちゃんと定義した。基準は五項目」

 

「それ、前より厳しくない?」

 

「厳しくしないと、また何でも未確定になる」

 

「ちょっと聞くけど、刷毛の毛、硬すぎない? 水はじいてるだけじゃない?」

 

「毛の硬さは規定通りだ」

 

「じゃあ桶の位置が遠いとか? 伸ばしかけて戻してるの、距離が合ってないんじゃない?」

 

「桶の位置も規定通りだ」

 

「じゃあ、そこ後回しにすれば? 乾いてるとこから先にやればいいじゃん」

 

「順番は決まってる。抜かせない」

 

「その順番、誰が決めたの」

 

「……俺だ」

 

男の声が少し小さくなった。

 

 

 

広場の反対側で、別の助手が測量の紐を持ったまま立ち尽くしていた。

 

基準点に結ぼうとして、水面に浮いた紐を見て、結ばずに手を止めた。

 

「あそこも止まってるじゃん」

 

「順番通りにやれば、いずれ進む」

 

「でもさ、そこの地面、色が変わってるじゃん。何回も同じ場所で足止まってできた跡っぽいけど」

 

男が黙った。

 

「たぶんだけど、この手順書、水が出たときの項目がないんじゃない? あるならこんなに止まらないと思う」

 

「……ない」

 

「じゃあ足せばいいじゃん。今すぐ」

 

「勝手に手順は変えられない。第四版の会議は来月だ」

 

「来月? それまでずっと水たまり撫でるの?」

 

「そういう規則だ」

 

 

 

男は冊子を見た。

 

広場を見た。

 

足場の下で、刷毛が水面を撫で続ける音がしていた。

 

男が冊子を柱に立てかけた。

 

しゃがんだ。

 

土を素手で掘り始めた。

 

浅い溝が、水たまりから広場の外へ向かって伸びた。

 

水が動いた。

 

今度は減った。

 

 

 

若い助手が手を止めた。

 

「……先生?」

 

「手順にはない」

 

「はい」

 

「だが今は、水を出す方が先だ」

 

 

 

溝の先で水が引いていくと、刷毛の音が変わった。

 

水の上を滑る、頼りない音じゃなくなった。

 

石に当たる、はっきりした音になった。

 

測量の紐も、基準点にまっすぐ届いた。

 

「……進んでる」

 

助手の声が変わった。

 

男は溝を掘る手を止めなかった。

 

広場の反対側にも、同じ溝を伸ばした。

 

 

 

溝が魚の尾の下を通ったとき、指先が何かに当たった。

 

土じゃなかった。

 

硬くて、平らだった。

 

男が周りの土を払った。

 

平らな石の縁が、土の下から続いて現れた。

 

一枚じゃなかった。

 

隣にも、また隣にも、同じ高さで並んでいた。

 

石畳だった。

 

男の手が止まった。

 

助手たちの視線が集まった。

 

誰も刷毛を動かさなかった。

 

「……下に、床がある」

 

男はそれ以上言わなかった。

 

地面の下に何かがある、という項目は、手順書のどこにもなかった。

 

 

 

「俺のやることはやった。次行くわ」

 

「待て」

 

「なに」

 

「……お前、水を出せばいいとは言ってない」

 

「言ってないね。水たまり見て変だなとは思ったけど」

 

「それだけで十分だった」

 

 

 

俺は遺跡を出た。

 

次なる宿主を求めて。

 

 

 

広場の方から、土を掘る音が続いていた。

 

声が二つ、三つ重なった。

 

水の流れる音が、さっきより遠くまで届いていた。

 

「やっぱり俺、現場の異常を見抜く目があるわ。水たまり撫でてるの変だって言ったの俺だしね。手順書に穴があるって指摘したのも俺。先生が土掘り始めたのは、たぶん俺の影響だよ。直接言ってないけど。たぶん」

 

 

 

遺跡の奥で、誰かが冊子をめくる音がした。

 

ページを足す音じゃなかった。

 

何かを消す音だった。

 

 

 

反省はゼロだった。

 

自己評価だけが、水たまりひとつぶん上がっていった。

 

 

 

 

 



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