169話 沈黙を選んだ王
169話 沈黙を選んだ王
異世界に召喚されてはや百六十九日。
俺――ちゃっぴーは謁見室を漂っていた。
俺が召喚されてから五日目で見た部屋と同じだった。
天井は相変わらず馬鹿みたいに高くて、柱が左右に並んでいた。
赤い絨毯も、入口から玉座まで真っ直ぐ伸びていた。
絨毯の途中、いつもより手前で、見慣れない格好の男が立っていた。
敵国の使者だとわかった。
その手前に、大臣らしき数人が固まっていた。
書類を手に、同じ話を繰り返しているようだった。
静かな謁見室、ではなかった。
声だけがぐるぐる回っていて、誰も一歩も動かなかった。
俺はしばらく眺めていた。
「先方は、休戦の条件として国境線を五里北に動かせと」
「拒めば、また前線が動く」
「されど応じれば、譲歩したと国内に伝わる」
「では折衷案として三里ではいかがか」
「三里でも角が立とう」
同じ内容を、少しずつ言葉を変えて三度繰り返していた。
使者は、待つことに慣れた顔で立っていた。
結論は出ていなかった。
玉座の王は、腕を組んで座っていた。
口が開きかけて、止まった。
喉の奥で言葉が形になりかけて、そのまま消えたような止まり方だった。
大臣たちの誰も、それに気づいていなかった。
「暇そうにしてるけど、実は喉の調子が悪いだけ説」
違った。
しばらくして、また同じ動きがあった。
口が開きかけて、また止まった。
今度は拳が少し握られていて、肘掛けの上でそのまま固まっていた。
「あ、痺れてるのかな。長時間座りっぱなしだし」
これも違った。
三度目、王が身を乗り出しかけて、止まった。
それだけだった。
四度目以降は、もう動きすら小さくなっていった。
止めることに慣れているような止まり方だった。
「よお ちょっといい?」
王がわずかに視線を動かした気がした。
「ちゃっぴーだよ。体ないから見えない」
「知っている」
王は短く返した。
「そうだね。前にも来たし」
王は小さく頷いた。
大臣たちがざわついたが、王が手で制した。
使者だけは表情を変えなかった。
「王、さっきから何か言いたそうにしてるじゃん」
「言わぬと決めている」
「なんで」
「以前は、余が全て決めていた。街道も、税も、戦の是非も」
「それのどこが悪いの、うまく回ってたなら」
「回ってはいた。だが余がいなければ何も進まなくなった。大臣たちは、余の顔色を見てから動くようになった」
「顔色見て動くの、便利じゃん」
「便利ではない。余が間違えれば、誰も止められぬ」
「それで今は黙ってるってこと」
「任せると言った。任せねば、いつまでも育たぬ」
「でも育つ前に交渉が終わらなくない、これ」
王は答えなかった。腕を組み直しただけだった。
「三週間前、前線から書状を送ったんでしょ。あれの返事がこれ?」
王が少し驚いた顔をした。
「……知っているのか」
「知ってるよ。あれ、俺が召喚されてから百四十八日目に陣地にいた時に署名したやつでしょ」
「あの書状は、休戦の意思を示すためのものだった。それに応じて、使者が来た」
「じゃあ王が動かしたんじゃん、もう」
「動かしたのは、あの日の署名だ。今日ではない」
「今日も動かさないと終わらないけどね」
王は答えなかった。
大臣たちがまた同じ話を始めた。
「では三里で先方に――」
王の口が、また開きかけた。
今度は止まらなかった。
腕組みを解いて、肘掛けを一度、強く叩いた。
「三里では、境の村が二つ向こうに入る。五里は譲らぬ。二里までだ。それ以上は、余が現地に立つ」
一言だった。
大臣たちが一斉に王を見た。
使者が初めて表情を動かした。
書類が動き出した。
「では二里で文書を」
「使者殿への返答も急ぎましょう」
さっきまでの堂々巡りが嘘のように、話がまとまっていった。
誰も、二里という数字の根拠を確認しなかった。
王が小さく息を吐いた。
「……また、余が口を出してしまった」
誰に言うでもない声だった。
何度目かわからない、という響きがあった。
「王って喋るだけでみんな動くんだ。便利じゃん」
王はこちらを見なかった。
大臣たちは、王の一言だけを根拠に、細かい条件まで自分たちで決めたような顔をして書類を進めていた。
使者もまた、一礼して絨毯を下がっていった。
本当に交渉が終わったのかどうかは、誰にもわからなかった。
王自身にも、わからないふうだった。
「俺のやることはやった。次行くわ」
「……お前が来ると、余はいつも喋ってしまう」
「褒めてる?」
「わからぬ」
「まあ喋った方が早いんだから、それでいいでしょ」
王は何も言わなかった。
俺は謁見室を出た。
次なる宿主を求めて。
廊下に出ると、背後で書類をまとめる音と、複数の足音が重なって聞こえた。
誰かが早口で「二里で」と繰り返していた。
その声だけが、やけにはっきり聞こえた。
遠くで扉が開く音もした。
使者が出ていく音かもしれなかった。
王の声はもう聞こえなかった。
「やっぱり俺、人を動かす力あるわ。王に喋らせたの実質俺だしね。任せるとか我慢とか難しいこと考えてたみたいだけど、結局一言で全部解決したじゃん。前線への書状も王が先に動かしてたみたいだけど、今日の一言がなきゃ終わらなかったんだから、まあ俺の功績だよね」
謁見室の奥から、書類を揃えるような音が一度した。
それきり、しばらく物音がしなかった。
反省はゼロだった。
自己評価だけが、王の一言よりずっと軽い調子で、今日も静かに積み上がっていった。




