167話 二枚の記録
167話 二枚の記録
異世界に召喚されてはや百六十七日。
俺――ちゃっぴーは処刑場の広場を漂っていた。
石造りの台座、周りに立つ衛兵、机の上に積まれた書類。
俺が召喚されてから四十五日目に見た景色とほとんど同じだった。
違うのは、今日は人が多いことだった。
広場の左右に、人が二手に分かれて立っていた。
左側は揃いの外套。
右側は揃いの首飾り。
どちらも貴族の従者だとわかった。
公開処刑のない日は、判決や認定の執行手続きにも使われる広場だった。
中央の机に、オランが座っていた。
覚えのある顔だった。
机の上に、書類が二枚並んでいた。
オランが片方の書類に判を近づけた。
止まった。
判を置いて、もう一枚を見て、また近づけて、また止まった。
「よお ちょっといい?」
オランが判を落とした。
拾って、辺りを見渡した。
「……また来たのか」
「ちゃっぴーだよ。体ないから見えない。覚えてた?」
「忘れるわけがない。前は判決文、今度は判そのものが止まっている」
「あ、それそれ。今の見てて思ったんだけど」
言い始めたら止まらなかった。
「判が下りないの、たぶんインクだよ。判の朱肉とか、乾いてると紙に写る前に一瞬引っかかる感覚があるらしいじゃん。それで無意識に手が止まってるんじゃない?」
「乾いていない」
「え、違うんだ。じゃあ緊張とか? 広場にこんな人数いたら、押した瞬間の音とか視線とか気になって、手が一瞬強張ることってあるでしょ。しかも大事な書類なら失敗できないってプレッシャーで、余計に筋肉固まるパターンあるじゃん」
「緊張もしていない」
「じゃあ日取り? こっちの世界、日によって物事の判断を保留する文化とかありそうじゃん。占い師とか暦とか、今日は判を押すには向いてない日だから無意識に手が止まってる、みたいな」
「日取りに意味はない」
「じゃあ書類そのもの? 左右の紙、よく見るとデザインが微妙に違う気がするんだよね。片方が本物で片方が偽物だから、押していいのか迷って手が止まるとか。一回押したら取り消せないから、慎重になるのはわかるよ」
「判は一つしかない。偽物ではない」
「じゃあ最後、単純に腕が疲れてるとか。さっきからずっと同じ姿勢で紙めくってたし、判って見た目より重いんじゃない?」
「重さは変わらない」
「……全部外れた」
五回連続で外れるのは、初めてじゃなかった。
外れたら、新たな質問をすればいいだけだった。
「今日は何の裁判?」
「裁判じゃない。相続の認定だ」
広場の端で、使いの男が動いた。
書類を抱えて記録保管所の方へ歩き出し、数歩で足が止まり、振り返ってまた机の方へ戻った。
「ほら、あの人も止まってるじゃん。やっぱり広場全体が何かの影響受けてるんだよ。空気中の魔力濃度が高すぎて判断力が鈍るとか、そういうのない?」
「ない」
名前を聞いたら、左右の従者はそれぞれ別の家名を名乗った。
被相続人は、二週間前まで投獄されていた男だと言った。
「その人、今は?」
「そこが問題だ」
オランが二枚の書類を並べ直した。
「一枚は監獄側の記録。処分は継続とある」
「もう一枚は?」
「中央台帳の記録。処分は解放手続き済みとある」
「……それ、前にも似た話聞いたことある気がするんだけど」
「監獄の記録点検のあとから、うちではよくある話になった」
「両方とも正式な記録だから、それぞれの家が自分に都合のいい方を持ってきてるってこと?」
「そうだ。継続なら爵位は弟に移る。解放なら本人に相続権が残る」
「どっちも噛み合ってないまま今日まで来たの?」
「点検のあと、現場でその場しのぎの処理をした結果、記録が二系統に分かれた。今もそのままだ」
左側の従者が一歩前に出た。
「監獄の記録が正式です」
右側の従者も一歩前に出た。
「中央台帳こそ正式です」
二人とも、言い終えると同時に一歩下がった。
どちらも自分の言葉に確信がある顔ではなかった。
俺は少し考えた。
両方とも「正式な記録」という同じ言葉を使っていた。
でも指している紙が違った。
片方は監獄の管理簿、片方は中央の台帳。
言葉は同じでも、中身が違う。
噛み合わないのは当然だった。
「正式って、どっちの紙のこと?」
広場が一瞬静かになった。
左側の従者が顔を上げた。
「……つまり監獄の記録の方が古い分、重いということですね」
右側の従者もほぼ同時に口を開いた。
「……つまり中央台帳の方が新しい分、更新後の正しい情報だということですね」
二人とも、まったく逆の結論に頷いていた。
オランが判を持ったまま、二人を交互に見た。
何も言わなかった。
広場の後方で、別の従者が声を上げた。
「うちの家にも似た記録がある」
そう言って懐から紙を取り出した。
また別の一人が紙を取り出した。
広場のあちこちで、紙が広げられ始めた。
使いの男が、また記録保管所の方へ歩き出した。
今度は途中で止まらなかった。
代わりに、保管所の扉の前でしばらく立ち止まっていた。
「俺のやることはやった。次行くわ」
オランが顔を上げた。
「待て、まだ判を――」
「あとは自分たちで話し合えるでしょ。材料は出したから」
「材料、というか」
「じゃあね」
俺は処刑場を出た。
次なる宿主を求めて。
広場の方から、いくつもの声が重なって聞こえてきた。
一つの声じゃなかった。
紙をめくる音が、何枚も重なっていた。
「また変なところ見つけちゃった。二人とも『正式』の意味が違ったの、俺が聞いたから分かったことじゃん。おかげで話が前に進んだじゃん。まあ最初の仮説は全部外れてたけど、あれは前振りみたいなもんだから。俺は聞いただけ。仕事はした」
門を抜けると、広場のざわめきが遠くなっていった。
それでも、靴音と話し声だけは、しばらく背中の方から重なって聞こえ続けていた。
反省はゼロだった。
今日も静かに、自己評価だけが積み上がっていった。




