166話 止血より先に
166話 止血より先に
異世界に召喚されてはや百六十六日。
俺――ちゃっぴーは前線に近い医療用の天幕を漂っていた。
布の匂いも土の匂いもわからないが、そういう匂いがしそうな空気だった。
天幕の中には簡易寝台が並んでいて、いくつかはもう埋まっていた。
外から呻き声と、運ばれてくる足音が交互に聞こえていた。
静かな場所じゃなかった。
静かになる暇がない場所だった。
寝台の一つで、俺が召喚されてから百十六日目に会った薬師、ミレスが手を動かしていた。
布を巻かれた男の腕から、血がにじんでいた。
ミレスは薬草を取り出して、まず量を測った。
測ってから刻んだ。
刻んでから乳鉢に入れた。
乳鉢に入れてから、水を用意した。
順番通りだった。
いつも通りらしかった。
男の腕からにじむ血は、止まっていなかった。
俺はしばらく眺めていた。
ミレスの手は速かった。
迷いもなかった。
ただ、薬が仕上がる前に、次の寝台からも声が上がった。
ミレスがそっちを見て、また手元に戻った。
量を測って、刻んで、乳鉢に入れる。
最初と同じ順番だった。
これ、材料の置き場所が悪いんじゃないかと思った。
前に籠を分けろって言ったことがある。
今回もそれかもしれないと思った。
「よお ちょっといい?」
ミレスが顔を上げた。
「……お前か」
「久しぶり。ちゃっぴーだよ。体ないから見えない」
「今は取り込み中だ」
「なんか薬草の置き場所、遠くない? 棚から毎回同じ距離歩いてるように見えるけど」
「棚は近くにある」
「あ、そう」
外れだった。
すぐ次を考えた。
「てか乳鉢が小さくない? もっと大きいの使えば一回で量作れて、何度も擦る手間減るんじゃない?」
「量は変えている。器はこれでいい」
これも外れだった。
男が呻いた。
声が大きくなった。
ミレスの手が止まった。
乳鉢を置いた。
測り直した。
また刻み始めた。
三回目だった。
同じ順番を、最初から数えて三回やり直していた。
量を測り、刻み、乳鉢に入れて、水を用意する。
そのたびに、患者の呻きが一段階強くなっていた。
名前は聞かなくても知っていた。
何をしているかも、大体わかった。
熱冷ましでも痛み止めでもない。
出血を止める薬を作ろうとしていた。
「あの薬、できるのどのくらいかかるの?」
「すぐだ」
「すぐって?」
「……十分は要る」
男の腕の血は、十分待てる速さでにじんでいなかった。
「もっと速く作れないの?」
「手順はこれしかない」
「いつもの手順ってこと?」
「そうだ」
俺は少し考えた。
てかさ、いつも通りにやってるだけじゃない?
状況変わってるのに手順変えてないだけなんじゃない?
そう思ったけど、口に出す前に別の声が割り込んできた。
「――失礼する」
天幕の入り口から、白い装束の男が入ってきた。
俺が召喚されてから十二日目に会った神官だとわかった。
腕章に紋章がついていた。
神官は寝台に近づいて、男の腕に手をかざした。
何かを唱えた。
光が腕を包んだ。
血が止まった。
一瞬だった。
ミレスの手が止まった。
乳鉢を持ったまま、光が消えるのを見ていた。
「……便利だ」
短く言った。
「この処置だけは、薬では代用できない」
神官がミレスを見た。
「薬師か」
「そうだ」
「珍しいな、薬師がここに残っているのは」
「患者がいるからだ」
ミレスが乳鉢を置いた。
まだ半分も出来ていない薬だった。
「その術、原理は何だ」
「……は?」
「原理を聞いている。神の奇跡、で終わらせずに答えられるか」
神官が眉を上げた。
「薬師に教えるものではない」
「教えろとは言っていない。原理を聞いている」
「まあまあ。教えなくても、原理くらいはいいんじゃない?」
神官の手が止まった。
「……待て」
声の方を見た。
正確には、声のした辺りを見た。
「その声、前にも聞いた」
「覚えてたんだ」
「神殿だ。予言者のところにいた」
「そうだよ。ちゃっぴー」
「……お前か」
それ以上は言わなかった。
懐かしむ顔ではなかった。
面倒なものがまた来た、という顔だった。
神官は答えないまま、次の寝台に向かった。
また手をかざした。
また光った。
ミレスはそれを見ていた。
乳鉢を置いたまま、手を動かしていなかった。
外の呻き声が、また増えていた。
運ばれてくる担架の音が続いていた。
ミレスが動いた。
乳鉢を脇に置いて、寝台の間を歩いた。
軽い傷の患者には布を巻いた。
重い患者には、神官の方を指差した。
「そっちだ」
測って、刻んで、乳鉢に入れて、水を用意する。
その順番を、今はやっていなかった。
布を巻くか、神官を呼ぶか、二択に減っていた。
「……あれ、なんか変わった?」
別の兵士が、そう呟いた。
ミレスの手が止まらなくなっていた。
神官の方も止まらなくなっていた。
呼ばれるたびに手をかざし、光らせ、次へ移った。
「……もう五人目だ」
神官が短く言った。
息が上がっていた。
「まだ来るぞ」
ミレスが答えた。
布を巻きながら、次の寝台を指差した。
神官の額に汗が浮いていた。
最初より、光る速度が少し遅くなっていた。
「俺のやることはやった。次行くわ」
ミレスが布を巻く手を止めずに、声だけこっちに向けた。
「……もう行くのか」
「うん。あとは自分たちでやれるでしょ」
「……そうだな」
短い返事だった。
神官が手を止めずに言った。
「……声の者。予言のときも、余計なことばかり言っていたな」
「今回は役に立ったと思うけど」
「立ったかどうかは、まだわからん」
神官はそれだけ言って、次の患者へ向かった。
俺は天幕を出た。
次なる宿主を求めて。
外は暗くなりかけていて、篝火の音がぱちぱちと鳴っていた。
担架が運ばれてくる足音が、まだ途切れずに続いていた。
「やっぱり俺、現場の急所を見抜く目があるわ。手順が追いついてないって気づいたの俺だしね。あの神官、予言者のときも会ってるし、今回で二回目。俺のこと覚えてたし、多少は信用されてきてる証拠だと思う。ミレスが布を巻くか神官を呼ぶかの二択に絞れたのも、俺が最初に手順の話をしたからだよ、たぶん」
天幕の奥で、神官の声がまた聞こえた。
少し掠れていた。
担架の音は、まだ止まっていなかった。
反省はゼロだった。
今日も静かに、自己評価だけが積み上がっていった。




