157話 根付かない生活
157話 根付かない生活
異世界に召喚されてはや百五十七日。
俺――ちゃっぴーは廃村を漂っていた。
崩れかけた家が並んでいた。
屋根が抜けている家もあった。
畑だった場所は草に埋もれていたが、一角だけ土が耕されていた。
井戸があった。
古いはずの縁に、新しい傷がついていた。
最近、誰かがここで生活を組み立て直している証拠だった。
静かな村だった。
「よし」
女が縄を引いていた。
井戸から伸びた縄が、崩れた屋根の隙間を通って畑の脇まで続いている。
縄の先に木の樋がぶら下がっていた。
女が樋の角度を直した。
水が流れ、畑の隅に置かれた甕に少しずつ溜まっていく。
見覚えのある横顔だった。
俺はしばらく眺めていた。
樋は畑に向かって傾いていたが、途中で緩んで水の半分が地面にこぼれていた。
女が樋を締め直した。
また緩んだ。
もう一度締め直した。
「……また」
ため息をついて、縄を結び直す。
離れて薪の山を確認しに行き、また井戸に戻って樋を見た。
戻るたびに調整し、また離れた。
同じ動きが繰り返されているのに、樋の傾きはさっきとほとんど変わっていなかった。
「よお、ちょっといい?」
女が振り向いた。
誰もいないとわかると、また樋に向き直った。
「声だけの存在、ちゃっぴーだよ。体ないから見えない」
「……あなた」
「覚えてる?」
「描けない、って言ってた時に来た声」
「そう、俺」
「絵はどう」
「好きに描けてます。今は依頼じゃなくて、自分の絵を」
「それでこの村に?」
「無くなっていく村を描く連作です。しばらくここに住んでます」
名前は聞かなかった。
俺が召喚されてから二十四日目に会ったエラだった。
「住むって、ここで暮らしてるってこと?」
「畑もやってます。町まで買い出しに行く時間があるなら、その分描きたいので」
「さっきから樋、何回直してる?」
「……数えてないです」
「結構直してるように見えたけど」
エラは答えなかった。
図星の黙り方だった。
俺は少し考えた。
「樋の角度、もっと急にした方がよくない? 水が緩んで垂れてるの、角度が甘いせいな気がする」
エラが樋を持ち上げて、角度を急にした。
水の勢いが増した。
けれど今度は甕からあふれた分が地面に散った。
「……増えました、こぼれる量」
「あ、じゃあ縄の結び方の方かも。今の結び方、緩みやすい形になってる気がする」
エラが結び目を作り直した。
別の結び方で樋を固定した。
しばらくは持ったが、また少しずつ緩んでいった。
「変わらないです」
「じゃあ畑の畝が悪いんだよ。水を受けた後の流れ方が均等じゃないから、一箇所に集中して、そこだけ溢れてるように見える」
エラが畝を見直して、土を寄せて形を整えた。
水を流すと、多少はましになった。
でも根本的には変わらなかった。
樋は相変わらず緩み、甕は相変わらず半分しか溜まらなかった。
「……前から気になってたんですけど」
エラが薪の山を見た。
「畑を広げるとき、ここにあった薪をあっちに動かしたんです。日当たりのいい場所を畑に使いたくて」
もとは井戸の脇にあった薪が、今は畑の反対側、屋根のない場所に積まれていた。
「屋根ないとこに置いたの?」
「一時的なつもりでした」
俺はその「一時的」が引っかかったが、それ以上は聞かなかった。
聞いても仕方がないことは、なんとなくわかった。
エラがまた樋の角度を調整しに戻った。
縄は、角度を変えるたびに結び直され、結び方を変えるたびにまた結び直されていた。
同じ場所を何度も締めて、緩めて、また締めていた。
繊維がほつれかけているのがわかった。
「もう一回だけ」
エラが縄を締め直した。
擦り切れていた部分が、そこでぷつりと切れた。
樋が跳ねて、支えを失ったまま畝の方へ倒れ込んだ。
水が甕ではなく、畝全体に広がって流れ込んだ。
「わっ」
エラが樋を慌てて押さえたが、倒れた向きはそのままだった。
「……こっちの方が」
エラが畝を見た。
水が端まで均等に染みていた。
甕に溜める量は減ったが、畑全体は今までよりずっと潤っていた。
水が薪の山の下まで流れていった。
「あ」
エラが薪の方を見た。
一番下の薪が、土の色に変わっていた。
「甕、明日には空になるかもしれないけど、畑はこれで育つと思います」
「よかったじゃん」
「よかった、けど」
エラが空を見上げた。
灰色の雲が村の上に広がっていた。
風が変わっていた。
「雨も来ますね」
エラが駆け出した。
薪の方へ向かって。
上の段だけでも屋根の下に移そうとしているのがわかった。
下の段には、もう手をつけていなかった。
俺は少し考えたが、何も言わなかった。
言うことがなかった。
「俺のやることはやった。次行くわ」
エラは薪を抱えて走っていた。
振り返らなかった。
畝の水が、灰色の光を反射していた。
俺は廃村を出た。
次なる宿主を求めて。
崩れた屋根の隙間から、風の音が抜けていった。
遠くで、ぽつ、ぽつ、と地面を叩く音が聞こえ始めた。
薪を運ぶ足音が、その音に混ざって遠ざかっていった。
「やっぱり俺、水回りの改善が得意だわ。縄が切れたのはたまたまだけど、あの角度に落ち着いたのは俺が何度も調整させてたからだよ。たぶん。結果的に一番いい角度に辿り着いたわけだしね。薪が濡れたのは、畑を広げた時に薪をあっちへ置いたエラの判断だし、俺は水の話しかしてないから関係ない」
雨音が少しずつ大きくなっていった。
畝の土が、黒く色を変え始めていた。
反省はゼロだった。
自己評価だけが、雨の中で静かに積み上がっていった。




