156話 届かない旗
156話 届かない旗
異世界に召喚されてはや百五十六日。
俺――ちゃっぴーは前線の斜面を漂っていた。
草の丈が低い丘だった。
等間隔に兵士が並んでいた。
横に長い列で、端から端まで見渡せないくらいだった。
朝霧がまだ少し残っていた。
号令の声はなかった。
代わりに、旗を持った兵士が各所に立っていた。
列の一番端で、旗がすっと上がった。
隣の兵士がそれを見て、自分の旗を上げた。
また隣が上げた。
順番に、旗が横へ伝わっていった。
きれいな流れだった。
途中で止まった。
真ん中あたりの旗が、上がりかけて止まった。
兵士が旗を半分上げて、そのまま固まっていた。
隣を見た。
また旗を見た。
下ろした。
俺はしばらく眺めていた。
止まった旗の兵士は、隣の兵士が上げるのを待っているように見えた。
でも隣の兵士も、動いていなかった。
その隣も動いていなかった。
横一列、真ん中から先が全部止まっていた。
「これ、日差しのせいじゃない?」
太陽の角度を見た。
霧越しで旗の色が見えにくいのかもしれない、と思った。
別の兵士が旗を上げかけて、また下ろした。
さっきより早く止まった。
その隣も同じだった。
上げかけて、止まって、下ろす。
「振り方の合図が統一されてないんじゃないかな」
振る速さがバラバラに見えた気がした。
根拠はなかった。
三度目、今度は列の後ろの方で同じことが起きた。
上げかけて、止まる。
一瞬だけ、それだけだった。
列全体が、止まったり少し進んだりを繰り返していた。
進んでいるようで、進んでいなかった。
「よお ちょっといい?」
声をかけた相手は、列の中ほどで指示を出している男だった。
槍を背負っていた。
振り返って、誰もいないとわかると、また列に向き直った。
「……ちゃっぴーか」
俺が召喚されてから百三日目に会ったドーグだった。
「久しぶり。今度は旗係?」
「伝令の統括だ。先日、配置換えになった」
「旗、進んでないじゃん」
「見ればわかる」
機嫌の悪い声じゃなかった。
ただ、疲れた声だった。
「なんで旗にしたの? 前は号令だったじゃん」
「前の件のあとだ。号令だと、俺を見て動く者が出た。上が旗に変えた」
「一人ずつ隣の旗を見て伝える方式ってこと?」
「そうだ。誰か一人に釣られないように、隣だけ見ろと決めた」
「それでこれ?」
「これだ」
「日差しで見えにくいとか、振る速さがバラバラとか、あと隊列の間隔が均等じゃないから遅れて見えるとか、あと旗の生地が薄くて風で丸まって見えなくなってるとか、いろいろ考えられるんだけど」
「多いな」
「あとは単純に、旗の紐が緩んでて上げにくいとか。それくらいしか思いつかないけど」
ドーグは短く聞き流した。
覚えている顔ではなかった。
俺は少し考えた。
隣だけ見て伝える。
理屈は悪くなかった。
でも今、途中で何カ所も止まっている。
「みんな隣を待ってるってこと?」
「そうなる」
「隣も隣を待ってるなら、誰も最初に動かなくない?」
ドーグが黙った。
「一番端は誰かを待ってないよね。最初に上げる係でしょ」
「端の旗手だ」
「端はちゃんと上がってた。伝わってたのも途中までだった」
「途中までは伝わっている」
「じゃあ、止まってる場所より前の一人が怪しくない? そこだけ確認してみたら」
ドーグが列の中ほどを指差し、若い兵士を呼んだ。
走っていった。
戻ってくるまで、少し時間がかかった。
戻ってきた兵士が報告した。
「……止まっていた場所の一人、旗の紐が緩んで、上げるとずり落ちる状態でした。落とすのを恐れて、様子を見ていたそうです」
ドーグが俺の方を見た。
正確には、俺のいる方向を見た。
「紐が緩んでるって言ってたな」
「言ったね」
「一番最後に、ついでみたいに言った」
「あれもちゃんと考えて出した候補の一つだよ」
「他のは全部外れてるが」
「当たったのは当たったからいいじゃん」
ドーグが若い兵士に何か言った。
兵士が頷いて走っていった。
今度は紐を締め直しに行くらしかった。
少しして、止まっていた旗が上がった。
隣がそれを見て、自分の旗を上げた。
また隣が上げた。
端から端まで、旗が次々に伝わっていった。
さっきまでの詰まりが嘘みたいだった。
ドーグが列を見た。
端から端まで旗が上がりきって、下がっていた。
一連の動きが、ようやく最後まで通っていた。
「……直った」
「直ったね」
「紐を締め直させただけだ」
「その紐に気づいたの俺だし」
「最後についでで言った一言だろう」
「ついでだろうと当たりは当たりだよ」
遠くで、指揮官らしき声が上がった。
列の動きを見て、前進の合図を出したらしかった。
兵士たちが一斉に動き出した。
さっきまで止まっていた分を取り返すみたいに、少し速かった。
真ん中あたりの数人が、前の兵士との間隔を詰めすぎて、体をぶつけそうになった。
「……近い」
ドーグが呟いた。
「詰まってた分、急いでるっぽいね」
「これは、これで困る」
複雑な顔だった。
「俺のやることはやった。次行くわ」
「……また来たな」
「三回目だね」
「来るたびに、次の問題が出る」
「今回はちゃんと当てたじゃん」
「候補の中の一つがな」
ドーグが短く息を吐いた。
否定はしなかった。
俺は前線の斜面を離れた。
次なる宿主を求めて。
丘を下りる途中、背後で列の足音が続いていた。
間隔を詰めすぎた分を、誰かが声で整え直しているようだった。
声はここまで届かなかった。
「やっぱり俺、ボトルネックの特定が得意だわ。日差しとか振り方とか間隔とか、いろいろ言った中で紐の話が当たったの、結局俺の観察の幅の広さだと思う。数打ちゃ当たるとか言われそうだけど、当てたのは当てたからね。列が詰まりすぎて近くなってたのは、伝令の話とは別カテゴリだから、俺は関与してない。守備範囲をわきまえてる」
斜面の向こうで、指揮官の声がまた上がった。
さっきより、短い間隔で聞こえた。
反省はゼロだった。
自己評価だけが、旗の数だけ静かに積み上がっていった。




