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154話 判子の行方

154話 判子の行方

 

 

 

異世界に召喚されてはや百五十四日。

 

俺――ちゃっぴーは移送詰め所を漂っていた。

 

 

 

牢屋の隣に建て増しされた小さな部屋だった。

 

机が一つ、椅子が二つ、壁際に台帳の棚があった。

 

机の上に一枚の書類と、判子が置いてあった。

 

判子には赤い紐がついていた。

 

窓は小さく、光が机の端までしか届いていなかった。

 

 

 

中に三人いた。

 

一人は見覚えがあった。

 

コルタだった。

 

俺が召喚されてから八十八日目に会った第三警備隊第二班の、あのときの男だった。

 

残り二人は初めて見る顔だった。

 

一人は台帳係らしく、羽根ペンを耳に挟んでいた。

 

もう一人は王宮監査官の代理で、リーゼという名の女だった。

 

机の脇に、同じように判子だけ置かれた書類が何枚か重なっていた。

 

あれもまだ押されていないらしかった。

 

 

 

俺はしばらく眺めていた。

 

 

 

コルタが判子を取り上げた。

 

書類の上まで運んで、そこで止めた。

 

少し迷ってから、判子を机に戻した。

 

台帳係の男が台帳に手を伸ばしかけた。

 

途中で引っ込めて、腕を組んだ。

 

リーゼが書類を受け取ろうと手を出した。

 

指先が紙に触れる前に、引いた。

 

その後も、似たような仕草が二度、三度と続いた。

 

判子は机の上から動かなかった。

 

 

 

「よお ちょっといい?」

 

三人が同時に振り向いた。

 

「声だけの存在、ちゃっぴーだよ。体ないから見えない」

 

コルタが小さく息を吐いた。

 

「またお前か」

 

「久しぶり。てか判子、さっきから机の上と持ち上げた位置を往復してるだけじゃん。あれ何?」

 

 

 

名前を聞いたら、台帳係はドレンと言った。

 

今日の仕事は、囚人一名を隣の管区に移す手続きだと言った。

 

書類自体はもう出来上がっていると言った。

 

「じゃあ判子押せばいいじゃん」

 

「押していい順番が決まっていない」

 

「順番?」

 

「警備隊の印を先に押すか、監査官の印を先に押すか」

 

 

 

俺は少し考えた。

 

書類の置き方が悪いのかもしれない。

 

「書類、机の右に寄ってるよね。右利きの方が先に押しやすい位置になってるとか、そういう理由で揉めてるんじゃないの」

 

ドレンが書類の位置を見た。

 

「関係ない」

 

「じゃあ年功? コルタの方が長くこの仕事してるなら先に押していい気がするけど」

 

リーゼが首を振った。

 

「勤続年数は今回の規則に関係がない」

 

どちらも外れていた。

 

 

 

「前は先に押していい人が決まってたの?」

 

コルタが少し間を置いた。

 

「決まっていた。だが先月、担当が変わった書類の一部で、規則が書き換わった」

 

「なんで書き換わったの」

 

「以前、似たような案件で連絡が滞ったことがあった。それを受けて、二つの部署が両方確認する形になった」

 

俺はなんとなく察した。

 

以前あった連絡の滞りというのが、たぶんこの前のあれのことな気がした。

 

言わなかった。

 

 

 

「じゃあ二人とも確認したら、あとはどっちが先でもいいんじゃない?」

 

「規則には、先に押した方が責任を持つ、とだけ書いてある」

 

「先に押した方が責任者ってこと?」

 

「そうなる」

 

「じゃあ誰も先に押したくないってことじゃん」

 

コルタが判子を見た。

 

「……そうなる」

 

リーゼが小さく息を吐いた。

 

「……つまり、誰も責任者になりたくなかっただけなのね」

 

 

 

そこへ扉が開いた。

 

王宮の使者だった。

 

リーゼ宛の急ぎの手紙を届けに来たと言った。

 

リーゼが手紙を受け取っている間、使者は手持ち無沙汰に机を眺めていた。

 

書類と判子が目に入った。

 

使者はそれが何の書類かも聞かず、判子を取って、書類の端に押した。

 

迷いのない動きだった。

 

 

 

「……あ」

 

コルタが声を上げた。

 

使者はすでに手紙を渡し終えて、部屋を出ようとしていた。


コルタが判子の方へ目をやった。

 

「あなたが押してよかったんですか」

 

使者が振り返った。

 

「机に出してあったから、待ってる書類かと思った」

 

それだけ言って、出ていった。

 

 

 

三人が書類を見た。

 

印が一つ、押されていた。

 

「……押されている」

 

「押されたね」

 

「誰の責任になる」

 

「使者の名は書類に載らない」

 

リーゼが書類を見つめたまま呟いた。

 

「……規則は、誰が背負うかしか考えていなかった。押していい人を決めていなかった」

 

自分の印を取り上げた。

 

迷いが消えた顔で、隣に押した。

 

「一つ押されたなら、もう一つ押しても同じだ」

 

 

 

ドレンが台帳を開いた。

 

今度は迷わず記入した。

 

隣の机で、別の担当らしき兵士が同じように判子を取り上げた。

 

迷わず押した音がした。

 

さらに奥の机でも判子の音がした。

 

部屋のあちこちで、乾いた音が続けて鳴った。

 

 

 

「俺のやることはやった。次行くわ」

 

コルタが判子を見たまま言った。

 

「今回はほとんど何もしていないだろう」

 

「権限の話を整理したのは俺だよ。誰も先に押したくない理由を言語化したのは俺じゃん」

 

「言語化しただけだ」

 

「言語化は大事なんだよ、たぶん」

 

コルタは何も言わなかった。

 

判子の音がまだ聞こえていた。

 

 

 

俺は移送詰め所を出た。

 

次なる宿主を求めて。

 

 

 

廊下に出ると、部屋の中の判子の音が壁越しに続いていた。

 

一つ、また一つ、間を置かずに鳴った。

 

熱のようなものが、音に混じっている気がした。

 

「やっぱり俺、詰まってる原因の言語化がうまいわ。誰も先に押したくないって構造を見抜いたの俺だしね。使者が勝手に押したのは俺のおかげじゃないけど、俺があの場で権限の話を延々してたから、迷いが薄まってたのはあると思う。間接的に。たぶん」

 

 

 

判子の音は、廊下の奥まで聞こえていた。

 

数が増えている気がした。

 

気のせいかもしれない。

 

 

 

反省はゼロだった。

 

自己評価だけが、判子の音の数だけ積み上がっていった。

 

 

 

 

 

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