153話 二つ目の印
153話 二つ目の印
異世界に召喚されてはや百五十三日。
俺――ちゃっぴーは神殿の記録の間を漂っていた。
棚に羊皮紙の束がびっしり詰まっていた。
机の上にも書類が積まれていて、脇に蝋の塊と小さな炉が置いてあった。
炉の火は小さく、机の端に印章が二つ並んでいた。
片方には教皇の紋章が彫ってあった。
もう片方は、何も彫られていない白い印章だった。
静かな部屋だった。
静かすぎる部屋だった。
書記らしき男が、羊皮紙の上に印章を持ち上げた。
押そうとして、止めた。
また持ち上げて、また止めた。
机の隅に置き直した。
その奥で、別の神官が蝋を炉にかざしていた。
溶けかけたところで、炉から離した。
固まりかけの蝋を見て、また炉にかざした。
また離した。
さらに奥、椅子に座った男が、印を手にしていた。
羊皮紙の上に構えて、止まっていた。
押さなかった。
印を置いた。
また手に取った。
また止まった。
顔に見覚えがあった。
ゼフスだった。
俺が召喚されてから三十七日目、手順表に取り消し線を引いた教皇。
八十六日目、信徒と話が噛み合わなかった教皇。
百十二日目、鐘の音で扉をくぐった教皇。
今日はまた別の顔をしていた。
俺はしばらく眺めていた。
「よお ちょっといい?」
ゼフスが顔を上げた。
「……そなたか」
「久しぶり。まだ止まってるの、それ」
「見ての通りだ」
これは蝋の温度の問題だ、と俺は思った。
固まりかけてるから押しにくいんだろう。
「その蝋、もっと炉に近づけた方がいいんじゃない? 温度が低いと定着悪くなるし」
「蝋の話ではない」
書記の方を見た。
印章を持ち上げては止めていた。
これは手が疲れてるんだ、と俺は思った。
「あの人、印章持ちすぎて手首痛いんじゃない? 持ち方変えた方が――」
「そういう話でもない」
椅子の座り方も気になった。
ゼフスは浅く腰掛けて、背もたれに寄りかかっていなかった。
これは腰が悪いんだ、と俺は思った。
「猊下、その座り方、腰に負担かかるでしょ。もっと深く座った方が――」
「腰の話でもない」
三つとも外れているらしかった。
俺はもう一度羊皮紙を見た。
署名欄が二つあった。
片方にはゼフスの名前が書き込まれていた。
もう片方は空欄だった。
「その空欄、誰の欄なの」
「大主教の欄だ」
「今、大主教って誰?」
ゼフスが黙った。
「……いない」
三月前に亡くなったと言った。
後任は決まっていないと言った。
「じゃあその欄、埋まらないじゃん」
「そうだ」
「誰が後任を決めるの」
「本来は大主教会議だ」
「今、その会議は開けるの」
「会議を招集するのも大主教の権限だ」
俺は少し止まった。
決める人がいない。
決める人を決める人もいない。
輪になって誰もいない場所を指さしているみたいだった。
「……つまり、その空欄を埋める人を決める権限も、今どこにもないってこと?」
「そういうことになる」
「じゃあこの書類、ずっとこのままなの」
「今のところは」
机の上の書類は一枚じゃなかった。
何十枚も積まれていた。
全部、同じ空欄を待っていた。
そのとき、部屋の入口に人影が立った。
若い神官だった。
名前を聞いたらノアンと言った。
遠い村への赴任辞令を待っていると言った。
今日中に発たないと、山道が雪で閉じると言った。
急いているのが声でわかった。
早口で、辞令はまだかと二度繰り返した。
ノアンが机に駆け寄って、自分の辞令を探した。
束をめくった。
めくった拍子に、下の方から古い羊皮紙が一枚滑り落ちた。
書記がそれを拾った。
拾いながら、内容にざっと目を通した。
手が止まった。
「……教皇猊下」
書記が羊皮紙をゼフスに差し出した。
ゼフスが受け取って読んだ。
しばらく黙っていた。
「……緊急代行の条項だ。大主教不在時、村への赴任に限り、教皇単独の印で発効させてよいとある」
「使われたことは?」
「先々代の頃に一度」
ゼフスがノアンの辞令を手元に引き寄せた。
印を持ち上げた。
今度は止まらなかった。
押した。
蝋の上に紋章が沈んだ。
ノアンが辞令を受け取った。
何度も頭を下げた。
「俺のやることはやった。次行くわ」
ゼフスが印を置いた。
「……そなたはまた何も」
「古い条項見つけたのノアンだよ。俺は蝋の温度の話しかしてない」
「役に立っていない」
「でも押せたじゃん」
ゼフスは答えなかった。
机の上の残りの書類を見ていた。
空欄はまだ何十枚分も残っていた。
俺は記録の間を出た。
次なる宿主を求めて。
廊下に出ると、炉の熱が背中越しにまだ届いている気がした。
体がないので熱は感じないはずなのに、そんな気がした。
「やっぱり俺、制度の穴を見つけるの得意だわ。蝋の温度の話をしてる間にノアンが古い条項引っ張り出してきたんだよね。あれ実質俺が場を温めてたからじゃない? 空欄のまま積まれてた書類、あの条項使えば全部片付くと思うんだけど、まあそこは教皇の判断か。俺は今日できる分はやったから」
記録の間の奥で、机に積まれた書類がまだ動いていない音がした。
めくられる音は、一枚分だけだった。
反省はゼロだった。
自己評価だけが、蝋の匂いの中で静かに固まっていった。




