150話 出口の前で
150話 出口の前で
異世界に召喚されてはや百五十日。
俺――ちゃっぴーは牢屋の中を漂っていた。
石の壁に囲まれた通路が続いていた。
鉄格子越しに、独房が並んでいた。
小さな窓から光がわずかに差し込むだけで、昼か夜かもよくわからなかった。
体がないので冷気は感じないが、そういう空気の場所だと認識していた。
通路の奥は暗く沈んでいて、何があるのかよくわからなかった。
独房の中で、灰色の影がウロウロ動いていた。
壁際まで行って戻り、また壁際まで行って戻る、それだけを続けていた。
足音は立たなかったが、動き自体はせわしなかった。
見覚えがあった。
「……お前、墓地にいたやつじゃん」
腐りかけた顔がこっちを向いた。
俺が召喚されてから七十五日目に会ったゾンビだった。
歩みは止まらなかった。
「……ウ」
「久しぶり。えーと、なんで牢屋にいるの」
「……ウー」
「捕まったってこと? 人間に?」
「……ウ」
肯定だった。
本人はそれ以上何も言わなかった。
通路の少し離れた場所に、見張りの男が一人立っていた。
槍を両手で握りしめて、独房から目を離さずにいた。
息が浅かった。
足元が、じりじりと後ろに動いていた。
それでも持ち場を離れはしなかった。
俺はしばらく眺めていた。
ゾンビが独房の奥の壁まで歩いて、そこで向きを変えた。
今度は鉄格子の方へ歩いていく。
格子の手前、あと少しのところで足が止まった。
向きを変えて、また奥の壁へ戻っていった。
見張りの男が、小さく息を呑んだ。
「……行き先迷ってるだけかと思ったけど」
奥の壁へ戻ったゾンビが、また格子の方へ歩き出す。
また同じ場所で止まって、また奥へ戻る。
向かう方向はいつも同じだった。
迷ってはいなかった。
「じゃあ格子壊そうとしてる?」
近づいて格子を見た。
傷も、こじ開けようとした跡もなかった。
ゾンビの手も、格子には一度も触れていなかった。
違うっぽかった。
「じゃあ見張りが怖くて近づけないとか?」
見張りの男の位置を見た。
男が動いても、ゾンビが止まる場所は変わらなかった。
これも違う気がした。
見張りの男が、槍の柄を握り直した。
手のひらの汗で、柄が滑っているようだった。
喉のあたりで、声にならない音が鳴っていた。
視線だけは、一度もゾンビから外れなかった。
三度目、ゾンビが奥から格子へ向かう。
また同じ場所で止まる。
四度目以降も同じことが続いた。
壁と格子のあいだを、行っては戻り、行っては戻っていた。
止まる位置も、止まる長さも、毎回ほとんど同じだった。
一歩も先に進んでいなかった。
見張りの男が、後ずさった拍子に壁にぶつかった。
槍の先が、がちがちと震えていた。
それでも、目だけは独房から離せずにいた。
額に浮いた汗が、頬を伝っていた。
俺はしばらく黙って見ていた。
たぶん、行き先はもう決まっていた。
格子の向こう、あそこが外に出る場所だというのは、多分わかっている。
でも格子は通れない。
辿り着いても、そこから先がない。
歩いていって、通れないと分かって、また戻る。
それだけを繰り返しているように見えた。
何度も同じ距離まで来て、そのたびに引き返していた。
「なんか、着いたことにしていいのか決められない感じなのかな」
俺はつぶやいた。
「なあ、別に格子まで来たら、そこがゴールってことにしちゃえばよくない? 通れなくても」
ゾンビが、壁の方を向いたまま止まった。
しばらく動かなかった。
「……ウ」
もう一度、格子の方へ歩き出した。
今度は途中で止まらなかった。
いつも足が止まっていた場所を、そのまま越えた。
格子のすぐ手前まで来て、そこで止まった。
奥の壁には戻らなかった。
「あ、なんか変わった?」
行ったり来たりが止まっていた。
ゾンビは格子のすぐ内側に立ったまま、動かなくなった。
さっきまでの、行っては戻るという動きそのものが消えていた。
見張りの男の手から、槍が滑り落ちた。
石床に当たって、大きな音を立てた。
男は槍を拾わなかった。
拾おうとする素振りすらなかった。
「……ウ」
短かったが、悪い「ウ」じゃなかった。
「俺のやることはやった。次行くわ」
「……ウ」
ゾンビは格子越しに、まだ同じ方向を見ていた。
振り返らなかった。
俺は牢屋を出た。
次なる宿主を求めて。
背後で、駆け出す足音がした。
それだけが、遠ざかる俺の耳にしばらく残っていた。
「やっぱり俺、行き先の決め方を教えるのが得意だわ。前も似たようなこと教えたけど、今回はさらに応用が利いてる。通れないなら通れないなりに、着いたことにしちゃえばいいってアドバイス、我ながら汎用性高すぎるでしょ。行っては戻るを延々やってたのに比べたら、だいぶすっきりしたと思うよ。まあ見張りが槍まで落としてた気はするけど、あれは向こうの仕事の話だから、俺には関係ないし。たぶん」
もう聞こえない距離まで来ていた。
それでも、さっきの足音の速さだけが、なぜか耳に残っていた。
急いでいた、ということだけは確かだった。
反省はゼロだった。
今日も静かに、自己評価だけが積み上がっていった。




