148話 待機の陣
148話 待機の陣
異世界に召喚されてはや百四十八日。
俺――ちゃっぴーは陣地の裏手を漂っていた。
丘の斜面に幕舎が並んでいた。
布地が風でわずかに膨らんでは戻っていた。
その奥に、見覚えのある陣幕があった。
静かな陣地だった。
静かなはずだった。
門代わりの柵の前で、荷馬車が一台止まっていた。
御者は手綱を握ったまま、動かなかった。
柵の内側で哨兵が二人、槍を構えたまま立っていた。
奥の炊事場でも、鍋を持った男が火の前で立ち止まっていた。
俺はしばらく眺めていた。
御者が手綱を握り直した。
進む構えを見せて、また止まった。
炊事場の男が薪を一本くべようとして、手を止めた。
動く気配はあるのに、誰も動かなかった。
陣地全体が、息を止めているみたいだった。
陣幕の中に入ると、俺が召喚されてから百一日目に会ったゾルグが机の前に座っていた。
筆を持って、書状の端に構えて、下ろした。
また持ち上げて、また下ろした。
「よお 久しぶり」
ゾルグが顔を上げた。
「……声の者か」
「ちゃっぴーだよ。覚えてた?」
「忘れるものか。前は左翼と右翼の話をしていったな」
「今日は何の話してるの」
机の上に書状が広がっていた。
封蝋の印が押されていない部分があった。
王家の紋も端に見えた。
「今度は休戦の話?」
「王からの条件付きの許可状だ。私が署名すれば敵陣に届く」
「じゃあ署名すればいいじゃん」
ゾルグが筆を置いた。
「ナヴィの報告を待っている」
「何の報告?」
「兵站の確認だ。署名する前に、休戦が破れた場合の備蓄を知りたい。政治は、後で足りませんでしたでは済まない」
俺は少し考えた。
「あ、わかった。書状の文章が複雑すぎるんじゃない? 条件が多すぎて署名しづらいとか」
「文章の問題ではない」
「じゃあナヴィが道に迷ってるとか?」
「あれで迷う女ではない」
「じゃあ王様が怖いとか。責任取りたくないとか」
「……それも違う」
ゾルグが窓の外を見た。
柵のところで荷馬車がまだ止まっていた。
俺は陣幕を出て、外を漂った。
柵の手前に、女がひとり立っていた。
書類を胸に抱えて、門に向かって一歩出て、止まった。
また一歩出て、また止まった。
「あれ?ナヴィ居るじゃん。こんなところで何してるの?」
「帰ってきたところだ」
「なんで入らないの?」
「門が開かない」
「哨兵に言えばいいじゃん。あんた副官でしょ」
哨兵の一人が槍を少し下げて、また構え直した。
「この門は、将軍の信号旗が上がるまで開けるなと決めている。先日、敵の間者が紛れ込んだ。以来、階級に関わらず旗のない者は通さない」
「ナヴィが決めたルール?」
「私も賛成した」
「じゃあ自分で崩すのは嫌ってこと?」
「……そういう言い方はするな」
俺は動きを止めた。
ゾルグは旗を、ナヴィの報告を受けてから上げるつもりでいた。
ナヴィは旗が上がるまで、報告を届けられない。
報告がなければ、旗は上がらない。
詰まっていた。
「ちょっと待って。これ、報告を届けるための門が、報告が届くまで開かないってこと? あんたが決めたルールで、あんたが閉め出されてるじゃん」
ナヴィが書類を抱え直した。
「……そういうことになる」
「じゃあ叫んで伝えればいいじゃん。俺が代わりに――」
そのとき、俺の声に馬が驚いた。
荷馬車の馬が前脚を跳ね上げた。
御者が慌てて手綱を引いた。
荷台が柵にぶつかって、大きな音がした。
哨兵が反射的に門を開けた。
柵が崩れたと思ったらしかった。
ナヴィが門の隙間をすり抜けた。
書類を抱えたまま走った。
陣幕の中で、ゾルグがナヴィの報告を受けていた。
筆を取って、印を押した。
使者が書状を受け取って、馬に乗った。
「……門が開いたのは、私の旗じゃない」
ゾルグが窓の外を見ながら呟いた。
「馬が驚いただけだよ、たぶん」
「そうか」
使者が丘を下っていった。
土煙が細く伸びた。
哨兵の一人が、開いたままの門を見ていた。
「……閉め直すか」
もう一人は答えなかった。
柵の外を、じっと見ていた。
「俺のやることはやった。次行くわ」
ゾルグが顔を上げた。
「今回も、原因はわからずじまいだ」
「あんたが決めたルールが、あんたを困らせてただけだよ」
「馬が動いただけだ」
「まあ、動けばいいんだよ、誰でも。政治もそういうもんでしょ」
俺は陣地を出た。
次なる宿主を求めて。
丘を下ると、風が旗の音を運んできた。
布がはためく音が、さっきより速かった。
炊事場の煙も、さっきより濃くなっていた。
「やっぱり俺、自分で決めたルールに自分で引っかかってるの見抜くの得意だわ。馬が驚いたのは俺のせいじゃないけど、俺が喋ってたから驚いたわけで、結果的に俺が動かしたようなもんだよ。政治的な駆け引きも結局は誰が先に動くかの話だからね。俺、意外と向いてるかもしれない。たぶん」
丘の向こうで、開いたままの門が見えた。
敵陣の方角からも、旗がひとつ上がるのが見えた。
応答なのか、警戒なのか、わからなかった。
陣幕の方から、誰かの怒鳴り声がかすかに届いた。
何を言っているかまでは聞こえなかった。
反省はゼロだった。
自己評価だけが、旗の分だけ増えていった。




