145話 下書きの理由
145話 下書きの理由
異世界に召喚されてはや百四十五日。
俺――ちゃっぴーは港町を漂っていた。
商人ギルドの建物前だった。
煉瓦造りの三階建て。
出入りする商人が何人もいた。
荷物を運ぶ者もいれば、書類を抱えた者もいた。
俺が召喚されてから四十九日目に会った商人がいた。
布の値段が決まらず困っていたところに、俺が「最初に言った数字が基準になる」と教えた相手だ。
名前をシントラといった。
今日はギルドの一角で、シントラが書き物をしていた。
テーブルの周りには何枚もの紙が積まれていた。
どれも最後まで書かれていた。
シントラはその一枚を脇へ重ねると、別の紙を取り、また最初から書き始めた。
シントラはペンを握ったまま動かなかった。
紙には「南から入ってきた織物。色は赤と青が混ざっていて」と布の説明が書いてあった。
シントラはペンを握ったままだった。
次の単語が出ない。
握ったまま紙を見ている。
五秒。
十秒。
ペンを握り直すと、「南から入ってきた織物」と書いた部分に線を引き、その下に別の書き出しを書き始めた。
しかし二、三文字書いたところでまた手が止まった。
その紙をしばらく見つめ、脇へ重ねる。
今度は積んであった別の紙を手に取った。
文字は最後の行まで並んでいる。
目を通すと、また脇へ戻した。
そして別の紙を取り、また最初から布の説明を書き始めた。
シントラは装飾品の説明も書き終えた。
脇へ置いて、また別の紙を取る。
同じ動きが続いた。
ギルドの別のテーブルではマスターと呼ばれる男が、シントラの方を見ていた。
何度か声をかけようとして、口を閉じていた。
手元の書類を整理する手が、時々シントラの方へ止まった。
俺はしばらく眺めていた。
紙は何枚もあった。
どれも似た内容だった。
違いを探しても見つからなかった。
同じ説明を何度も書き直しているのは何故なのかわからなかった。
紙の端に何か印がついているのかと思って見たが、何もなかった。
文字の大きさが違うのかと思ったが、揃っていた。
順番を試しているのかと思ったが、順番を変えても結局脇へ置かれた。インクの色が違うのかとも思ったが、どれも同じ濃さの黒だった。
「あ、何か問題があるのか」
俺が言った。
シントラが顔を上げた。誰もいないとわかると、また紙に目を落とした。
「声だけの存在、ちゃっぴーだよ。体ないから見えない」
「……ちゃっぴー」
覚えていた。
「その書類、何?」
シントラがペンを握ったままだった。
「南の品の説明だ。ギルドから指示を受けた」
「積まれてるやつは完成してるじゃん」
「……これは正式版ではない」
「正式版?」
「下書きだ」
シントラが別の紙をめくった。
同じ説明が書いてある。
「これも下書き。こっちも」
何枚も似ていた。
「全部、正式版じゃない」
「正式版と下書きはどう違うの?」
「わからない」
短い返事だった。
紙をめくるたびに、シントラは新しく書き始める。
布の説明なのに、毎回違う順序で書いている。
最初に「南から」と書くときもあれば、「織物は」と書くときもある。
装飾品の説明も同じだ。何度も書き直している。
俺はしばらく紙の山を見ていた。
どれも似た内容で、違いを探しても見つからなかった。
「もしかして、どれを出せばいいか決められないだけなんじゃない?」
シントラがペンを見た。
「……」
俺は少し考えた。
決められないなら、決める必要のないものを出せばいい。
「俺には全部同じに見えるし、どれか一枚を出しちゃえばいいじゃん」
シントラがペンを握ったまま、紙を見ていた。
「完璧を待つより、まず出す。前だって、布の値段を決めた。完璧じゃなかったけど、後で直したじゃん」
シントラが紙を見た。
「南から入ってきた織物。色は赤と青が混ざっていて」と書いてある一枚。
シントラがペンを置いた。
その紙を手に取った。
装飾品の説明、食料の説明も。
全部ひとまとめにした。
「これを出す」
シントラが立ち上がった。
紙を抱えて、マスターの方へ歩いていった。
マスターがシントラの方を見た。
紙を受け取った。
一枚読んで、次の一枚。
「……下書きのままか」
「……」
「いや、悪い意味じゃなくて。こっちのほうが良い」
マスターが紙を持って、奥に入っていった。
シントラが戻ってきた。
テーブルの周りには出されなかった書類がいっぱい積まれていた。
「俺のやることはやった。次行くわ」
シントラが顔を上げた。
「え」
「だから、次の宿主を探しに行く」
短い会話だった。
シントラは何か言いたそうだったけど、何も言わなかった。
俺はギルドを出た。
次なる宿主を求めて。
南からの風が吹いていた。
交易路から上がる荷物の音が響いていた。
「やっぱり俺、完璧待機の問題を見抜くの得意だわ。どれを出せばいいか決められなくなってるって気づいたのも俺だしね。『まず出す』って言ったのも俺だよ。最初のきっかけは俺だから実質同じ」
書類を抱えた商人が一人、ギルドの扉へ向かって歩いていった。
扉が開いて、その背中が中へ消えた。
反省はゼロだった。
自己評価だけが安定して上昇していた。




