142話 気配は届かない
142話 気配は届かない
異世界に召喚されてはや百四十二日。
俺――ちゃっぴーは深い森を漂っていた。
昨日の精霊の森よりずっと広い。
木々が重なり合って空を隠し、光は地面まで届かず緑色に濁っていた。
足元には浅い窪地があった。
そこに水が溜まっていた。
溜まっているだけじゃなかった。
縁からあふれて、細い筋になって流れ出していた。
《この森の水位、少しおかしいな》
気配がまた森全体に広がった。
昨日と同じ、精霊王だった。
「久しぶり。って言っても一日ぶりか」
《声の者か。……昨日は世話になった》
「昨日はクマに宿ってたよね。今日は宿らないの?」
《あれは一度きりのことだ。今日は今日で、気配で見れば十分だろう》
俺はしばらく眺めていた。
精霊王の気配が水のあふれる方角へ一度伸びた。
伸びて、あふれた水の匂いをなぞるように留まった。
けれど輪郭を持たないまま、そのまま横へ流れていって別の木々の間へ薄れていった。
確かめたわけじゃなさそうだった。
もう一度、気配が同じ方向へ戻ってきた。
今度は精霊たちが土を盛っている場所の近くまで寄った。
寄っただけで、また離れた。
三度目、精霊たちの一人が何かを叫んでいるらしい方向へ気配が向きかけた。
向きかけて、途中で別の木の根元へ逸れた。
何を確かめに行ったのか、俺にもわからなかった。
「なんか、行きかけて毎回逸れるね」
《森は広い。気になる場所が多いだけだ》
俺は早速仮説を立てた。
「あ、わかった。精霊王って気配を伸ばす速度が遅いんじゃない? もっと集中して一点に絞れば――」
《集中はしている》
「じゃあこれだ。精霊たちの報告、言葉じゃなくて感覚で受け取ってるでしょ。感覚だと精度落ちるから、報告フォーマットを整えた方が――」
《精霊は言葉を持たぬ者が多いと、前にも言ったはずだが》
的外れが続いた。
それでも俺は喋るのをやめなかった。
「あと精霊たちの配置、伝令ルートが一本道になってない? 情報が集約する場所を作った方が――」
《……お前の話は毎回長い》
「じゃあ視点を変えよう。精霊王って森の中心に留まりがちだよね。もっと端まで気配を伸ばせば水位の変化も早く掴めるんじゃない?」
《伸ばしている。……届いていないだけかもしれぬ》
「届いてないなら伸ばす意味なくない? いや伸ばし方の角度が悪いのかな。扇状じゃなくて円状に――」
《……もういい》
精霊たちは土を盛り続けていた。
水の流れを変えようと、石を並べたり土を寄せたりしていた。
一人が土を運び、一人がそれを固め、一人が水の勢いを見て指を差した。
役割は分かれているようだった。
懸命だった。
けれど精霊王の気配はその作業の中身に触れないまま、森全体をぼんやりと漂い続けていた。
近くまで寄っても、誰が何をしているのかまでは掴めていないようだった。
「てかさ」
半分くらい喋り疲れたところで、ふと口から出た。
「昨日クマに宿ったとき、ちゃんと現場見えたじゃん。なんで今日はやらないの」
《あれは昨日の話だ》
「昨日できたことを今日やらない理由になってなくない? 毎回同じことすればいいだけじゃん」
精霊王の気配が止まった。
森のざわめきが一瞬だけ静かになった気がした。
《……毎回》
「うん。気配だけで満足するの、今日だけの話じゃないでしょ」
近くの茂みで、痩せた鹿が顔を上げた。
気配がそちらへすっと動いた。
鹿の四肢に力が満ちるのがわかった。
低く跳ねて、木々の間を一直線に駆け抜けていく。
精霊たちが土を盛っていた場所へ、迷いなく降り立った。
鹿の足が水の流れる筋をたどり、盛られた土の輪郭に沿って動いた。
蹄が地面を軽く叩くたびに、水の向きが少しずつ変わっていく。
あふれていた水が一箇所に集まり始めた。
水の流れる音が静かになった。
精霊たちが手を止めて見つめていた。
集まった水はやがて丸く澄んだ泉の形になった。
水面が揺れて、光を跳ね返していた。
土を盛っていた精霊たちが、泉の縁に沿って並び直した。
誰が指示したわけでもないのに、輪の形に自然と並んでいた。
「うわ、できたじゃん。俺の一言、完全に効いたね」
《……そのようだ》
鹿の姿のまま、精霊王の気配が泉を見渡した。
「俺のやることはやった。次行くわ」
《感謝はする。……だが、いずれ我も気づいていたはずだ》
「いつ?」
《……いずれ》
「今日気づいたんだからいいじゃん」
反論はなかった。
俺は深い森を出た。
次なる宿主を求めて。
木々の隙間から、水の跳ねる音がまだ微かに届いていた。
土を踏む音が何人分も重なって、一つの方向へ揃って遠ざかっていくのが聞こえた。
「やっぱり俺、継続運用の設計が得意だわ。昨日できたことを今日もやれって言ったの俺だしね。精霊王も感謝するって言ってたし、実質俺の手柄だよ。たぶん」
森の奥から、水の音に混じって、何かを両手で抱えて運ぶような足音がいくつも続いていた。
軽い足取りだった。
急いでいるわけじゃないのに、揃っていた。
反省はゼロだった。
自己評価だけが、水音に紛れて静かに膨らんでいった。




